ハッシャ・バイ

 気が付けば、いつもだったら下宿でテレビを見ながらご飯を食べてる時刻をとっくに過ぎていた。

 お腹だって減ってるはずなのに、ちっともそんな感覚がしない、というよりも気が付かなかったってことは、

「…楽しいね、このサークルって」

 プルトップを開けながら、私はしみじみたかまへそう告げていた。そしたら、

「うん、そう思ってくれたら私たちも嬉しい、ね? 沖本君」

『共練』で大道具を作っていたはずの工学部一回生、沖本君も入ってきて、笑って頷いてくれたのだ。


「はい、ここでフェイドアウトするっぽく音を絞る」

「は、はい」

「ほらほら、左手も! ぼさっとしない! アンタにあわせて照明だって落としたりするんだからね?」

「す、すみません!」

 そして私の<演劇部生活>は幕を開けた。毎晩遅くまで音響の機械をいじって、それから演出の加藤さんに言われるままアタフタして、隣で照明をいじってるぼのさんの<しごき>を受けてビビッて、だけど、<舞台>に立ってる同い年の<役者>の演技を見るのは本当に楽しい。

「そういう時に言う、特別な言葉があるんですよ」

「グッドナイト、じゃなくて?」

 男性の主役を演じる坂さんと、ヒロインを演じる教育学部二回生の倉田さんが、最後のシーンで掛け合うところで、

「この音楽、流して。これ、最後のほうに行くとどんどん大きくなるから、ボリュームは絞っておいて、後はそのままでいい」

「はい」

 加藤さんに言われることを、台本へ書きとめて私は頷いた。

「それは、眠れる時のお休み。僕が伝えるのは、眠れない時のお休みです」

「まあ、なんていうんです?」

「…ハッシャ・バイ」

 坂さんが台詞を言い終わって退場すると、舞台は倉田さんだけになる。それと同時に、ゆっくりと照明が落ちていって、

「はい、今流す」

「はい」

 加藤さんの合図で私はそのテープをデッキへ入れて、<再生>のスイッチを押した。

 途端、

『へえー…』

 ぼのさんが照明をさらに落とす。その音楽は舞台へ優しく流れて、倉田さんの存在感が一気に増す。

 音楽一つ、照明一つでこんなにも舞台は変わるんだって、

『はは、感動してしまった』

 ちょっぴり自分に照れながら、<エンディング>へ向かう舞台を見つめていたら、

「はい、お疲れ様。今日はここまで。解散してくれていいから。あ、機器はそのまま。明日もまた使うし、どうせそんな重いの、誰も盗らない」

 加藤さんがボソボソと『稽古終了』を告げた。

『誰も盗らないって…』

 今から思うとそうとも限らないんだろうけど、その言い方がなんとも加藤さん『らしく』て、思わず微笑がこみ上げてくる。加藤さんも演劇が大好きで、これまでに三回も演出を担当していたっていう、

『ちょっと意外だよね』

 のぼーっとした、言っちゃ悪いけどちょっと頼りない外見からは想像できない<情熱>の持ち主なのだ。

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