AA

第1話

 墓守の男は棚に置かれた小箱を手に取り、上面に薄く積もった煤や埃を払う。蝶番を開けると、中には蒼い球状の発光体があった。彼はそれに気を取られることもなく、小さな桃色の菊の花と向日葵油を染み込ませた絹の布切れとを箱に入れ、元あった場所へ戻す。

 彼は随分と永いあいだこの単調な作業を続けている。彼自身、自分がなぜこんなことをしているのか、なぜここに居るのかすらわかっていない様子である。ただどうも、これをしていると心が落ち着くような気がするから続けているのである。

 ここには彼のような者がごまんといる。彼らは皆顔の見えない黒装束に身を包み、寝食も惜しんで御霊の面倒を見る。彼らは死の際、あくまで生を請うた者である。安寧を享受するを拒んだ者達である。あるいは生は叶わぬ願いと悟るまでの準備期間か、ここで無間の作業をし続ける者達である。

 彼らが手入をする球体も元は生命である。この館は貴賎、老若男女、果ては生物間の隔てのない全くの平等の世界。王侯将相、賤民、細菌、雑草、その他生きとし生けるものは等しくこの簡素な木箱に収められる。死は皆にもれなく訪れる客人ゆえ。


 男は考える。ここでいかほどの時を過ごしたろう。しかし答えは出ない。熟考の末、よしんば思い出したとしても価値のあるものでもないな、と結論づけて男は元の作業に戻る。その時だった。妙に心惹かれる物を見つけた。とは言っても唯の箱であるのだが、何故か暖かみを感じる。しかし他の箱にはかような感覚を抱いたことは一度もない。男は本能的に手を伸ばす。早く中を見なければ。そう思い蝶番に手をかけ蓋を開ける。中は空だった。

 男は混乱した。唯の空箱に何故あそこまで惹かれたのかが全くわからなかった。しかし目の前の箱は男の心を焦がし、今も誘惑を続けている。ますます混乱は深まるばかりであった。そうしているうちに、男は自分の胸に熱いものがあることに気が付いた。どうやら熱源は黒い外套の内ポケットのようだ。

『なにか』を掴んだ!そのなにかは灰色の霧だった。どうしてこんなものが?男は何が起こっているのか本格的にわからなくなってきた。しかしこの霧、手にとっても散ることなく寧ろ拳を優しく包み込んでくれる。その愛くるしい仕草に、男は本能的に接吻してやりたいと思った。

 思うがままに口付けをすると、男の体は霧の核へと姿を変えた。宿主を失った衣類が床へパサリと落ち、灰から淡い蒼へ色を変えた霧が空いた木箱へ自ずと収まった。すると他の墓守がやって来て、やはり菊と麻布とを入れて小箱をあるべき所へと戻した。


 ここにきてやっと、墓守の男は死ぬことを叶えたのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

AA @A-Atlanta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る