第3話黒瑛はお茶を飲む

 男は、采夏の誘いに乗り、彼女にならって地面に腰を置いた。

 そのことに男―――黒瑛は我ながら驚いていた。


 戸惑う黒瑛のことを知ってか知らずか、采夏は粛々と茶の準備を行っている。


(なんか変なことになっちまったな。まさかこんなところで后妃と茶を飲むことになるとは……)


 戸惑う黒瑛の耳に、ふつふつと静かに湯が沸きあがってくる音が聞こえて茶壺を見た。


 茶壺の湯に少しばかりの気泡が沸きだしたところだった。

 そこに采夏が瓢箪で作った柄杓を使ってお湯をすくいだしてわけた。

 そしてそのまま茶壺の湯が沸くのを待つ。


(あれは、何をしているんだ? 一度沸かした湯をわけた……?)

 采夏の行動に、黒瑛は小さく首を傾げた。


 黒瑛が知るお茶の作り方は、熱湯を沸かした茶壺に茶葉を入れて煮出すやり方だ。

 黒瑛の知る宦官達は皆そうしている。


 そして宦官達のことを思い出して、あの忌々しい秦漱石の顔まで脳裏によぎり気持ちが重くなった。


 秦漱石。

 秦漱石は、皇帝の側仕えの宦官でありながら、皇帝をさしおき青国の実権を握っている。

 今の皇帝は、秦漱石の傀儡だ。


 秦漱石は、四代続けて年若い皇帝を擁立し、自分の権力を保持し続けてきたが、二代続けて皇帝は早世している。

 早世するのは決まって、皇帝が己の権力を主張し、敵対の姿勢を示した時だ。

 秦漱石が傀儡になれない皇帝は不要とばかりに、殺めているのは明白だった。

 誰もがそれを知っているのに指摘できないでいるのは、それほど秦漱石の力が強いからである。


 黒瑛が物思いふける中、采夏は釜の中に茶葉を投入した。

 先ほど、黒瑛が采夏に与えた龍井茶だ。


 踊るように茶葉が釜の中で旋回する。

 そしてゆっくりと、茶独特のふくよかな香があたりに広がってゆく。


「さすがは龍井茶です。一瞬にして場を制するほどの香を持ちながらも嫌みがなくて上品。しつこさもない」


 うっとりとした顔で采夏がそう言うと、釜の湯がさらに煮立つ。

 采夏はすかさず先ほど柄杓で掬っていた湯を釜に戻してまた煮立たせ、火を消した。

 黒瑛は再び目を見張る


「もう沸かさないのか? 茶と言うのは熱湯でよく煮出すものだと思ってたが」

「……龍井茶はそれほど煮出さなくとも、香りも味も十分に引き出せる素晴らしい茶葉でございます」

 采夏はそう言って、石の卓の上に並べられた小さな茶杯に茶を淹れる。どうやら完成したらしい。


 完成した龍井茶を見て、再び黒瑛は目を見張った。


(いつも飲んでいるのと色が違う……)


 いつも飲んでいる龍井茶は、もっと緑が強く茶色に近かったが、采夏が淹れた茶の色は淡い、本当に淡い黄色。

 ほとんど透明に近いと言ってもいい。


(色味は薄いが、妙に引き付けられる……。この香りのせいか? 体中から今目の前のこの飲み物を欲しているみたいだ)


