4話 「覗くなッ!」

 廊下の窓から、薄暗い空が室内を染め上げていた。

 どこかから雷の力強い音も聞こえる。快晴だった昨日とは打って変わって凄まじい豪雨だ。自分が帰るまでには弱まって欲しいと遼太郎は思ったが、あまり期待は出来なさそうな感じだ。

「ちょっと、平沼さん!」

 廊下の奥から、突然怒鳴り声が聞こえてきた。

 見知った声、というか生徒会の鯉江のものだとすぐに分かった。

「あんだよ」

 その場に遼太郎が駆け寄ると、一人の女子生徒がバツが悪そうに鯉江を睨みつけていた。

 長い茶髪に黒いジャケット。校則違反を絵に描いたような少女の姿に遼太郎は驚いた。昨日昇降口でこちらを見ていた、あの少女だ。

「何度言ったら分かるの!? いい加減に髪を染めなおさないと、また頭髪検査に引っかかるわよ! あと、そのジャケットも……」

「うるせぇっつってんだろッ!」

 強く舌打ちをして、ポケットに手を突っ込みながら彼女はその場をすこすこと去っていった。

「お前、風紀委員じゃねぇんだから、そういうことやらなくていいんじゃないの?」

「な、なによ……じゃなくて、なんですか、アナタですか」

 背後から声を掛けられて口調を戻す鯉江。普段の敬語はあくまで事務的なものなのだな、と遼太郎は察した。

「ていうか、今のは……?」

「あぁ。一年の平沼ひらぬま香織かおりさんですね。まぁ、なんというか、見ての通りあまり素行が良くないので先生方から何度も注意をしているのですが……」

「ふぅん……」

 鼻の頭を掻きながら、今の不良少女の姿を脳裏に焼き付けた。

「と・こ・ろ・で! あのことは忘れてはいませんよね?」

「あのことって?」

「とぼけないでください。今週中に恋愛審査を一件でも通すという話です!」

 真面目に答える鯉江に、遼太郎は「あぁ」と気の抜けた返事をした。

「まさか、全く通していないとか……」

「んー、今のところは」

 そう答えると、鯉江は目を吊り上がらせて思いっきり壁を殴った。

「そうだろうと思っていましたよ……。あなたという人はそういう人だって、よおおおおおおっく分かっていましたから! もうわかりました。恋愛は諦めます……」

「まぁ待てって。『今のところは』って言っただろ。実はちょっとな、気になる案件があるもんで」

「気になる案件、ですか?」

 鯉江は少し気を落ち着かせて首を傾げる。

「ちょうどいいや。今からそれについてミーティングをするところなんで、時間があったらアンタも立ち会って欲しいんだけど」

 少し考えたのち、鯉江は

「分かりました。こちらも現状どのようになっているのかを把握しておきたいので」

「助かる。ついでに、ちょっと情報も欲しいんだけど」

「情報、ですか?」

 鯉江は怪訝な表情を浮かべた。

「そっ。情報」

「一体、何の……」

「さっきの女子生徒についての情報、だよ」

 ――彼女の情報?

 少し意外ではあったが、あまり深くは考えずに鯉江は首を縦に振った。

 委員会活動に限らず、遼太郎がここまで物事に対して積極的になったところを鯉江は見たことがない。というよりも、そこまで彼は学年でも目立つようなことはなく、毒にも薬にもならないような存在だ。鯉江も同学年とはいえ、恋愛審査委員会がなければ彼のことを気に掛けることもなかっただろう。

 黙って鯉江は遼太郎の後をついていき、恋愛審査委員室に辿り着いた。

「ま、汚いところだが入ってくれ」

 遼太郎が扉を開けた瞬間だった。

「あっ……」

 思わず声を挙げた。

 部屋の中に雀部緋音がいた。上半身はほぼ肌色。胸元は淡いグリーンのブラジャーのみの姿であり、下半身は“かろうじて”スカートを履いている。が、スカートのチャックの切れ間から真っ白な下着が見えており、若干だが茶色い動物のようなものも確認できる。

 ――あぁ、あれはクマか。

 そして気づいた。意外と彼女は胸が大きい。

 うんうん、と神妙に頷くと、

「きゃぁぁぁぁああああっ!」

 緋音の叫び声と共に、ゴン、と鈍い音が鳴り響き、金属製の置時計が彼の鼻にクリーンヒットしていた。


「てなわけで、緊急ミーティングを始めるぞ」

 ほとぼりが冷めてから一同を席に座らせ、遼太郎は鼻の中にティッシュを詰めた。

 メンバーは遼太郎を含めて五人。とはいえ、委員会メンバーの一人は不在、その代わりに鯉江が席に座っていた。

「あ、えっと、あのぅ……」

 緋音がしゅんと首を項垂れて呟いた。

「なんでしょうか、雀部さん」

 遼太郎は腕を組みながら、少し怒りを露わにして答える。

「何で、その……鯉江さん、が?」

「本日のスペシャルゲストとしてお呼びいたしました。はい、拍手」

 誰も拍手せずに、空気がしんと静まり返った。

「あの、早く本題に入っていただけますか? 私も他に仕事があるので」

「そうだな。の、前に……」

 急かす鯉江を余所に、遼太郎が緋音をギッと力強く睨んだ。当然、緋音は肩を窄めてしまう。

「何でこの部屋で着替えていたのかな、君は?」

「えっと、色々と深い事情がありまして……」

 視線を逸らしながら緋音はたどたどしく答えた。

 ちなみに、あれから彼女は着替えて今はジャージ姿だ。

「さっき、昇降口の近くを通りかかったらあの子を見かけてね、声掛けようとしたんだけど……」

「あの子?」

「ほら、瑞樹くんの彼女の……。昇降口の前で見かけたから声掛けようとしてね……」

「相変わらずのザル警備だな、この学校」

 と、うちの学校の悪口を言っていても仕方がない、と遼太郎はそこで止めた。

「そうしたらね、こっちのほうを見るなり突然逃げちゃって」

「……逃げた?」

 遼太郎が眉間に皺を寄せた。

「うん。思わず追いかけようとしたんだけど、傘も差さずに外に出ちゃったから、ずぶ濡れになっちゃって……それで、ミーティングまでに急いで着替えようと思ったんだけど……」

