6話 「実はね……」

 程なくして雨は止み、静寂と風の音だけが周囲を包んだ。

 張り詰めた空気はより肌寒さを感じさせていく。

「香織ちゃんが、瑞樹くんのことを好きだったって……」

 緋音は恐る恐る尋ねた。

「アイツとは小学校一年生の頃からずっと同じクラスで、小さい頃は家に行って遊んだりもしていたよ。その頃からだったかな、アイツのことが好きだって思ったのは。でも、五年生ぐらいの頃だったか、理由はよく分からないけど、凄く些細な理由でいじめが始まって、気が付いたらアタシもそのグループの一員に混じっていた……」

「なんでいじめなんか――」

「わかんねぇよッ! アタシだって、ずっと後悔していた……。その場の雰囲気っていうのか、空気に流されたのか……もしくはアタシ自身が好きの裏返しでやってしまっていたのか」

 よくある話だ、と遼太郎は思った。

 だが、それに同情する様子もなく、遼太郎は冷淡な顔を見せた。

「好きの裏返し、ねぇ……。それで好きが伝わったら苦労しないな」

「は、灰場くん?」

「どういう意味だよ?」

 香織は遼太郎を睨みつけるが、遼太郎は怖じもせず冷たい視線を浴びせる。

「そんな理由で虐められたら、虐められた側にしてみればたまったもんじゃないわな。好きだから何やってもいいわけじゃないし、嫌われるのが普通だろ」

「そんな言い方って……」

「大体、瑞樹が柔道を始めて強くなったのって何のためだと思う? お前らいじめっ子に勝つためだ。つまり、アイツの中でお前らは敵だと認識されているってこと。まさか、『強くなったのはアタシたちのおかげだ』とか言うつもりじゃないよな? 言っておくが、強くなったのは瑞樹自身の努力の結果であって、お前らは何も偉くない。ただ、嫌がることをしていただけ」

「そんな……」

 香織が愕然としたように黙り込んだ。

「ま、要するに何が言いたいのかっていうと、お前は好きな人に対して自分から嫌われることをしているってことを自覚しておけということだ。好きの裏返しを言い訳にして、結局は嫌われることをしているだけなんだよ」

 歯に衣着せぬ物言いで、遼太郎が説教を浴びせる。

 香織の長い髪が項垂れ、風に揺れる。歯を食いしばるのもそろそろ限界なのだろうか、次第に息も荒くなってくる。

 しかし遼太郎は彼女をただずっと冷たい視線で眺めるだけだった。

「それに、あの二人を付き合わせるなと言われたところで、はいそうですか、なんて応えるわけにはいかないな。寧ろお前に対する心象がひたすら悪くなるだけだ。オオカミ少年って知っているか? 普段から素行が悪い奴が何言ったって信用されないってこと、心に刻んでおけ」

 遼太郎の突き放すかのような言葉に心が痛くなったのか、香織はとぼとぼと三人の間をゆっくりすり抜けていた。

「……ってるよ」

「えっ?」

「分かってんだよ、そんなもん! アタシだって、アタシだって……」

 香織が泣いているのは明白だった。

 しきりに鼻をすする音が聞こえてくる。間違いなく、泣いていた。

 彼女との距離が数メートル離れた途端、香織はそのまま走って去っていった。

 遼太郎は頭を掻き、しばらく道の向こうをじっと眺めていた。

「灰場くん、サイテー! 今の言い方はないよ!」

 緋音が目を尖らせて怒っている。

 少し血走っており、口元も吊り上げている。本気で怒っている、と遼太郎は察した。

「俺なりに正論言ったつもりなんだがな――」

 と、言った瞬間、遼太郎の頬に痛みが奔った。

 緋音が左手を振りかざし、平手打ちしていた。血走っていた目からはうっすらと涙が見える。

「……ってーな」

「正論で誰かが救われると思わないでよ! 必死で恋している女の子を追い込むような真似しないで!」

「あぁ、そうですかい……」

 赤く腫れた頬をさすりながら、遼太郎はため息を吐く。

「恋する女の子の味方も結構だけど、目先のことばかりに囚われて本質を見落としてんじゃねぇよ。俺たちの仕事はあくまで瑞樹と珠実の恋を見極めることだろ」

「それは……でも、香織ちゃんだって真面目に恋をしている女の子なんだよ?」

「真面目に恋している奴が嫌がらせなんかしねぇよ。現状アイツが嫌がらせの最有力容疑者なんだし、しょうがないだろ。ああやって脅しでも掛けておかないとまたやりかねないからな」

