7話 「一体誰だッ⁉」
午後一時二十八分。
布施家に固定電話が鳴り響く。春奈の父親は仕事、母親はパート、そして娘は学校に行っているために家には八十過ぎの祖母しかいない。
少し弱った足でなんとか電話まで向かい、受話器を取った。
「はい、もしもし。布施ですが……」
『あ、布施様のお宅ですね。私、弁護士の
受話器の向こうから若い男の声が聞こえる。
「あの、弁護士さんがどのような御用で?」
『えー、お孫さん……
「……はい、そうですが。あの、夏樹が何か?」
しばらく実家に顔を出していない長男の名前を出され、年老いた祖母はしどろもどろになる。
『実は先日、彼が不注意で車の接触事故を起こしまして、乗っていた相手方の車にも全治三か月の怪我を負わせた次第で……』
「ええっ⁉ あの、夏樹が……申し訳ございません」
『まぁ、命に別条があるわけではありませんから。ただ、相手方が相当激怒していて……。仕事が三か月出来なくなった、治療費と併せて慰謝料の三百万を欲しいとのことで……』
「三百万⁉ そんな大金……」
『これでもなんとか譲歩したのですが、この金額が精一杯だったもので。それで、今から言う振込先に今日中にお金の方をお願いしてもよろしいでしょうか?』
――そんな急に言われても。
そう思ったが、彼女には孫が父親と喧嘩した際に味方になってあげられなかった負い目がある。本当ならきちんと話を聞いてあげたかったのだが、それもできずに終わってしまった。
仕方がない。三百万は大金だが、ないわけではない。元々は彼が大学に行くために年金をやり繰りしながら貯めたものだ。
「わ、分かりました……」
『申し訳ございません。では、振込先なのですが……』
老婆は弁護士と名乗る男が言った振込先のメモを取った。男はそのまま「よろしくお願いします」彼は特別に何も言わず電話を切ってしまった。
一度呼吸を整え、彼女は銀行に向かうために杖を取りに行こうとした。
――その時、再び電話が鳴った。
「これでよし、ですね」
「おっ、上手くいったか?」
「ええ、あの様子ならすぐに振り込みに行きそうですね」
「よしよし、馬鹿弟のせいで手こずってしまったが、なんとか金は入りそうだな」
茶髪の長身男、財前冬彦はニヤリと余裕の笑みをこぼした。
このまま順調にあの老婆が振り込みに行けば、翌日にはこちらが拵えた偽物の口座に反映される。
弟に孫娘から情報を聞き出させる方法を取ったが、思うように情報は得られなかった。もっと精査しておきたかったところだが、そろそろ警察に目を付けられかねないと悟ったので計画は急ぐことにした。金を手に入れるだけならこれだけで充分だという確信もあった。
「さて、明日が楽しみだ……」
冬彦たちはメンバーと一緒に高笑いが止まらなかった。
「さて、明日どうなるか……」
「……大丈夫、かな?」
緋音は不安そうに、遼太郎を見据える。
「さてね。とりあえずやれることはやったからな。あとは先輩の良心次第、としか言えないな……」
「うん……」
不安な気持ちをなんとか鎮めようと、緋音は春奈の顔を思い浮かべた。
――先輩、あなたが本当に春奈のことを好きなのなら、お願いします!
――絶対に、正しい答えを、導いてください。
――春奈をどうか、悲しませないでください。
翌日。
学校を終えたアキラは駆け足で商店街へと向かっていった。
――どういう意味なのだろう?
昼間、灰場遼太郎がアキラのクラスに現れて、こっそり耳打ちをした。
『学校が終わったら、ATMで通帳の記入してもらっていいですか? それが終わったら公園の方に来てください』
一体全体、まるで意味が分からなかった。彼の顔が少しニヤついていたように感じたが、とりあえずは言われるがままにATMで記帳をした。
『通帳の記入が完了しました』
無機質な音と共に、通帳が機械から出てくる。どういうことなのだろうと、彼は通帳に記載された文字を見た。
――えっ?
