第3話 失われた栄光
片道1時間の長い下校を終えて自宅に帰ってきたのは、午後7時過ぎだった。
玄関で「ただいま」と独り言のような声で言うと、廊下の先の洗面所から母さんが出てきた。
「おかえり、聖士。夕ご飯は……大丈夫そうね」
母さんは僕の右手に提げられているスーパーの買い物袋を見ながら言った。僕は「うん」とだけ返事をして、母さんと入れ替わるように洗面所に入る。
その際に反対側にあるリビングをそっと覗くと、そこに父さんの姿はなかった。医学研究員である父さんは、今日もいつものように帰りが遅いようだ。僕は少しだけ気が楽になった。
手洗いとうがいだけを手早く済ませると、そのまま2階の奥にある自室に直行した。
真っ暗になっていた部屋の明かりをつけ、カバンと晩飯の弁当を机の上に置いてから、開けっ放しになっていたカーテンに手を伸ばす。
その時、ふと窓の外に目を向けると、向かいの家の真っ暗な2階の窓から、懐中電灯で顔面を下から照らした女が両目をかっぴらいてこちらを見ていた。
その世にも奇妙な光景を5秒ほど真顔で眺めていると、その妖怪みたいな女の口がなにやらパクパクと動き始める。表情と口の動きを見るに、多分こう言ったのだろう。
う〜ら〜め〜し〜や〜
僕は何も見なかったことにしてカーテンを閉め、ズボンのポケットに入れていたスマホを机の上に置いた。そのスマホから不機嫌な着信音が鳴り出したのは、直後のことだった。
やれやれと思いながら電話を取ると、
『む〜し〜す〜る〜な〜』
怨念めいた女の声が聞こえてきたので、仕方なく窓際に戻ってもう一度カーテンをめくった。すると向かいの家では先ほどの女が、灯りのついた部屋の窓ガラスに顔面をへばりつかせながらこちらを睨んでいた。
「……何してるの?」
少し間を置いてから尋ねてやると、ようやく女は人間らしい表情に戻り、スマホを耳に当てて愉快そうに話しかけてきた。
『いやー、たまたま外を眺めてたらナッくんが帰ってくるのが見えてさ。ちょっと驚かせてやろうと思って』
幼馴染の圭子はそう言いながら、向かいの家に住む僕にもはっきりと分かるほどの特大の笑顔を見せつけてきた。
「どうして外なんて眺めてたの?」
『星を見てたんだよ』
「星を?」
『うん! ナッくんも見た? 今日はすごく星が綺麗だよ』
圭子が向かいの窓でそうしたように、僕も窓ガラス越しに夜空を見上げてみる。
真っ暗な空には、たしかにたくさんの星々が輝いていた。これだけよく星が見える日というのは、たぶん珍しいのだろう。
「本当だね」
だが僕はその事実だけを確認し、すぐに視線を水平に戻した。
星なんて眺めて何が楽しいのか、僕にはさっぱり理解できない。
もちろんそんな無粋なことは口には出さず、しばらく圭子が感傷に浸るのを待ってやると、
『そういえばナッくんって最近帰りが遅い日多いよね。部活にでも入ったの?』
いつまでも通りに面した窓に顔を張り付かせているのも恥ずかしかったので、僕は窓際にあるベッドに座り直してから質問に答えた。
「ううん、なにも。ただ図書館で暇を潰してるだけ」
『それって一人で?』
「そうだよ」
『なにそれ、さみしー』
ステレオタイプのような女子高生である圭子にとって、放課後の時間を一人孤独に過ごすなんてことは正気の沙汰ではないらしい。
「ひとりで天体観測していた圭子に言われたくない」
『違うよ! さっきはレッスンの休憩中にたまたま外を見てただけだから!』
「レッスンって、ピアノの?」
『そうそう! 来月に最初の演奏会があるから、いまはそれに向けて特訓中なの』
口調から、気合のガッツポーズを作る幼馴染の姿が目に浮かぶ。
「そっか……圭子はいまでも弾き続けてるんだね」
僕も小学校に上がる前から、圭子と同時期にピアノを習い始めていた。だが僕のほうは小5の頃にやめてしまった。だから高校生になったいまでもピアノを続けている圭子が素直にすごいと思った。