「あー痛かったなー、お前のせいですっげー口の中鉄くさいわー」

 遼太郎が嫌味を棒読みすると、緋音は弱々しく「ごめん」とだけ呟いた。

「さて、そろそろ本題に入ってもらってもいいかな」

 痺れを切らしたのか、蒼空が流れを遮った。

「おっとすまない。まずは現状の報告からだな」

「ようやく話が始まりましたか。ではお願いします。先ほど、気になる案件があるとのことでしたが」

「灰場くん、それってもしかして……」

「ああ、森山瑞樹の件だ」

 やっぱり、と緋音は頷いた。瑞樹が書類を持ってきた日から、遼太郎の目つきが変わったのは一目瞭然だった。だが、未だに彼の取り組みに煮え切らない面もあり、緋音も困惑している。

「森山君、ですか……。大人しくて優しい子だとは聞いていますし、柔道部でも非常に練習を頑張っているみたいです。特に問題はないように思いますが……」

「俺もそれは同感。ていうかアイツについて随分詳しいな」

「私も彼と同じ西にしみや中学校の出身ですから。学年は違いますが、彼の噂は良く耳にしますよ」

 ふぅん、と遼太郎は相槌を打った。

「で、彼の恋愛にどのような問題があるというのですか?」

「ああ、それなんだけど……」

 鯉江に尋ねられ、遼太郎は今回の件についてのいきさつを全て話した。珠実という少女と付き合っていること、そして昨日の嫌がらせについて。

 すべてを話し終えると、鯉江は怪訝な表情を浮かべた。

「なるほど、そういうことでしたか……」

「少し様子を見ないと何とも言えないが、このままじゃエスカレートしかねないからな」

「……ふぁ」

 緊迫した空気の中、一人アルバニアが欠伸を漏らした。

「アルバニアちゃん、真面目に聞いてよ」

「……昨日遅くまで調べものしていたから。すこぶる眠い」

 それだけ言って、彼女は瞼を閉じたままうつらうつらと揺れ、しばらくするとぴくりと動かなくなった。

 可愛らしい寝顔と共にすーすーと緩い寝息が立つ中、他の面々は再び顔を見合わせる。

「でも、それでは明日までに……」

 そう言いかけて、鯉江ははっと気が付いた。

「いえ、それではまるで学園の規則のために彼らの恋を出しにしているようなものではありませんか。大事なのは二人が上手くいくことで……でもそれで恋愛禁止に戻っては元も子もないのでは……」

「あのさぁ……」

 突然狼狽えだした鯉江に、遼太郎もため息を漏らすよりなかった。

 それだったら、方法はひとつしかないだろ――。

 言いかけたその瞬間だった。

「うわあぁあああぁぁぁぁッ――!」

 外から突然、凄まじい金切り声が聞こえてきた。

 聞き覚えのある声だ。

「――行くぞ」

 こんな状況でも眠りこけているアルバニアは放っておいて、遼太郎は緋音と鯉江、そして蒼空に視線を送ると、三人ともうん、と頷いた。

 廊下を抜け、すぐさま声の方向へと走っていった。

 四人が昇降口に辿り着くと、声の主と思われる少年が呆然と立ち尽くしていた。

「せ、先輩……」

 眼球が瞬きをすることを拒むかのように張り出しながら、彼はゆっくりと遼太郎たちの近くへ歩み寄る。昨日見た彼――森山瑞樹の表情とはあまりにも違う様子に、皆戸惑うしかなかった。

「おい、どうした! 何があったッ!?」

 流石の遼太郎も平静を装ってはいられなかった。

 瑞樹がゆっくりと差し出した両手が真っ赤に染まっていた。ポタポタと、彼の掌を赤く染めている液体が滴り落ちる。ようやく気が付いたが、辺りからはやや生臭い匂いも漂っている。

「も、森山くん……一体どうして……」

「ぼ、僕の下駄箱に……」

 震えながら、ゆっくりと彼は下駄箱を指さした。

 神妙に、遼太郎は中を覗き込む。


 ――生臭い原因はコイツか。


 人の死体ではない、と安堵はできなかった。

 そこに入っていたのは、真っ赤に染まった猫の死骸だった。潰れた内臓がはみ出しており、右の眼球も飛び出している。生前は可愛らしかったのであろうが、今は生気を失いただのグロテスクな肉塊だ。

 その傍らに一枚、紙切れが置いてあるのに遼太郎は気が付いた。

『警告だ。明日までに珠実と別れなければ、次はお前がこの猫のようになるぞ』

 遼太郎はゆっくり息を吸って、ゆっくり吐いた。

 ガコンッ、と彼は思わず真横にある下駄箱を殴りつけていた。

「は、灰場くん……?」

「ははは、エスカレート、しちまったな」

「先輩……」

「これじゃあ、恋愛を審査するどころじゃ……」

 拳を握りしめ、遼太郎は一同を見据えた。

「だったら、俺達で見つけるしかねぇだろ。この、ふざけた真似をした大馬鹿野郎をよぉ。恋愛審査委員会、ここからが本腰だぜ! 瑞樹の恋愛、しっかりと見定めさせてもらうぜ!」

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