定食屋『桜の花』

連絡先を交換し、木村はオフィスを出た。タクシー代としてもらったが、特に急ぎでもなかったのでタクシーではお金が勿体無いと思い、普通に電車で帰る事にした。少しお腹が空いてきたなと木村がスマホを確認すると時刻は1時半だった。


(1時半か……ギリギリ間に合うかな)


木村が最近通っている定食屋『桜の花』。そこのラストオーダーがたしか2時だったと記憶していた。

木村の住んでいる 1K のアパートの近所に2階建ての建物があり、そこの1階が定食屋となっている。細長い店内で、カウンターが4席と4人用テーブルが3台。30代に見える女性が料理を作り、20歳前後に見える女性がウエイトレスとその他の雑用をしている。雰囲気からは親子の様だが、それだと年齢的に無理がある。姉妹なのか従姉妹いとこなのか、もしくは全くの他人なのか、判断が難しい。大通りから少し入った場所にあり、知らない人は入り難いかもしれない。定食屋としては立地条件が悪く、客足が伸びそうにないが、そこそこの味と値段の安さで、ほぼ満席になるのが通常だ。

木村が定食屋『桜の花』に着くと、時刻は2時を少し回ったところだった。暖簾をくぐり、ドアを開けて、木村は女性店員に尋ねた。

「まだいけますか?」

「大丈夫ですよ、いつもの日替り定食で良いですか?」

「お願いします」

カウンター席に1人、テーブル席に2組と全員で8人の客が入っていたが、料理を待っている間に、順番に全員が会計を済まして出ていった。今日はいつもより客が少なかったのかも知れない。

女性店員が定食を持ってくる。

「日替り定食です」

「ありがとう」

「今日はいつもより遅いですね」

「あ、ええ、ちょっと遠出したもので」


木村はかなり動揺した。と言うのも、あまり良くない容姿の為、女性が木村に声をかけてくる事は中々無いからだ。店内に客が誰もいないという状況も関係しているのだろう。まあ、目立つ顔なので覚え易いというのは間違い無い。店員はそんなに美人と言う訳では無いのだが、いつもニコニコしていて、愛想がよく好印象だ。150センチ強のやや小柄な身長で太くも無く細くも無い。艶のある黒髪のショートヘアで、目も鼻も口も小さめと上品な印象を受ける。いつも茶色の三角巾とエプロンをしていて、今日は白いブラウスに黒いジーンズ姿だ。高校生にも見えるが、恐らく、若く見られる20歳過ぎぐらいだろうと木村は思っていた。木村がここの店の常連客になったのも、この女性を気に入っているというのが理由の1つだ。

今、客が誰もおらず、デートに誘うチャンスだと木村は思った。普通の人であれば断られたらどうしようとか思い、ウジウジしている間にチャンスを逃してしまう。チャンスの神様には前髪しか無いという話はよく聞くだろう。去ってしまえば、後ろ髪が無くツルツルで掴むところが無いのだ。だが、木村は優柔不断では無い。決断力と行動力がある。チャンスと思えば、神様の前髪だろうと遠慮せずに掴めるタイプだった。とは言っても、普通、木村の様な容姿だとネガティブな発想になってしまうだろう。だが、木村の思考は違っていた。この容姿の為、断られるのは当然として、この愛想の良い女性がどのような断り方をするかに興味があった。ただ、誘った後、断られてしまうと、気まずくなりこの店には2度と来れなくなってしまうが、その辺は問題無い。木村は新しい店を開拓するのが趣味だ。他の定食屋を探せば良い。

普通の男性であれば、断りにくい状況を作って女性を誘うのだが、木村は、迷惑が掛からないように断りやすいよう誘おうと考えた。

小声で「すみません」と女性店員に声を掛けると、女性店員は追加注文かという雰囲気で「はい」と笑顔で振り向いた。ラストオーダーの時間は過ぎているが、愛想良く対応してくれている。


「今日の夜、空いてたら一緒にディナーとかどうですか?」

「今日ですか?」

今日は予定が入っていて、と言えば簡単に断れる誘いだ。女性店員は笑顔で答える。

「良いですよ、美味しいもの食べさせてくれます? ふふふ」

「分かりました。今日は臨時収入があったんで奢りますよ」

「ほんとですか? やった~」

「じゃあ、店の片付けがあると思うんで、終わったら、こちらへ連絡してください」

木村は手帳の空白ページに電話番号を書いてちぎって渡した。それを女性店員は両手で丁寧に受け取る。

「分かりました」

「では、待っています。ご馳走様でした。レシートは要らないです」

ちょうどのお金を渡し、そそくさと店を出た。

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