『そうだ! せっかくだし、いまから一曲弾いてあげよっか?』
「えっ……うん」
突然の申し出に、咄嗟に首を縦に振ってしまった。
でも、いいか。思えば最後に圭子の演奏を聴いたのは小学生の時だったので、現在はどれほど成長しているのか内心興味があった。
「お願いするよ」
『オーケー! それじゃあ、いまからウチ来て』
しかし、こちらの誘いにはさすがに二つ返事を頷くわけにはいかなかった。
「ちょっと待って、それは話が違う」
『なにが違うの?』
「いや……〝いまから〟っていうのは、このまま電話越しに聴かせてくれるってことじゃなくて?」
『それはムリね。この時間は直接音を出すなって言われてるから、イヤホン使わないと聴けないし』
圭子は昔から自室の電子ピアノを使って練習していたが、どうやら夜の時間帯は家族や近所の迷惑とならないように直接音を出すのを控えているらしい。
『それに電話越しだと音が悪くてつまらないよ』
圭子の言うことには理屈が通っている。
だがそれで納得して「じゃあ行くね」とは言えない。
僕ももう高校生なのだから。
「んー……でも、いまからそっちに行くのはちょっと……」
『何か用事でもあるの?』
「ああ、ちょうどいまから晩ご飯を食べるところなんだ」
『晩ご飯って、どうせボッチ飯なんでしょ? ならウチに来て食べればいいじゃん!』
ボッチ飯……正論に心を抉られた。
「でも、いまはおうちの人いるよね?」
『そんなこと気にしなくていいよ。むしろナッくんならみんな大歓迎だから』
「そっちが良くても、僕が気にするんだよ」
『どうして? 昔はよくウチに遊びに来てたじゃん!』
「それは小学生の頃の話だから。この歳にもなるとやっぱりさ……」
圭子は僕の言いたいことを理解しつつも納得してないようだったが、最終的には僕の気持ちを汲んでくれた。
『しょうがないなー、それなら今度うちに誰もいない時にね』
うやむやな返事をして煙に巻こうとしたが、のちに「絶対だよ?」と念押しされてしまい、嫌々ながら承諾する羽目になった。
それから間もなく圭子との通話を切った後、そのままベッドの上で倒れ、手に持っていたスマホの動画アプリを開いた。
検索した動画は、4年前に行われた《県小学生陸上競技大会》の100m決勝の録画映像だ。
映像はゴール付近の客席から撮影されたもので、出場選手8人がスタートラインの手前に並んで立っているところから始まった。最初の1分ほどをスキップし、選手たちがスタートポジションについたところから改めて再生する。
Set……という男性の低い声の合図に、映像に中にいる8人の小学生が腰を上げた。そして約2秒後にバンッという鋭い号砲が鳴り、少年たちが一斉にスタートラインを飛び出した。
スタートの瞬間はほとんど横並びだったレースだが、中盤になると中央のレーンを走る小柄な少年が圧倒的なスピードでひとり抜け出した。体つきは小学生らしいのに、細い手足をビュンビュンと振り回し、トラックの上をチーターのように颯爽と馳せていく。その勢いは最後まで衰えることはなく、少年はぶっちぎりのトップでフィニッシュラインを駆け抜けた。まるで子供の中にひとりだけ大人が混じっているかのような圧勝振りだった。
少年がフィニッシュした直後、ゴール脇のタイマーに【11秒79】という速報タイムが表示され、周囲の観客から大きなどよめきが沸き起こった。画面が揺れ、「うおー、すげー」という撮影者した男性のものと思しき興奮した声が聞こえてくる。
オーディエンスの熱狂ぶりからも分かるように、これは極めて驚異的なタイムだ。100mを11秒台で走る小学生なんて、一世代にひとり現れるか否かといったところだろう。
速報タイムが一度消え、再び暗転したゴールタイマーへと映像がフォーカスされる。