 遼太郎の言葉に緋音は反論しようとはしなかった。

 ただ、踵を返して先ほど香織が走っていった方向へと足を向けていた。

「私、探してくる」

「おいおい……」

「香織ちゃんは犯人じゃない! 私には分かるよ!」

 そのまま緋音はこちらを振り向くこともなく、走り去っていった。

「あーあ、女の子を二人も泣かせちゃって……」

 蒼空が腕を組みながら呆れ果てていた。

「どうして女って奴は、こうも面倒なのかねぇ……」

「君の言い方もどうかとは思ったけど、まぁどっちもどっちだからね。一つ言えることは、恋する乙女は美しい、ということだ」

「言えねぇよ。ったく……」

 頭を掻きながら、遼太郎は思案した。

「これからどうするんだい? 期日は明日なんだよ?」

「……明日か」

 何だかんだで期限は迫っている。

 他の案件も一応あることはあるので、瑞樹の件を一旦置いておいてそちらを通してしまうという手もあるかもしれない。

 だが――。

「もう少しでつながりそうなんだよ……」

「瑞樹くんが、かい?」

「あぁ……」

「だとしたら、僕個人の意見を言わせてもらおう。犯人を明日中に見つけてやめるように説得する。それさえできれば二人の赤い糸は結ばれたも同然なのだろう?」

 赤い糸――。

 その単語に辟易しつつ、遼太郎はため息を吐く。

「赤い糸、ね。無事結ばれればいいけどな」

「おや、白馬の王子様をUMA呼ばわりしていた君が、運命の赤い糸は信じるのかい?」

 意地が悪そうに笑う蒼空を遼太郎は呆れた目で見ていた。

「……知っている癖に」



 雨上がりの公園は湿った匂いが充満していた。

 薄暗い街灯の真下にあるベンチに座りながら、香織はずっと泣いていた。

 ――何故、自分はずっと好きな人を虐めていたのだろう。

 ひたすら後悔の念が脳内に渦巻いていた。しかし、どうあっても自らが犯した罪は消えることはない。

 優しくて、でもどこか早とちりなところがある少年。昔は泣き虫だったが、実は芯が強くて努力家。小柄だが中身は誰よりも男らしい。

「なんで、アタシは……」

 先ほどの遼太郎の言葉が何度も胸に刺さる。

 悔しい。昔の自分を殴ってやりたい。

 そうやって罪悪感を巡らせていると、いつの間にか隣に誰かが立っていた。

「はぁ、はぁ……見つけたよ、香織ちゃん」

「アンタは……」

 見覚えがある少女だった。いつも恋愛審査委員長と一緒にいる、確か緋音といったか。

 彼女は息を切らしながら、ゆっくりとベンチの隣に腰かけた。

「こんなところにいたら風邪引くよ? 自販機で飲み物買ってきたんだけど飲む? ブラックコーヒーとミルクティー、どっちがいい?」

「あ、じゃあミルクティーで……」

 そういって緋音はミルクティーを香織に手渡した。

「にがっ」

 ブラックコーヒーを一口啜ると思わず彼女はそんな言葉を発した。

 なんでそれ買ってきたんだよ、と思わず心の中で呟くと、途端に香織はぷっと噴き出すように笑ってしまった。

「あはは、アンタ面白ッ!」

「なんだ、香織ちゃん笑うと可愛いじゃん」

 緋音が香織ににっこり笑いかけると、香織は少し赤面してしまう。

 冷え切った手をミルクティーで温めた後、一口飲んだ。

「……何しに来たんだよ」

「えっと、さっきはごめんね。うちの無神経委員長が失礼なこと言っちゃって」

「いいんだよ。一応あれでも言っていることは間違っていないとは思うし。ムカツクけど……」

 緋音はちょっとずつコーヒーを飲んで、空を見上げた。雨上がりにも関わらず星が綺麗だ。

 香織はずっと俯いて、ため息を吐いた。

「あのさ、アタシやっぱり瑞樹のこと諦めるよ」

「えっ……?」

