9話 「時間がないんだよ」

 つい最近まで彩央学園前に咲き誇っていた桜は、いつの間にか緑色の葉に生い茂られていた。

 老婆は校門の前に立ち尽くし、ゆっくり空を眺める。今日は暑くも寒くもない、良い天気だ。

 少し深呼吸をしていると、校門の向こう側から誰かがやってきた。

「おや、これはこれは、前理事長」

 優し気な雰囲気の高齢男性がにこやかに挨拶をしてきた。彼のことは、自身がまだ理事長だった頃から良く知っている。

「なんだ、畑中かい」

 彩子はつまらなさそうに返事をした。

 畑中の手には大きなゴミ袋と、もう片方の手にはゴミ拾い用のトングが握られている。肩にはタオルが掛かっており、しきりに頬から垂れている汗を拭っている。

「ご無沙汰しております。今日は学校に御用で?」

「いや、近くを通りかかったから、ちょっと見に来ただけさ。そういうアンタはゴミ拾いでもしてきたのかい?」

「ええ。学校の周りの、ね。相変わらずポイ捨てが多くて困りますよ。生徒たちが捨てたものじゃないと信じたいですけどね……」

「フンッ」彩子は鼻で笑った。「世の中にはね、好き勝手に何かを捨てる人間がいるもんだよ。物でも、人でも、ね。ウチの生徒だって、例外じゃないだろうさ」

「はは、確かにそれは否定できませんね」畑中は薄笑いをした。「でも、中には捨てたくて捨てたわけではない人も、いるかも知れませんよ。ほら、これ」

 畑中はゴミの中から一枚の紙を取り出した。

 テストの答案のようだが、字体からして小学生のようだ。見事に赤丸ばかりで、百点満点の文字が誇らしげに書かれている。

「本当ならこの子はきっと、百点を自慢したかったに違いありませんよ。けど、多分風に飛ばされてしまったのでしょうか……。こうして虚しく忘れ去られてゴミにせざるを得なくなった物もあるわけです」

 彩子は黙り込んだ。

 そして、そのまま踵を返して歩き始めた。

「アタシはそろそろいくよ……」

「ええ、また来てくださいな……」

「それと、その答案……。多分、彩央南小学校の児童のものだろうから、アンタが届けてあげな。そして、次は飛ばさないようにって言ってやんなよ」

「……そうですね。そうしておきます」

 それだけ言った後、彩子は黙って再び歩き出した。

 ただ、途中で一度振り向き、その答案をもう一度遠目に見つめる様を、畑中は不思議そうに見ていた。



 病院に一台の車が停まると、扉から杖をついた女性がゆっくり降りてきた。

 手には白い花束を持ちながら、ゆっくりと歩いていく。院内に入り、受付を終えるとエレベーターで二階に上がり、ゆっくりと端の方の病室まで歩いていく。

 二〇五号室と書かれた部屋に入り、中を一瞥した後に静かに入る。

 ベッドの中には一人の男が横たわっている。彼女は手に持った花束をそっと置き、彼に顔を近づけた。

 昔は筋骨隆々としていたその顔つきも、今では萎んだ果実のようにすっかり瘦せ細っている。微かに聞こえる寝息も、彼が昔に発していた野太い声からは想像できないほどに弱々しい。