程なくしてそこに【11秒80】という1着の正式タイムと、【+3・0m】という風速が表示された。『+』は追い風という意味。残念ながら追い風は2mを超えると公認されず、参考記録という扱いになってしまう。これには観衆の中からも少なからず落胆の声がもれた。
映像はその後、走り終えた選手たちの姿を捉えた。
優勝した少年の元に、他の選手が駆け寄っていき、がっしりと握手を交わしている様子が映し出される。
画質があまり良くなくて見えにくいが、このとき少年はライバルたちからの祝福に「ありがとう」と笑顔で答えていた。
たとえ見えていなくても、僕にはそれが分かる。
なぜなら、この少年は、かつての僕なのだから。
1分弱の動画を見終わって、スマホを机の上に置いた。
この動画は4年前にアップロードされたものだが、僕はいまでも時々これを見たくなることがある。
そして、見終わった後は決まって溜め息をついてしまう。
あの頃の僕は、走ることが大好きだった。
あの頃の僕には、大きな夢があった。
だからこそ、それに向かって邁進する日々はいつも輝きに満ち溢れていた。
しかし4年前のあの事故のせいで、僕は走れない体になってしまった。
いまの僕は、走ることが大嫌いだ。
あの頃の走りのイメージはしっかりと体に焼き付いているのに、それを思うように体現できないのがたまらなく不愉快だ。
だから僕は夢を追うことをやめた。
一番になれないのなら走り続けていたって意味がないと思ったから。
それなのに、僕は叶わないと知った夢に未だに囚われ続けている。一度己の胸に抱いた大いなる夢とは、そう簡単に捨てられるものではない。
僕がいまでも4年前の映像を振り返りたくなるのも、過去に輝いていた頃の自分を、現在の空っぽの自分に投射したいという願望からなのだろう。
あの頃の自分に戻りたい。だけど戻れない。
そのような不毛な葛藤に生きるエネルギーの大半を浪費してしまっている。きっとそのせいで他の物事に興味を抱く余裕がないのだ。
愚かなことだとは分かっている。いくら夢を見たところで、現実が変わることはない。いまここにいるのは、かつて最速スプリンターであったという少年の、抜け殻だ。いっそのことすべてを忘れることができれば、僕にも別の生き甲斐が見出だせるのかもしれない。
だけど、やはり思わずにはいられないのだ。
いつかは戻れる日が来るのではないか、と。
そして、そんな儚い期待を抱いては、裏切られる毎日を繰り返している。過去に戻ることもなければ、未来へ進むこともない。停滞した人生を、ただ時間ばかりを無為に消費しながら生きている。
僕だけだろう、こんな惨めな生き方をしているのは。
親友の尊は中学までやっていたサッカーをやめ、高校から陸上競技という新たな世界で頑張っている。
幼馴染の圭子は幼少期から始めたピアノをいまでも弾き続けている。
二人が自分たちの道をしっかりと歩んでいるのに、僕だけがいつまでもひとり立ち止まっている。
先ほど圭子の誘いを断ったのも、本当は年齢がどうのこうのという話ではない。僕が昔のままの僕なら、いまでも堂々と幼馴染の家族の前に顔を出すことが出来ただろう。
しかし、いまの僕にはあの頃のような輝きはない。以前の輝いていた頃の僕と現在の空っぽな僕とを比べられ、がっかりされるのは嫌なのだ。
はあ……どうしてこんなことになってしまったんだろう。
憂鬱な気分を忘れたくて、晩ご飯を手早く済ませた後、僕は食後に鞄から持ち歩いていた小説を取り出した。
今日を振り返れば虚しくなり、明日を思えば無気力になる。
後悔と失望ばかりの人生は、きっとこの先も続いていくのだろう……
……そう思っていた。
しかし、そんな僕の人生を変える出会いが訪れたのは、それから数日後のことだった。
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