見た瞬間、アキラは唖然と身体を硬直させた。
これは一体、どういうことなのだろうか。
急いで彼は公園の方へと駆け出して行った。
「はぁ、はぁ……」
息を切らしながら、アキラは公園へとたどり着いた。かなり広い公園だが、おそらくはクレープ屋があるエリアだろう。
周囲にはキッチンカーがある以外は特に誰もいないようだ。少なくとも灰場遼太郎の姿は見えない。
「な、なんなんだよ……これ……」
なんとか息を整え、もう一度周囲を見渡した。
「おい、アキラッ!」
背後から、聞き覚えのある声……いや、聞きなれた声に呼ばれた。
「あ、兄貴……」
自分の兄、財前冬彦がどういうわけかここにいた。ますますこの状況に混乱が生じ、アキラは言葉を失った。
「お前も灰場遼太郎って奴に呼ばれたのか?」
「灰場……ってことは、まさか兄貴も?」
灰場遼太郎、彼は一体どういうつもりなのだろうか。
混乱している矢先、突然スマホが鳴りだした。画面には知らない番号が表示されている。
「……出ろ」
冬彦は舌打ち混じりに指示を放った。アキラは唾を飲み込んで一呼吸置き、その着信に出ることにした。
「も、もしもし……」
『あ、先輩。俺でっす灰場でっす! 贈り物見てもらいましたか?』
声の主はやはり灰場遼太郎だった。何事もなかったかのように生き生きと話しかける彼の態度には苛立つものがあったが、ここは気持ちを押し殺すことにした。
「灰場……これは一体どういうことだよ⁉」
『どういうことって、何がですかぁ?』
相変わらずすっとぼける態度に、アキラはとうとう業を煮やした。
「だから……なんで、なんでッ! なんで春奈のおばあちゃんのお金が、俺の口座に振り込まれているんだよッ!」
――これが、一番おかしな現状。
遼太郎に言われるがままにATMで通帳に記入をしたら、確かに春奈の祖母の口座から三百万が振り込まれていた。本来ならば冬彦が拵えた偽物の口座に振り込まれているはずのものだ。それがどういうわけか、自分の、しかも冬彦には内緒にしていたアルバイトの口座に振り込まれている。
彼は一体何を仕込んだのだろうか、気になるところではあったが……。
『まぁまぁ、先輩。あ、お兄さんのほうにも今メールを送っておきましたから。春奈のおばあさんのお金、先輩の通帳に振り込まれていますって。それじゃ』
なんてことをしてくれたんだ。
もう、何を仕込んだのかなど気にしている状況ではいられなかった。
ふと冬彦のほうを見た。彼はといえば、スマホと睨めっこをしながら、心なしか持つ手が強くなっている気がする。いや、確実にあれは怒りを抑えている。
「チッ……、この灰場とかいうガキ、一体何しやがった? まぁいい。アキラ、ついてきてもらおうか」
「えっ……?」
「えっ、じゃない。今すぐ銀行に行って、金をおろせ。そして俺に渡せ」
思ったよりも冷静に、冬彦はアキラを見据えて言った。
明らかに怒りを無理矢理に抑えているような声だった。いつものように露骨に爆発させていない分、アキラには怖く感じた。逆らったら何をされるかたまったもんじゃない。
アキラは通帳を取り出し、一歩踏み出そうとした。
――ごめん、春奈。
そうだ、春奈だ。
脳裏にふと、彼女の顔が浮かんできた。
ここで兄に金を渡すということは、つまりは彼女を裏切ることになる。いや、最初から自分は彼女を騙していたのだ。もう裏切るとかそういう段階の話ではない。
だが……。
躊躇しながら、アキラは一歩下がった。
「……いやだ」
「はぁ?」
「いやだッ! もうたくさんだッ! 兄貴の言いなりになって、何の罪もない人たちから金を騙し取ってッ!」
「……てめぇ、ナメた口きいてんじゃねぇぞッ!」
「いい加減にしろ、バカ兄貴ッ! アンタのせいで、何もかもがメチャクチャなんだよッ! じいちゃんの当て付けだか何だか知らないけど、俺まで巻き込んでんじゃねぇッ! いや、俺だけじゃない。何も知らない春奈まで、勝手に巻き込んで、それで汚れ役は全部僕に押し付けてッ! もうこんなのやってられっかよッ! このお金は、下ろして春奈のおばあちゃんに返すからなッ!」
息をあがらせながら、アキラは思いっきり叫んだ。
