第2話采夏は茶が欲しい


 后妃選定面接試験とは言うものの実態は、宦官・秦漱石が、力のある家の娘を皇帝に娶らせないための選定会だ。


 健康で若く美しく、そして何よりも家柄の格が高くなければそのまま合格できる。

 采夏は年齢が上限ギリギリではあったものの、健康的な女性だ。

 見た目も悪くない。

 そして、山を越えてやってきた茶農家の娘と聞いた試験官は、すぐに合格の札を掲げた。


 采夏はその時になって初めて、これは皇帝献上茶の選定会ではないのでは……? と気づいたが、もう遅かった。

 あれよあれよという間に、身ぐるみはがされ体を清められて新しい薄紅色の襦裙を与えられて後宮に放り込まれたのだった。

 どうにか、愛用の茶道具と、自分が作った茶葉だけは確保できたが……。


「うう、市場で手に入れた茶葉を全部取られるなんて……!」

 途方に暮れた目で采夏は空を仰ぎ見た。

 憂鬱な采夏とは対照的に、空は雲一つなく青く澄み渡っている。


 利き茶で利き茶勝負を仕掛けさせて手に入れた茶葉は、

 後宮に入る前に宦官に取られてしまった。

 采夏一生の不覚である。


「どうにかして茶葉を手に入れないと、私、生きていけない」

 後宮は基本的な生活にそこまで不自由しないが、茶は嗜好品。入りたての下級妃である采夏に供されることはほとんどない。

 茶がないと生きてはいけない采夏にとっては致命的な環境だ。


 今は一人、広々とした後宮内の庭に足を運び、木々で隠れて人目の付きにくい奥まったところを見つけて腰を下ろした采夏は、己の不幸を嘆きながら、懐から布袋を取り出す。

 ここには、采夏が作った茶葉が入っているが、これはもともと皇帝献上茶の選定会に出す予定だったもの。


 だが、采夏が覚悟を決めてわざわざ都までやってきた目的―――皇帝献上茶の選定会は終わってしまった。


(まさかあの建物が秦漱石とかいう宦官の屋敷だったなんて……)

 秦漱石の名は、茶にしかほとんど興味のない采夏でもその悪名を知っているほど有名な宦官だった。

 秦漱石は宮中に自分の子飼いの組織を放し、自分に対する不満をつぶやく者を見つけたら容赦なく始末するらしい。

 現在青国では、宦官秦漱石による専横政治を行われていることは有名な話だった。

 皇帝は、秦漱石の後ろに隠れてなかなか姿も現さない引きこもり帝だと言われている。


「今更、惜しんでもしょうがないか……。もう終わってしまったのだし。それなら、飲もうかな。お茶飲まないと、もう死にそうだし」

 采夏はそう呟いて目の前の火鉢を見た。

 上に水の入った茶壺が置かれている。

 火鉢と茶壺は、女官にお願いして用意してもらったものだが、梅の花が彫られたこげ茶色の素朴な茶壺は、采夏の好みだ。

 その茶壺に注いだ水に少しばかりの気泡が浮き上がり始めたが、丁度良い温度まで湯が沸くまでまだまだ時間がかかりそうである。


 采夏は上が平らかな大きな石を卓にして、そこに持参していた手のひらにすっぽり収まるほどの小さな茶杯を置く。


 久しぶりのお茶だ。

 正直、采夏の作ったお茶は特別おいしいとは言えないが、それでもお茶が飲めると思うと気持ちがはやる。


 そう考えていた時に、スンと采夏の鼻孔を茶葉の香ばしい匂いが刺激した。

 はっと目を見開く。


(この茶葉の香りは、かなりの上物!!)

 茶に関しては獣並みの嗅覚を誇る采夏がそう推測して、どこから香るのだろうかと顔を上げた時、目の前の低木の茂みからごそごそと葉を揺らして人が現れた。

 目から下を黒い布で覆っていて顔は分からないが、恰好からして、後宮の宦官―――つまり去勢された男性だと分かった。


 灰色の官服は、宦官の階級の中でも下の方の者の証だ。


 男は、ここに人がいるとは思ってなかったようで、采夏の姿を見て目を丸くしていた。


「こんなところで、何をしている?」

 宦官はまじまじと采夏を見ながらそう問うた。


「え? 見てのとおり、お茶を飲もうとしてるところですけど……?」

「お茶……ここでか?」

 地べたに座って茶を飲む妃を初めて見たと言いたげな声色だった。

 実際、華の後宮でそんなことをしている妃は采夏しかいないだろう


「ええ、まあ、いいお天気でしたので」

 そう言って采夏は改めて宦官の男を見る。


(顔が隠れているから分からなかったけれど……結構若い人みたい)


 昔は宦官といえば、罪を犯したものが刑罰によって去勢されて無理やり後宮で労役させられているという者がほとんどだったが、宦官である秦漱石の力が強くなるにつれ、自ら進んで去勢をして宦官になりたがる者も増えてきた。

 官僚になるためには科挙と言う大変難しい試験を合格しなければならないが、宦官ならば受からなくても宮務めができ、とりあえず食うものには困らない。

 もちろん、下のものを切除するという犠牲は伴うが。


 若い宦官も増えているというのは本当なんだと思ったところで、あることに気付いた。

 先ほど嗅ぎ取った茶葉の香りはこの宦官から、匂う。


(この人が、茶葉を持っている!?)