「ホント、弱っちまったねぇ……」

 彼女――茶谷垣内彩子は彼に向かって、そう呟いた。


「その人、昔はどんな人だったんですか? 前理事長」


 突然背後から聞こえた声に、彩子ははっと我に返り、後ろを振り向いた。

「誰だい⁉」

 そこにいたのは、赤いヘアバンドをした、見覚えのある少年――あの恋愛審査委員会の委員長、灰場遼太郎だった。

「やっぱ、アンタだったんですね。この人のお見舞いにちょくちょく来ていたのは」

 彩子は一瞬言葉に詰まるが、睨みつけてなんとか威嚇した。

「何でアンタがここにいるんだい⁉ 今は授業中だろ⁉」

「あー、朝から腹が痛かったもんで、病院に来たら、ついうっかりこの部屋に来ちゃって」

 見え見えの嘘をついた遼太郎のふざけた態度に、段々彩子は腹が立ってきた。

 しばらく睨みつけていると、病院の奥から誰かの走ってくる足音が聞こえてきた。その音が病室の前で止まったかと思うと、これまた見覚えのある顔が現れた。

「遼ちゃん! やっぱりここに来てた!」

「お前、授業は? サボりとか良くないぞ」

「遼ちゃんだけには言われたくないよッ!」

 病院にも関わらず、大声で緋音がツッコミを入れた。

 彩子ははぁ、とため息を吐いて、再び二人を睨みつけた。

「で、何でアタシがここに来ているってことが分かったんだい?」

 彩子が尋ねると、遼太郎は数歩だけ病室に入った。

「そのカーネーションですよ。白いカーネーション。普通、病院のお見舞いに白一色の花束を持っていくのはマナー違反です。で、唯一の肉親である畑中のおっちゃんに聞いたら、どうも別の人が置いたものだって言ってました。それでおかしいなって思ったんです」

「それだけで、かい?」

「ええ。それで、調べてみたんです。白いカーネーションの花言葉は、『私の愛は生きてます』」

 ギクリ、と彩子は目を丸くした。

「それじゃあ、このカーネーションを贈った人って……」

「もしかしたら生き別れた恋人、なんじゃないかって。で、張り込んでいたら、案の定ですよ。アンタが白いカーネーションを持ってやってきた」

「……わざわざ学校をサボってまで、かい?」

「畑中のおっちゃんが絶対に来ない時間――つまり、おっちゃんが仕事をしている時間に来るだろう、って予想したんですよ。学校であんなことを言った手前、少なくとも関係者に見られたくはないだろうと思って」

 彩子は言葉を噤み、少し憔悴しきった様子で椅子に座った。

「……やれやれ」

「やっぱり、前理事長の恋人だったんですか?」

「あぁ……」悲し気な様子で、彩子は尖っていた目を緩ませた。「かつて結婚の約束をしていたのがこの男だよ。ずっと離れ離れになって、五十年……。もう彼のことを忘れようと何度も思った。他の男と結婚して、子どもを設け、旦那が亡くなって、ようやく忘れようかと思った矢先に、偶然この病院に入院していることを知ってしまってね。まさか、こんな近くにいるとは思わなかったよ」

「それで、何度もお見舞いに来ていたんですか?」

「そうだよ。あたしも見て見ぬ振りして忘れようかと思ったけどね、どういうわけか出来なかった。彼のほうはもう、あたしのことなんて忘れちまったみたいだがね……」

 緋音はそのまま黙り込んだ。

「それはないと思いますよ。だって、その写真……」

「あぁ、これかい。確かに、この写真を時折眺めては不思議そうな顔をしていたっけね。まぁ、そこに写っているのがあたしだとは気付いていないようだけど」

 遼太郎もそのまま黙り込み、訝し気な顔をした。

「じゃ、じゃあ、それじゃあ……」

「おっと、このことに気が付いたからと言って、あたしと彼との恋愛が繋がったなんて思わないことだね」

 精一杯の声を発しようとする緋音の心境を悟ったのか、彩子は強く念押しした。

「でも、こうして再会できたのに……」

「正直嬉しかったさ。離れ離れになった恋人がこうして見つかったのは。でもね、彼はあたしのことなんか覚えていない。それに……」彩子の顔が段々悲しそうになってきた。「もうね、時間がないんだよ――」


 ――えっ?

「時間がないって、まさか?」

 緋音がそう尋ねると、彩子は静かに首を振った。

「彼はね、もう長くないって、医者が言ってたよ。良く持って半年、ってところだね」

「そんな――」

 緋音は再び口を噤んだ。

 ようやく再会できた二人なのに、もう時間がない――。諦めてしまった恋なら、そのまま諦め続けたほうがどれだけ楽なのだろう。緋音は胸をぐっと抑えた。

「分かったかい? もうあたしの恋に、意味なんてないんだよ。もう、時間が止まっちまったままさ。赤い糸とやらが見えたって言ってたけど、そんなもん繋がったところで――」

「……ふざけんなよ」


 ――え?