 黒瑛はこの不思議な感覚に戸惑いながらもゆっくりと口をつけた。


 最初にやってきたのは、緑茶独特の青々しい苦味。

 しかしそれはすぐに舌の上を春風のように吹き抜けて、残ったのはとろりとした甘味だった。


「甘い……」


 思わず口に出した。


 黒瑛は緑茶を飲んで、これほどまでに甘いと感じたことはなかった。

 薬としても使われる青国の緑茶は、苦くて当たり前。

 良薬口に苦しの言葉の通りだ。

 黒瑛は、そう思っていた。


 だが、今飲んだ茶は、甘い。

 しかもくどくどとした甘さではない。

 爽やかだ。

 草原の中で、日向に当たりながら寝転んでいるかのような……。

 うっとりするように目を閉じると、黒瑛は魂だけがどこか別の場所に飛ばされた―――そんな気がした。


 心地よい春の風を感じる。


 夢の中のような心地の中で、そよそよと柔らかい草が肌を優しくなでる感覚がする。

 恐る恐る目を開けると青々とした雄大な山が見えた。

 その山から吹き下ろしてきた風の中に清涼な香りが混じる。

 あの山は茶木の山だ。

 春の陽気に誘われて顔を出した茶の新芽が見える。

 新芽は風にさらわれて、茶碗の中に溶け込んだ。香とともに。


 そうかこの香は春を待ちわびた新芽の香り……。

 体中に染み渡る温かさは、春の日差しだ。


 風に乗ってやってきた香は奥が深く、果てがない。

 そう、果てがない。


 夢うつつの心地の中、手元の茶杯に目を移すと先ほど飲み干した茶が、再び注がれていた。

 采夏が淹れてくれたのだろう。


 黒瑛は再び二杯目を煽る。


 温かい。体中がほぐれてゆくようだ。

 そして三杯、四杯……。


「……何故、こんなにも味が違うんだ? 今まで飲んだものと同じだとは思えない」

 静かに茶を飲んでいた黒瑛は、そう呟いた。


「茶葉は、熱湯で煮出しますと、苦味や渋みが多く出されるのです。

 恐れながらあまり苦味が得意でないようでしたので、低温で煮出して茶を淹れました。

 低温でお茶を淹れると、苦味が抑えられる分、甘味を強く感じます」


(温度で? なら茶葉を煮る時、途中でお湯を柄杓で掬ったのは、茶壺の湯が熱くなりすぎないように温度を調整するためか。だがそれだけでこんなに違うものなのか……?)


「……信じられない。本当に、低温で煮出しただけか? 香りも何もかもが違う」


「陛下は、今まで熱く煮出したお茶しか飲まれなかったのでしょう。戸惑われるのも無理はありませんが、

 お茶は淹れ方次第で、大きく味や香りを変えます」

「淹れ方でこれほど……ん?」

 采夏の説明を聞きながら茶について考えていた黒瑛は、顔を上げた。


「……さっき、陛下って言わなかったか……?」

 黒瑛がそう言うと、采夏は地面に手を突き頭を下げた。


「誠に申し訳ありませんでした。私は下級の宦官だと勘違いをしてしまいまして、大変無礼な振る舞いをしてしまいました。どうかご容赦を!」

 深々と頭を下げる采夏を見下ろしながら、黒瑛は目を見張った。

 いつの間にか、皇帝であることがばれている。

 何故、気づいたのだろうか。


 引きこもり帝の二つ名通り、皇帝としての黒瑛はずっと寝殿に引きこもっており顔を知っている者はほとんどいない。

 皇子時代でさえ、出涸らし皇子と呼ばれるほど宮中の者には嫌われ、外で好き放題遊びまわっていた。

 入りたての下級后妃が皇帝の顔を知っているはずはなかった。


「いや……顔を上げろ。いや、なんつーか、勘違いも何も、俺が今着ているのは下級宦官服だ。ぎゃ、逆に、どうして俺が皇帝だなんて思ったんだ?」


「いくつか理由がありますが、まず陛下がお茶のことを『薬』だとおっしゃったことです。お茶は元々は不老不死の薬として宮中で重用され、皇家に献上されてきました。ですが今ではほとんどの方にとってお茶は嗜好品の一つです。薬として飲まれているとなると、薬として献上されてきた歴史を持つ皇家に近しき者なのかと推測しました」


「く、薬と思っているわけではなく、ただ苦いから、薬みたいだなと、そう思っただけで……」


「そしてもう一つは、陛下がお茶を苦いと評したことです。

 茶を薬として扱う皇家の方々は、効能を十分に引き出すために熱湯で煮出し、熱いうちに飲むのが通例だと聞いたことがあります。先ほども申しましたが、熱い湯で淹れたお茶は渋みや苦味が強く出る傾向にあります。これほどの良い茶葉を持ちながら、苦いお茶しか知らないとおっしゃったことで引っかかりました」


 まったくもってその通りだったために、とうとう黒瑛は口を閉じた。

 言われてみるとなんと迂闊なことをしただろうか。

 何ともいたたまれない。

 そして采夏はさらに追撃するように口を開ける。


「そして、一番の理由は、陛下が持っていたこの茶葉が龍井茶だからです。龍井茶は我が国の銘茶中の銘茶……し、しかも……」

 先ほどまで淡々と語っていた様子の采夏だったが、ここにきて体を震えさせ始めた。

 そしてカッと目を見開く。


「この龍井茶はっ!! 明前のっ!! 龍井茶っ!!」

 そう叫んだ采夏の目は爛々と輝き、顔色が照り輝いている。

 そしてしばらくハアハアと息継ぎした後、ゴクッと唾を飲みこんでまた口を開いた。


「清明節より前に摘まれた茶葉だけで作られた最高級の龍井茶なんですよ!? それを清明節が明けたばかりの今飲むことを許されているのは、皇帝陛下しかいないじゃないですか! ああ! 陛下! このような希少なお茶を飲む機会を与えてくださりありがとうございます!」

 采夏が前のめりでその感動を伝えると、その迫力に押されて思わず黒瑛は背を少々のけ反らせる。


 黒瑛は自分のことで頭がいっぱいで目に入っていなかったのだが、よく見ると采夏の近くにあった茶壺が空だった。

 黒瑛自身も飲んだがあの大きな茶壺に入っていた茶を全て飲み尽くしたとは考えにくい。

 おそらく采夏が飲み干したのだ。


 あっけにとられた黒瑛の反応を見た采夏が焦ったように口を開く。


「あ、すみません、ついつい飲み過ぎてしまいましたけど、しかし飲んでしまった龍井茶はもうお返しできませんのでご承知ください。吐き出せと言われても、吐き出しませんのでご承知ください」