「やっぱさ、アタシとなんかじゃ釣り合わないもんな。アイツ一応優等生だし、柔道も頑張っているみたいだし、こんな不良のどうしようもない女とじゃ、な。それにあの委員長が言っていたとおり、アタシは多分アイツに嫌われているんだよ。何度顔を合わせても声すら掛けてくれないし、今回の件だってどうせアタシの仕業だって疑われているに決まっている。もう、絶望的なんだよ……」

 緋音は蹲る香織を心配そうに眺めていた。

「……香織ちゃんはそれでいいの?」

「いいも何も……」

「絶望するなら、精一杯やれることやってから絶望しようよ」

 にこやかに、香織に話しかける緋音。

 香織は不思議そうな顔で彼女をじっと見た。

「よく分からない人だな、アンタも……。瑞樹と、あの珠実とかいう女との恋を認めるのが仕事なんじゃないのかよ」

「あはは、私も段々よく分からなくなってきた。でも、香織ちゃんのことがどうしても放っておけなくてね」

「なんだよ、それ」

「私もね、実は好きな人がいるんだ」

 緋音が声を弾ませたように、明るく言い放つ。

「好きな、人?」

「うん。同じクラスの男の子なんだけどね、いつもボーッとしていて、意地悪で、何考えているのかよく分からない人」

 香織は呆れた。そんな男のどこが良いものなのかと疑問に感じた。

「窓際の席を常にキープしていて、授業中は大体気の抜けた感じだし、書類で人の頭殴ってくるし、口は悪いし、挙句に去年も一緒のクラスだったことすら忘れているし、本当に最悪な人」

「苦労してんだな……」

「まぁね。でも、良いところもたくさんあるんだよ。一度やる気スイッチが入ると、とことん真面目になって、それで人の事をしっかり考えているっていうか、人の恋を笑わずに真剣に向き合ってくれる。好きなのはもっと前からだけど、そういうところ見ていたらますます好きになっちゃって。そして、それは私の中で誇りにしていること」

 実に楽しそうに緋音は話し続ける。

「さっきも言ったけど、彼にとって私の存在はあまり大きくないとは思う。でも、いつか絶対この恋は叶えてみたい。もしフラれたとしても、良かったって思える恋でありたい。それでもしも、だけどOKがもらえたら、私は誇りに思いたい。『この人は私に大切なことを教えてくれた、世界で一番素敵な人だ』って、その人のことを自慢してやりたい!」

 緋音は香織の手をそっと握る。

 暖かく柔らかい感触が伝わってきた。少し恥ずかしくなったのか香織は赤面してしまう。

「だからね、香織ちゃんも好きになってみようよ、自分の恋心に!」

「アタシの、恋心に……」

 意味は分からなかったが、どこか胸に刺さる言葉だった。

 これまで諦めか絶望しか見えなかった香織の恋に、一筋の光が見えたようだった。

 ――アタシが好きになった人は、誰よりも優しくて強い男だ。そんな彼に恋している自分を誇りに思わないでどうする?

 香織は残りのミルクティーを飲み干し、静かに立ち上がった。

「……ありがとな。アンタのおかげで、少し気が晴れたよ」

「そっか、良かった」

 にこやかな視線を送る緋音。

 香織はこの人にはかなわないな、と心底思った。

「遅いからアタシ帰るな……」

「うん、気を付けてね」

「アンタも……な。叶うといいな、あの委員長との恋」

 途端に緋音はぽかんと口を開けて時を止めた。

 すたすたと香織は立ち去り、ベンチには自分だけが取り残されている。

 苦いコーヒーを一気に飲んで、なんとか気分を落ち着かせた。

「なんで、好きな人バレちゃったんだろ?」

 誰もいない公園で、緋音は一人疑問符を頭に浮かべていた。

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