 遼太郎が静かに発した言葉に、緋音は目を丸くして驚いた。

「時間がないから恋愛を諦める? ふざけんじゃねぇッ! 例え一分一秒でも、好きな人と一緒にいられる時間があるってことを何で喜べねぇんだよッ!」

 遼太郎がいつになく剣幕になった姿に、緋音も彩子も呆然としている。

「遼ちゃん……」

「人間、いつ死ぬか分かんねぇんだよ。だから、今この時を大事にしねぇで、時間が止まったままだとか言ってんじゃねぇよ……」

 段々遼太郎の怒りが弱まってくる。

 ――泣いている?

 ふと、緋音は遼太郎の亡くなった恋人のことが脳裏に過ぎった。


 いつまでも続くと思っていた、恋人。

 それが突然の事故で亡くなってしまった。

 遼太郎は既に経験しているのだ。大事な人を失う辛さを――。

 だからこそ、諦めた彩子のことが許せないのかも知れない。


「……どんだけ言われても、あたしの気持ちは変わんないよ」

「あぁ、そうかい。俺は別に構わねぇんだよ。アンタが諦めようが、ウチの学校が恋愛禁止に戻ろうが」

「ちょっと遼ちゃん……」

「でも、ひとつだけ言っておくぜ。このままだと、アンタとその人の間に、“黒い糸”が繋がってしまうぜ」



 ――えっ?


 ――黒い、糸?


 突然出てきた新しい言葉に、緋音は眉を顰めた。

「黒い糸、だって?」

「あぁ。俺が見えるのは赤い糸だけじゃない。二人の間に見える、“最悪の恋”を意味する糸も見えるんだよ」

「そ、そんなのが……」

「いたずらに不安にさせるだけだからコイツのことは伏せておいたがな。アンタとその人の間には、赤い糸と黒い糸の両方が見えている。今のままだとアンタの赤い糸は消えて、黒い糸が繋がってしまうぜ」

 彩子は何かを考えるかのように黙り込んだ。

「さぁ、どうする⁉ もうこうなったら黒い糸を断ち切れるのは、アンタ自身しかいない。残りの半年を最高にするか最悪にするかは、アンタで決めなッ!」


 ――遼ちゃん。


 前理事長相手にここまで強く言い切れる遼太郎に、緋音は感心した。おそらく、彼はもう恋愛禁止の件よりも、純粋に彼女の恋愛を考えているのだろう。

「ふっ……」彩子はやれやれ、といった様子で息を漏らした。「全く、アンタだけには勝てないねぇ……」

「前理事長……」

「なぁ、守彦さん。目を開けておくれ。あたしに勇気がなかったばかりに、その写真の女性があたしだって打ち明けられなくて……、すまない。こんなあたしのことを許してくれとは言わない……。ただ、これだけは言わせておくれ。あたしは今でも、アンタのことを、愛しているよ……」

 涙声になりながら、彩子はそっと顔を守彦に近付けた。


 その時――。


「さ……、さいこ、さん……」

 弱々しい男性の声が、そっと彼女の耳元に聞こえた。

 寝ていた男性の目がうっすら開き、彼の右手がそっと彩子の頬に触れる。

「もりひこ、さん……」

「相変わらず、別嬪さん、だなぁ……。君みたいな女性に、愛されて、オレは、幸せ、だよ……」

「守彦さん……」

 彩子は守彦の手を握りしめ、ずっと泣いていた。


「……繋がったな」

「遼ちゃん、繋がったって、まさか……」

「あぁ。二人の赤い糸が繋がった。勿論、黒い糸もないぜ」

 緋音はほっと胸を撫でおろし、「良かった……」と呟いた。

 二人を静かに眺めながら、遼太郎は病室内に入っていく。

「さて、生徒じゃないから本来はこういうことをやるのは無意味なんだけど、まぁ一応、形式的にやりますか」

 そう言って、遼太郎は懐から一枚の紙を取り出した。

「……何だい?」


「茶谷垣内前理事長。そして、緑川守彦さん。恋愛審査委員会の名の下、両名の恋愛を、許可する――」


 しばらくの沈黙――。


 ただ、重いものではなかった。

 彩子と守彦は遼太郎に向かって、ただ黙って優しく微笑んだ――。


「ありがとう……」

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