「いや、別に、吐き出さなくていいんだが……むしろ吐き出さないで欲しいんだが……」

 鼻息を荒くする采夏だが、黒瑛にとっては茶が飲み干されたことは大した問題ではない。

 問題は、自分が皇帝であることがばれたことだ。


(そうか、確かにこれは皇帝献上茶だったな……迂闊過ぎる。いやしかし、まさか、茶を飲んで銘柄を当ててくる妃がいるとは思わないだろ)


 黒瑛は、己の迂闊さに嘆き、采夏の嗅覚に脅威を覚えつつ負けを認めた。


 采夏の言う通り、下級の宦官に扮してはいるが、黒瑛こそが引きこもり帝と呼ばれる青国の第九代皇帝その人であった。

 皇帝であるにもかかわらず、自分の耳には宦官からの嘘の入り混じった報告しか入らないため、たまに自ら宦官などに扮して世情を探っているのだ。


 そう黒瑛には、野心がある。

 あの憎い秦漱石に復讐をするという暗い野心が。


 先帝であり、黒瑛の実の兄である士瑛は、秦漱石によって殺された。


 兄の士瑛は文武両方に優秀で、仁に厚くよく慕われていた。

 だからこそ、秦漱石に反発し……殺された。

 そうあの出来の良い兄でさえ、秦漱石には敵わなかったのだ。


 そして母である永皇太后は、次に帝位に就いた黒瑛に愚かなふりをして己が身を守るように助言をした。

 故に黒瑛は政に興味がないふりをし引きこもり帝と呼ばれることになったが、黒瑛はこのまま秦漱石をのさばらせるつもりはない。


 まずは秦漱石に奪われた権力を取り返し、兄の敵を討つ。


 だが、元々ただの商家の娘だった母に力のある親類はおらず、志正しく有能な官吏は秦漱石によって尽く排除されていた。

 加えて帝位からは程遠い位置にいた黒瑛は、ろくな教育も受けておらず、兄の士瑛のように出来が良くない。

 下町の不良たちと付き合って悪さしていたこともあり、口調も性格も少々粗暴で宮中では、兄に良いところをすべて吸われた『出涸らし皇子』などという不名誉な呼び名があったほどだった。


 士瑛は破れ、今宮中にいる者のほとんどは、秦漱石におもねる者達ばかり。


 どうにかして政権を取り戻したいが、苦戦を強いられているのは明らかで、黒瑛でも、最近は優秀な兄でもできなかったことが、自分にやれるのかと思うことが多くなった。


 采夏に向かって、『何事にも限界がある』と言ったのは、その想いが強くなってきたからだろう。


 名ばかりの皇帝。出来そこないの弟。出涸らし皇子。引きこもり帝。

 自分にできることなど、ほとんどないに等しい。


 そう思っていた。だが……。


 黒瑛は先ほど空の茶杯に目を向ける。

 先ほどまで飲んでいた茶の味を反芻(はんすう)した。


「……俺が、宦官に扮していたことは、悪いが秘密にしてもらえるか?」

 黒瑛は軽く口元に笑みを浮かべて采夏にそう言った。


「そう望まれるのでしたら、もちろんそうしますが……」

 そう言って不思議そうな瞳を黒瑛に向ける。

 何故そのようなことをしているのか、そう思っているのだろう。

 その瞳に黒瑛は己の失敗を恥じつつ苦く笑った。


「できれば理由も聞かないでくれ。その代り、残りの茶葉はやる。口止め料だ。もらってくれるな?」


「龍井茶を……!? 口止め料ということなら、遠慮なく! もちろん、陛下の命とあらば、誰にも言いませんとも!」


 そう言って采夏はぐっと唇を内側にかんで、口が堅いことを主張した。

 茶葉がもらえることが相当嬉しかったらしく、頬が紅潮している。

 その幼げな仕草に、お菓子を餌に言うことを聞かされる子供の姿が連想されて思わず黒瑛は綻んだ。


「お前、名前はなんていうんだ……?」

 後宮での人との関わりを極力なくしていた黒瑛だったが、気づいたらそう口にしていた。

 とても気分がいいからだろうか。

 あのお茶が口の中を潤し、軽やかにしたのかもしれない。


「私は、采夏と申します」

「采夏。良い名だ」

 黒瑛は采夏の名をゆっくりと口にした。

 基本的に寝殿で引きこもる黒瑛にとって、彼女の振る舞いは新鮮だった。

 それになにより気づかせてくれた。


 上手くいかないことばかりが続き、自分で自分の限界を作りあきらめかけていた黒瑛に、まだできることはあるはずだと、そう、思うことができた。

 なにせ、お茶でさえ淹れ方の違いでこれ程までに変化を遂げることができるのだから。


「……感謝する」

 そう言って黒瑛は、何か柔らかなものを感じながら思わず微笑みを浮かべていた。



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