音楽室での怪談

@kuroiinu2001

第1話

  九月も終わりになると、北向きに窓が空いている音楽室の木の床は、直に座ると冷たい。六人ほどの生徒は、互いに少し距離をとって、本を読んだり、塗り絵に色を付けたりしている。先生がいるのに床に座れるのは放課後の特権だ。靖子は教科書とノートを開いて今日の課題を書き出していた。かんたんな算数の計算。二桁の割り算と掛け算。分数の足し引き算。靖子は先に頭で解いてしまってから決まりどおりにその道筋を書き出していく。

 先生は空に並ぶいわし雲のように爽やかな曲をピアノで弾いている。アップライトピアノは学校にある唯一の楽器だ。他の物はお金がなくて買えないのだという。

 一人の子が何を弾いているのか、と道子先生に尋ねる。バッハよ、と先生は答えた。

 生徒はみな授業中は岩田先生、と名字で呼ぶが、休み時間や放課後には、道子先生と呼ぶ。怖くはないが、騒がしい時でも道子先生が口を開けば誰もが鎮まる。誰かが悪ふざけをしていても、道子先生が少し困った笑顔を浮かべればすぐに止める。家庭科の堂本先生のように金切り声で怒鳴ることはしないし、ましてや体育の岡山先生のように竹刀で脅すなんてことは考えられない。物静かだが気品があり、そしてどこか逆らえないような力強さも感じさせるまなじりを持っている。


 靖子が音楽室で宿題を済ませるのは、家に居場所がないからだった。彼女が住んでいるのはとても狭いアパートで、六畳の居間に台所が三畳、たったそれだけなのだ。ちゃぶ台を立てかけないと靖子の小さな机を押し入れから出すことができない。学校から帰れば夕食の準備を手伝わされるので宿題を済ませることができない。だから居場所のないほかの子たちと同じように音楽室をたまり場にしているのだ。

 大抵の女の子は校庭や近くの公園でゴム飛びやけんけんぱをして遊んでいて、親の手伝いをする時間になると次々に帰っていく。男の子たちは野球に夢中だ。だれもが王選手や長嶋選手の真似をして素手でゴムボールを打ち、ピッチャーは口で言うだけのシュートを投げていた。


 さっきから道子先生はピアノを、同じところを何度も繰り返して弾いている。譜面を忘れてしまったのか、それともうまく弾けないのか分からなかったが、少し進めては同じところで止まってしまうのだ。やがてあきらめたようにため息をつき、両手を挙げて伸びをしたと思うと靖子の方に振り返った。

「水野さんは来年の万博に行く予定はあるの?」

「いいえ、ないと思います」靖子は少しためらってから答えた。

 理由を聞かれるのがいやだったからだ。大阪に行き、万博の入場料を払う余裕が家にあるとは思えなかったし、お父さんは休みの日曜日は寝てばかりいて、どこかに連れて行ってくれることなんてなかったからだ。道子先生はそんな靖子の心の中を読んだように、そう、とだけ言ってその話をやめにした。そうして、みんなに向かって、何かお話でもしましょう、と語りかけた。


「何の話がいいかしら」

 隣のクラスの、勉強ができる島田君は将来の夢がいい、といった。先生は、うーんとうなって、それだと作文のお題になってしまうから、とやめにした。

 靖子と仲のいい弥生ちゃんが、行ってみたい外国の話をしましょうよ、と提案する。私、絵本で読んだオランダに行ってみたい。水車やチューリップがあるのよ。お前、飛行機に乗るお金があるのかよう、とやんちゃな吉野君が余計なことを口にした。

 道子先生は少し黙って聞いていたが、やがて口を開いて、怪談はどう、と言った。少し季節外れだけれど。陽の出ているうちなら怖くないから。

 みんなはそれに賛成して、はじに座っている子から話を始めた。校庭の隅にある防空壕あとから聞こえてくるうめき声や、空き家に夜通りかかると時折見える火。

「それ、ルンペンじゃないの」と吉野君が言うと、大きな笑い声が起きた。

 道子先生は話が盛り上がってきたタイミングで、ピアノで変な音を出した。そのたび、弥生ちゃんは靖子の腕を握ってきた。外では雲が集まりだしてお日様を白く覆い始めていた。

 靖子は近所の公園の話をした。その公園には大きな池とわずかに残った石垣があり、応仁の乱の時代に滅ぼされた一族の亡霊が池から顔を出してくる、という、このあたりに住んでいる子ならだれでも知っている話をした。

 上級生の女の子が、森の近くの道の話をした。その子のお父さんが夜遅くに人気のない帰り路に、白い着物を着た親子を見た、というのだ。

「その道は、家のある一帯に向かう以外には、脇に逸れて奥にある神社に進む道しかないんですよ。近所の人ではなかったというし」

 その話は少し盛り上がった。学校から歩いて十分ほどで着くところだったし、街灯が少なく、神主のいない神社は荒れていて、背後には暗い森。昼間でも少し気味の悪い道だった。そうして何より、それは誰も聞いたことのない話だったから。