「てめぇ、いつからそんなナメた口を……」
「もう嫌なんだよッ! ずっと、ずっと騙し続けるのは……俺の、俺の好きな人のことをッ!」
最後は特に全力で叫び、思いっきり冬彦を睨んだ。
「……フッ」
「な、なんだよ……」
「……なるほど、そういうことか」冬彦は含み笑いを浮かべた。「何をしたのかは知らんけど、お前はこの灰場って奴とグルになって金を騙し取ろうとしてたんだな」
「ち、ちげぇよ……」
「嘘つくんじゃねぇッ!」
冬彦は大声で怒鳴りつけた。
アキラの心拍数が上がっていく。これ以上、兄を激高させてはならない――だが、この金を渡すわけにはいかない。
――春奈、すまない。
これまでの罪をひたすら心の中で悔い改めるしかない。もう、許されることなど到底かなわないのだろうから――。
――そのとき。
「嘘吐いてないっすよ。先輩の言うとおりです」
「……んだと?」
キッチンカーの物陰から、誰かが突然現れた。この聞き覚えのある声――灰場遼太郎だ。
「初めまして、になりますね。お兄さん。俺が灰場遼太郎です」
「貴様か……一体全体、どういうつもりだ」
冬彦は怒りを露わにして遼太郎を睨みつけた。
「まぁまぁ。それよりも先輩、さっきの言葉、嘘じゃないですね」
アキラは少し戸惑った後、
「あ、あぁ……。約束する。このお金、春奈のおばあちゃんにちゃんと返す。それより一体これは……」
「だってさ、これが先輩の本心だって」
遼太郎が呼びかけると、物陰から更に二人、女子生徒が出てきた。
二人とも見覚えがある。雀部緋音ともう一人は――。
「せん、ぱい……」
「は、春奈……聞いていた、のか?」
哀しそうな顔を浮かべながら、布施春奈がこくり、と頷く。
アキラは肩から全身の力を落とし、その場にへたりこんだ。
「……すまない。どれだけ謝っても許されないかもしれないけど、俺、ずっと君の事を騙し続けていた。でも……」
「分かっています、先輩」
春奈はアキラに近付き、そっと彼を抱きしめた。
「はる、な……」
「さっきの言葉、嘘じゃないって言ってくれましたよね。それだけで充分です」
「謝って許されることじゃないのに……」
「私は許しますよ。おばあちゃんもきっと許してくれると思います」
いつの間にかアキラの目から涙が零れていた。彼女の優しい腕が、アキラの心から闇が抜け落ちていくように感じたが、どこか痛みも感じる。
「……いいの、春奈?」
「うん、いいの」
そういう春奈の瞳も潤んでいるのが、緋音には分かった。彼女なりに心に痛い部分があるのかもしれない、と緋音は感じ取った。
「ふざけんじゃねぇッ! 何てめぇらだけで勝手に解決してやがんだッ!」
優しい空気を壊すかのように、冬彦が怒鳴り込んだ。
「ま、そういうわけなんで。俺らは別にアンタが詐欺をしていようがしていまいが知ったこっちゃないんで。俺らの目的はあくまでも、先輩と春奈が恋人としてやっていくのにふさわしいか確かめたかっただけっす。勿論、金を騙し取ろうとかそんなことはこれっぽちも考えていないっす」
「てめぇはそれだけのために俺をコケに……」
「あっ、そうだ」遼太郎が突然話を止めた。「そういえば気になりません? どうして春奈のおばあちゃんが振り込んだお金が、先輩の口座に入っていたのか」
「そ、そういえば……」
確かに、とアキラは思った。
「先輩、俺も謝らなきゃいけないんですけど、実は昨日通帳を返す前に、中身見ちゃったんですよね~。で、口座番号も頭の中に入っちゃって。いや~、見ちゃったもんは仕方ないですよね!」
そういえば、と昨日遼太郎が通帳を拾ってくれたことをようやくアキラは思い出した。
「で、でもそれだけじゃ……」
「そんでもって、実はお兄さんの推理、当たらずとも遠からずなんですよね。とある人に協力してもらって、布施の家の電話に盗聴器を仕掛けてもらったんですよ。そして振り込めの電話があったのを盗聴器で確認してもらい、その直後に電話して、おばあちゃんに先輩の口座に振込先を変更するように頼んだってわけです。『先ほど弁護士さんが連絡した振込先が間違っていた』と言ってね」
それまで飄々としていた遼太郎の顔が、一気に真剣になった。
――協力者?
