3話 「絶対に守ります!」

「先輩、お疲れ様でした」

「おう、お疲れさん」

 練習後、着替えを終えた瑞樹は同じ柔道部の先輩たちに丁寧に挨拶をしながら道場を後にした。

 正直な話、今日はあまり練習に身が入らなかった。自分で決心したこととはいえ、どうしても今後の恋愛審査委員会の動向が気になっていた。

「はぁ……」

 明後日までこんな気持ちが続くのか、と少しため息が出る。

 そしてすぐさま首を横に振る。こんなんじゃダメだ、と自分に強く言い聞かせて、前を向いた。

 大丈夫だ、きっと――。

 しばらく歩いていると、廊下で一人の少女とすれ違った。見覚えのある、それどころかよく知っている少女だ。

 思わず目を背け、見ないようにして彼女の横を通り過ぎる。彼女はスマホをいじりながら終始無言だったが、通り過ぎた瞬間にチッと舌打ちをする音が聞こえた。

 意識的ではない。本能的に彼女を避けようと身体が動いたのだ。

 しばらく進み、昇降口に辿り着いた。

 生徒たちがまばらに下校していく。日も既に傾き、校舎に夕焼けが照らされている。

 靴を履き替えようと手を入れた、その瞬間だった――

「いたっ……」

 突如指先に痛みが奔った。慌てて手を出すと、人差し指からぷっくりと血がにじみ出ている。

 そっと靴の中を覗き込んだ。金属の何かが靴の中に入っている。

「が、画鋲?」

 一瞬にして喉の奥が渇くような気分に襲われた。明らかに誰かが入れたものだが、こんな子どもじみた真似をする人間は――。

「まさか、ね……」

 脳裏に一人心当たりのある者がよぎったが、すぐに振り払った。

 同時に、靴の下に一枚の紙きれが挟まっていたことに気が付いた。瑞樹は綺麗に折りたたまれたその紙をおそるおそる開いた。

『珠実と別れろ』

 血の気が引くかのようだった。眩暈に耐えながら、しばらく頭を抑え込んだ。

 小学生時代、似たような経験は何度もしてきたはずだ。いや、もっと恐ろしい経験だった。これしきの嫌がらせ等、とうに過ぎた道だ。今の自分はこれぐらいのことで動じるはずはない。

 だが、もし珠実に被害が及んだら? そう脳裏に過ぎった瞬間、背筋に寒気が襲った。なんとか頭を振り、拳を強く握りしめる。絶対にそんなことはさせない。こんな脅しに屈するわけにはいかないし、彼女は何としてでも守り抜く。そのために自分は強くなったのだ。頭の中で何度も言い聞かせた。