 靖子は黙っていた。それは、お母さんと私のことだわ、と思った。お父さんは時折、酔っぱらって職場の人を連れて帰り、マージャンをする。ただでさえ狭い家の中はいっぱいになってしまってお母さんと私は居場所がなくなってしまう。仕方がないから、お母さんと私は外で時間をつぶすのだ。夜、何もない外で過ごす二時間ほどつらいものはない。母はどこまでも歩いて行った。先ほど話をした公園にも行ったし、森の近くの神社にも行った。雨が降ってくると、神社の軒先は格好の雨宿りの場所になるからだった。

 靖子は恥ずかしくてたまらなくなり、ずっと顔を伏せていた。話が終わって正面を向くと、道子先生が靖子の顔を覗き込んでいたのが分かった。


「最後は先生の番ね。皆さんは、憲兵って知っているかしら」

 太平洋戦争中、憲兵はとても威張っていたそうだ。お国のことや戦争の勝利を疑うような人たちを連れて行って、蹴ったり、木刀で殴ったりしてひどい目に合わせたという。ある地方のある大きな家の息子が、憲兵だった。

「その憲兵のお父さんは軍隊で飛行機の設計をしていた偉い人で、周りのうちとは違う、困った暮らしをしていなかったそうです。そうね、いい憲兵さん、とでもしておきましょうか。いい憲兵さん自体は大陸にいて、その近所でひどいことをしたわけではなかった。けれど、村には一人、自分の気に入らない人をしょっ引いては暴力を働いたり、突然他人の家に入っていっては貴重なお米や砂糖を奪っていった悪い憲兵がいたそうよ。やがて戦争が終わると、その村で威張っていた悪い憲兵は死んでしまった。終戦の知らせを聞いて切腹したといううわさも、恨みを持つ誰かに殺されたといううわさもあったそうです」

 道子先生の話は時折むずかしい言葉が混じるのでみんなは少し退屈し始めていた。吉野君は足を前に投げ出し、弥生ちゃんは膝を丸めて顔をその中にうずめていた。

 島田君が、先生に先を話してくれるように促す。先生は頷き、続きを始める。

「いい憲兵さんは戦争が終わると大陸から、何年もかけて帰ってきた。そうして、大きなうちの離れで家族とふたたび暮らし始めた。奥さんと、小さな娘さん、三人家族だった。飛行機を設計していたお父さんは、軍隊がなくなった後は自動車の仕事についていて、いい元憲兵さんもそのつてで同じ会社で働きはじめた」

「いい元憲兵さんはまじめな人で、悪い憲兵とは似ても似つかない人だったのだけれども、村の人たちはよく思わなかった。だって、みんな悪い憲兵の印象が強くて、いい憲兵さんのことも戦争中は誰かをいじめていたと思われていたのね」

先生の顔は次第に険しくなっていったので、みんな話に飽きてはいたけれど黙っていた。

「いい元憲兵さんが帰ってから数年がたった時のある晩、その大きなうちの納屋から火が出たの。火の気のない、物置小屋からよ。当然そのうちは消防隊に連絡をした」

「けれども、消防隊は来なかった。やがて火はいい憲兵さんの住む離れに移ってしまった。小さなぼやで消せると思っていたのに、消防隊が来なかったせい大きな火災になってしまったのね。いい元憲兵さんとその奥さんは必死に火を消そうと頑張ったけれども駄目だった。年老いた元憲兵さんの年老いた両親が手伝って水をかけても、火は消えなかった。すっかり離れが焼け落ちてしまった後で消防隊が来て、これは放火らしいですな、といったきり戻ってし合ったそうよ」

 道子先生の顔は今までに見たこともないほどきつい顔になっている。

「先生、なんだか、本当に怖いです。その話、まだ続くのですか」と年長の女の子が頼んだが道子先生はかまわず話をやめない。

「消防隊の人たちが帰ったあとで、消えたと思っていた柱の一つが倒れてきたの。まだ熱かったその柱は、そのうちの小さな女の子に向かって倒れてきた。いい元憲兵さんは娘を助けようとしたけれど、間に合わなかった。女の子は悲鳴を上げた。肩から背中まで、その柱が打ち付けたせいでやけどを負ってしまったの。女の子は長いこと入院して、良くはなったけれど大きな傷が残ってしまったそうよ。女の子はやっと小学校に通えるようになった。ちょうど、皆さんと同じくらいの歳でね。皆さんとはい、先生の話はこれでおしまい」

 弥生ちゃんは汗びっしょりの手で私の膝をつかんだ。吉野君は青ざめた顔で黙りこくり、島田君はいつの間にか正座になっていた。

 空は薄暗くなるくらい黒い雲が覆いだしてきていた。先生の話で半べその子がいく人かいた。道子先生は、生徒たちに、

「さあ、雨が降りだす前に帰りましょう。先生もこの部屋に鍵をかけるから、皆さんも準備をしてね」と静かに言った。

 生徒たちは慌てて散らかっていた本やらクレヨンなどを仕舞いはじめた。先生はその様子を、能面のような顔でじっと見ていた。今まで見たことのない表情だった。


 大人になった靖子はときおり道子先生を思い出す。私たちが卒業してからどこに転校したかも、ひょっとして教師を辞めたのかもわからない先生。同窓会にも出ず、行方知らずの先生。真夏でも、厚手の、長袖のワンピースを着た先生の、凛とした背中を思い出すのだった。

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