 ぱあっと、一瞬にして采夏の脳内は茶葉に侵された。

 お茶のことしか考えられない。

 なにせこの宦官が持っている茶の匂い、采夏の経験が正しければ、それは……。


「そうか。邪魔をしてすまなかった。なら私はこれで……」

「ま、待ってください!」


 すぐに去ろうとした宦官を采夏は引き留めた。


「宦官様は、茶葉をお持ちですよね?」

「茶葉……ああ、これのことか。今朝飲もうと思ったが、忘れていてそのままだった」

 宦官はそう言って懐から巾着を取り出した。

 そして紐を緩めるとそこから、濃緑色をしたものをつまみ上げる。

 茶葉だ。


 そして宦官が何となしに掲げた茶葉を見て采夏は目を丸くした。


(あの茶葉の色、葉の形、そしてこの匂い……間違いなくあれは)


「それは、龍井ロンジン茶ですよね!?」

 龍井茶。

 昨年の皇帝献上茶に選ばれた銘茶の中の銘茶である。


 采夏は今にも涎を垂らさんばかりに口を緩め、キラキラとした瞳を茶葉に向けた。


「ああ、確かにそんな名だったか。……しかし、なんで分かったんだ?」

「それはもうこの爽やかでいて深みのある香りですぐに分かります」

 宦官は驚きの瞳で采夏を見る。

 しかし、彼女があまりにも子供のような無邪気な目で茶に見入るのがおかしかったのか、笑みを見せた。


「ふーん、茶が好きなのか」

「ええ、とっても!」

「なら、やる」

 そう言って、宦官は煎茶をポンと采夏に投げてよこした。

 采夏は慌ててそれを受け取る。

 手元から先ほど欲した茶葉の香りがどっとあふれ出てくるようで、思わず采夏は震えた。


「え、良いのですか!?」


 采夏は思わず目を見開いた。

 なにせこのお茶―――龍井茶はとても高い。

 龍井茶は、昨年の皇帝献上茶に選ばれた銘茶なのだ。

 低品質のものですらほんの一握りで、功安の都にすむ人の平均年収と同じぐらいの金額だと聞く。


 確かに今の時世において宦官の権力は強いが、それは一部の宦官、秦漱石などを筆頭とした上位の宦官達だ。

 灰色の衣を来た下級宦官である目の前の男は、それほど裕福ではないはず。

 この宦官も上級の宦官からもらった物なのだろうか。


(龍井茶をこうもやすやすと他人に譲るとか、この人正気!?)

 茶を愛しすぎている采夏には、貴重な茶葉を譲る人の気持ちが良く分からない。


 分からな過ぎて……目の前に差し出された茶葉を受け取れずにいた。

 思わず額に冷や汗をかく。


 しかし采夏はこの茶葉が欲しい。

 これを今沸かしている途中の湯で淹れていますぐ飲みたい。

 とても飲みたい。

 それはもう喉から茶壺がでてきてそこに茶葉をしまいたくなるほど飲みたい。


「別に遠慮しなくていい。そもそも俺は茶が好きじゃない。龍井茶もだが……茶は苦い。健康のために飲んでいるだけだ」

 宦官の言葉で、先ほどまでの迷いがどこかに飛んでいき、采夏は思わず眉をしかめた。


(龍井茶が、苦い……?)


「それは、何かの勘違いではございませんか? だってそれは、皇帝献上茶にも選ばれた銘茶ですよね?」

「確かにそうだが、茶は茶。どうあがいてもただの茶に過ぎないだろ」

 当然とばかりに言う宦官の言葉に、采夏は目を見開いた。



(『どうあがいてもただの茶に過ぎない』ですって……?)


 采夏は目をカッと見開いた。


「いいえ!! お茶には無限の可能性があります! 時には、人の心を癒し、時には励ます。最上のお茶は、人を極楽へと導く橋渡しになるでしょう」


「……極楽への橋渡し? 大層なこと言うな。だが俺は未だかつてお茶を飲んで極楽を味わったことなんてない」

 そう言って少々意地悪く馬鹿にするようにハハと笑う。

 そして再度口を開いた。


「確かにこの龍井茶は良い茶だとは思うがな。お茶なのに多少の甘味がある。……だが、それだけ。全ての物事には限界があるんだ。所詮はこれも、茶。喉を潤し、少々は気分を良くすることも可能でろうが、そこまでだ。そのものがもつ領分以上のことは、出来ない」

 宦官の声は苦々しい響きを有し、何故か自嘲するような笑みさえ浮かべている。

 どこか、何かをあきらめたかのような顔。


 彼が何故そのような顔をするのか、采夏には分からない。

 分からないが……彼には、『お茶』が必要なことだけは、はっきりと分かった。


 と言うかその前に、彼のお茶に対する姿勢が、そもそも采夏は気に食わないのである。


 采夏の耳に、ふつふつと火鉢に掛けていた湯が沸く音が響く。


 丁度いい、そう思った。


「私と一緒にお茶をしませんか?」

「お茶……?」

「全ての物事に限界があるとおっしゃいますが、世の中に限界というものは意外にないと私は思っております。少なくとも、茶に関しては。私は茶の魅力に果てを見たことはございません。……その証拠に、私が、極楽に連れて行って差し上げます」

 采夏はそう言って、強気な笑み浮かべた。


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