「よっ、今帰りか?」

 ビクッと肩を震わせて振り返る。そこに立っていたのは遼太郎だった。

「な、なんだ。灰場先輩、ですか……」

「なんだはないだろ、なんだは」

「えっと……お疲れ様です……あの……」

「ん? もしかして、申請書のことか? あれはまだ何とも言えないから、もう少し待っていてくれ」

 瑞樹はほっと胸を撫でおろした。どうやら、この現状を見られてはいないようだ。

「あ、ああ。なら大丈夫……」

「でもなぁ、靴に画鋲入れられて別れろなんて手紙が入っている嫌がらせをされているとなると、申請に時間掛かりそうなんだよなぁ」

 前言撤回。全部見られていた。

 苦虫を嚙み締めたような顔で、瑞樹は手紙をくしゃりと丸める。

「こんな嫌がらせ、ぜ、全然大丈夫ですよ。僕は、その……」

 冷や汗を流しながら、しばらく遼太郎を睨みつけた。

「今は靴の画鋲だけかも知れないけど、これがエスカレートして彼女にまで危害が及んだりすると、な。そんな事態になったらこちらとしても困るわけだし」

「危害なんて加えさせません! 絶対にッッッ!」

 瑞樹が大声で叫んだ。力いっぱい、腹の底からの声だった。

 彼女に対する強い思いは、その声から充分に伝わってきた。

「す、すげぇ声出すんだな、お前……」

「当然です。僕はもう……」

 ドクン、と瑞樹の心臓が高鳴った。

 弱い自分ではありません、と続きを言おうと思ったが、口が独りでに噤んだ。一旦ゆっくりと深呼吸をして、踵を返した。

「彼女が待っているんで、さよなら。申請書のほう、よろしくお願いします」

 靴を履いて、昇降口を出たあたりに、一人の女子生徒が立っていた。

 とはいえ、この学校の制服ではない。紺色の落ち着いたボレロに白いリボンが特徴的なその制服は、この近所では誰しもが見たことはある。七月東中学の制服だ。

「あ、瑞樹くん」

 まだ少々幼さの残る、あどけない少女の声で呼びかけた。

 黒い髪は首のあたりまで伸ばしており、綺麗なショートボブに切り揃えられている。吊り目だが、瑞樹に微笑む様は逆に優しさを醸し出している。

「珠実ちゃん。待っていてくれたんだ」

「うん。少しでも早く瑞樹くんに会いたくて」

 そういいあいながら、二人は互いに見つめて微笑んだ。

「おいおい、待つなら校門で待てよ。こんなところまで部外者が入るなよ」

「灰場君。野暮なことは言わないの」

 二人の背後を割って入るように、遼太郎が現れた。ついでに、いつの間にかもう一人の恋愛審査委員もいた。

「へぇ、これが瑞樹くんの彼女さん?」

「えっと、その……」

「はい。島珠実といいます」

 礼儀正しく、珠実は頭を下げた。

「か、可愛い……。いい子じゃん! 瑞樹くん、いっそのことここで申請書を書いちゃおう!」

「アホか、お前はッ!」

 緋音の後頭部に遼太郎のチョップがヒットした。

 間髪を入れず、遼太郎は視線を珠実に向けてため息を漏らした。

「まず、待つなら校門の外でな。部外者がこんなところまで入ってくるな」

「す、すみません……。この学校の先生が通してくださったので……」

 どこの馬鹿教師は誰だよ、と心の中で呆れつつ、遼太郎は話を続けた。

「ま、それはいいけど。で、一応言っておくけど、お前たちはまだ恋愛の審査中だということを忘れるなよ」

「あ、はい……」

「一緒に下校するぐらいなら構わないけど、あまり下手なことやりすぎると審査外されるぞ」

「コラッ、脅さないの!」

 今度は緋音が遼太郎にチョップを入れる。

「委員長はこんなんだけど、この恋愛の女神緋音ちゃんは君たちの味方だからね! 絶対に審査が通るように応援してあげるから! まぁ、このやる気のない人がハンコをポンと押せば済む話なんだけどね」

「だーかーらー、お前はいい加減に……」

「それで、二人はどうやって出会ったの?」

 緋音がミーハーな質問を投げかけると、遼太郎も黙って眉を強く顰めた。

「えっと、今年の二月ぐらいに、町の図書館で……」

「僕が受験勉強で図書館に来ていたときに、偶然隣の席に珠実ちゃんが座ったんです。最初は二人とも勉強に集中していたんですけど、その後でちょっと話をしたら意気投合しちゃって」

 顔を赤く染めながら、二人は微笑んだ。

 よほど楽しい思い出なのだろう、と緋音もまた一緒に微笑む。

「勉強のこととか教えてもらうだけのつもりだったんですけど、話が弾んで、この学校に入ろうとしていることとか、柔道で頑張っていることとか、お父さんが警察の警部補さんだということとか色々お話しをしたんです。そうしたら、仲良くなって、何度か会うようになったんです」

「その時に僕は決めたんです。この受験が終わったら、彼女に告白しようって。で、合格発表の日に彼女に伝えたと同時に……」

「きゃあ、素敵!」

 恋バナに花を咲かせている三人を、遼太郎はじっと睨みつけていた。

 やがて緊張の糸を途切れさせて、ふぅ、とため息を漏らす。

「まぁいいか。一緒に帰るぐらいは大丈夫だろう。とにかく昨日も言ったけど、今週中に審査の結果を出すつもりでいるから、それまではあまり浮付いたことはしないようにな」

「あ、はい。助かります。最近、この近辺で不審者が出るって話もあるので、できるだけ珠実ちゃんと一緒に下校したいんです」

「あ、ああ……。それな……」

 遼太郎は頭を掻きながら呟いた。

「彼女は絶対、僕が守りますからッ!」

 またも瑞樹は力強く言い放った。

 目は本当に真剣そのものだ。華奢ではあるが、どこか強いものを秘めている。

「それでは、さようなら。瑞樹くん、行きましょう」

「そうだね。では、審査のほうよろしくお願いします!」

 そういって二人はお辞儀をしながら去っていった。

 やれやれ、と遼太郎は踵を返して、後ろを振り返る。

「ん?」

 木陰に一人の女子生徒がいた。セーラー服の上に黒いジャケットを羽織り、髪をあからさまな茶色に染めている。彼女は明らかにこちらを睨みつけていたが、遼太郎が目線を送るとすぐにその場から立ち去って行った。

 ――あれは?

「どうしたの、灰場くん?」

「あ、いや。何でも……」

 もう一度そこに目線を送ると、彼女の姿は見えなかった。

「それよりも、あの二人をどうにかしないとね。ていうか、今の見たでしょ。あの二人だったら認めても大丈夫……」

「あの嫌がらせは? 今後もあれが続くようなら、認めたところで二人の為にならないだろ」

「あっ……」

 緋音は肩を落として少し考え込んだ。

「で、でも……」

「しゃーないな。明日もう一回、ミーティングだな」

 遼太郎の声はあからさまに面倒くさそうな感じだったが、緋音は「うん!」と意気揚々と返事をした。

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