アキラの脳裏に疑問符が浮かび上がった。
「一体、誰が……」
「勿論先輩じゃありませんよ。先輩は春奈のおばあちゃんと面識はないし、盗聴器を仕掛けるのも無理だし、第一先輩に作戦を言ってしまったら先輩の本心を確かめることにはならないですからね」
「だからッ! 誰なんだッ! そんなことできる人間、身内ぐらいしか……」そこで冬彦はハッと気が付いた。「もしかして、てめぇか?」
冬彦は春奈のほうを睨みつけた。
「わ、私じゃ……」
「ぶっぶー、残念でした。布施春奈じゃありませーん」
「じゃ、じゃあ……」
「でも、身内ってのは当たってんだよねぇ。一人いるだろ? そういうことが容易な人……」
「ま、まさか……」
アキラもようやく理解できた。
「布施、夏樹……」
「ピンポーン! アンタらが振り込め詐欺に利用した張本人に協力をお願いしましたー! おばあちゃんは耳は結構良いみたいだからね、アンタらはきっと夏樹本人じゃなくて代理の人間のフリをするだろうと踏んだわけ。だから本人が言った言葉のほうが説得力は増すと思ったのよ」
「バカなッ!」冬彦が目を丸くして驚いた。「布施夏樹は、ずっと音信不通で、今どこにいるか分からないはずだぞッ!」
「あの、それが……」
春奈が言いにくそうに言葉を挟んだ。
「どこだッ! まさか、近くにいたというのかッ⁉ 言え、言えぇぇぇぇぇぇえッ!」
その時――。
「あのお待たせしました」
背後から誰かが話しかけてきた。
スラっとした長い金髪の人物。エプロンと帽子姿でキッチンカーの店員だということが分かる。
「俺は何も頼んでないッ」
その人物のことは歯牙にも掛けず、すぐに冬彦は視線を遼太郎たちに戻した。
「あの、ですから……」
「黙ってろッ! 今取り込み中だッ!」
「……だからさ」
その瞬間――。
冬彦の右腕が店員に掴まれ、関節に逆らうように一気に取り押さえられた。
「俺が、ご注文の……布施夏樹だよッ!」
狐につままれたかのような顔で、冬彦は声も出なかった。
「お、お兄ちゃん……」
「て……てめぇ、が……」
「さっきも言っただろ。俺が布施夏樹だって。ついでに言っておくと、獄刃会(ごくじんかい)の若頭、でもあるがな……」
「ご、ごくじんかい……」
その名前を聞いた瞬間、冬彦の顔から一気に血の気が失せた。
獄刃会とはこの界隈一帯を牛耳る、極道の集団である。
「よくもまぁ、俺たちのシマで阿漕な真似して、その上ばあちゃんと妹を騙しやがって……同じ兄として言わせてもらうが、そういうのはなぁ、兄貴のやることじゃねぇんだよッ! このクサレ外道がッ! 覚悟はできてんだろうなぁッ⁉」
「い、命だけは……お助け、を……」
今までの威勢はどこへやら、冬彦は最早情けない表情でただ怯えるしかできなかった。
「あ、ついでに言っておくとね。アンタらの会社、今頃警察のガサ入れ来ちゃっているかもね。自分らでは頭が良いとか思っているかもしれないけど、調べてみたら思っていた以上に杜撰な手口ばっかやっていたみたいじゃん。俺らが何かしなくても逮捕なんて時間の問題だったみたいだね」
「そ、そんな……」
魂が抜けたかのように、冬彦はその場にへたりこんでしまった。
「と、いうわけ。ゲームオーバー、お疲れ様」
パトカーのサイレンが少しずつ近付いてくる。
全てを諦めた詐欺師の顔からは、最早生気のかけらも残っていないようだった。
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