第4話 我室恋歌
「我室恋歌です……よろしくお願いします」
初登校の日、教室の前に立った彼女は大人しい声で自己紹介をした。それは入学式から半月ほど経過したある日のことだった。
といっても、彼女は転校生というわけではなかった。入学式の日からクラス名簿の一番上には彼女の名前があったし、入口側前方の席はずっと空いたままになっていた。ただ彼女は、とある事情で登校できる時期が少し遅くなってしまったのである。
俗なことを言うようだが、我室さんはとても可憐な女子だった。派手さには欠けるものの、目鼻立ちがくっきりとしており、なによりスタイルが抜群だった。仮にモデルをやっているなどと言われても、クラスの誰も疑いはしなかっただろう。性格は僕と似てやや内向的な印象だが、それも飾り気のない紺色のブレザーと合わせて彼女のおしとやかなイメージを引き立てていた。
案の定、初めて教室に姿を現した彼女はクラス中の注目の的だった。
だがクラスの誰もが注目していたのは、彼女のその可憐な容姿ではなかった。
学校にいる間、彼女はいつも欠かさず藍色のキャップを目深に被っている。教室で机に向かっている時も、体育の授業中も、休み時間に友達と話している時も、彼女がキャップを外すことはない。
理由は単純、頭部に髪が生えていないのを隠すためだ。
抗がん剤の副作用で髪を失ってしまった、という事実を彼女の口から聞いたわけではない。だがそのことは、彼女が初日に自らが闘病中のがん患者であることを告白した時からクラスの誰もが察していた。
このことが、僕が彼女に強い興味を抱いた一つ目の理由である。
そして、そのさらに半月後。
ゴールデンウィーク明けの体力テストで彼女の走る姿を目にした時から、僕はもう一つの意味で彼女に強く興味を持つようになった。
あのとき彼女の美しい走りを目の当たりにした僕は、彼女の走りに一目惚れした。運命を感じたなんて臭い台詞は人には言えないが、驚きや感動などを超越した特別な感覚に見舞われたことは否めない。
あの感覚はいったい何だったのだろう——
彼女のことが知りたくて、あの後、僕はネットで少しばかり彼女の経歴を調べてみた。
分かったのは、彼女が中学時代、全国的にも名の知れたスプリンター、つまり短距離走者だったということ。2年生の頃までは主だった戦績はなかったが、最終学年になって彗星の如く頭角を現し、一躍その名を知られるようになった。とりわけ夏に行われた県大会の100mでは【12秒08】という男子選手顔負けの驚異的なタイムで優勝を飾っている。ちなみにこのタイムは当時の日本中学ランキングで暫定1位の記録だったと、ネット上のレポート記事には書かれていた。
また余談ではあるが、その頃の彼女は肩にかかる長さの艶やかな黒髪をしており、その可憐な容姿もあいまって〝美少女スプリンター〟などとツイッターや野暮なネット掲示板では囁かれていた。
そんな彼女だが、不幸にも練習中のケガが原因で夏の全国大会には出場できず、その悲報を最後に表舞台から姿を消していた。おそらくその後に彼女は病に侵され、アスリートとしての一線を退くことになったのだろう。
闘病中の元最速スプリンター。
いくら他人に無関心な僕でも、これほど稀有な経歴を持つクラスメイトに興味を持たないわけがなかった。
とはいえ、僕と同じ教室にいる現在の彼女は至って普通の女子高生だ。授業中は普通に授業を受け、休み時間は普通に友達と席を並べて弁当を食べている。身なりがちょっとだけ特殊で、欠席や遅刻・早退が少し多いことを除けば、普通の生徒とほとんど変わらない学校生活を送っているように見受けられる。
放課後の今だって、帰る支度をしながら隣の席の女子と楽しそうにおしゃべりをしていて――
「な〜〜〜ぐうッ!」
その時、いきなり背後から何者かに両肩をがっしりと掴まれ、僕の脳内リポートは強制中断させられた。
「なんだよ、尊……」
教室の自分の席に座わったまま首から上だけを後ろに回すと、地味なブレザーをお洒落に着こなした親友がいつものヘラヘラ顔で立っていた。
「なんだよじゃねーよ、ボケーっとしやがって。
さてはオメー、レンカちゃんのこと視姦してやがったな?」
尊がいきなりヤバいことを堂々と言ってきたので、僕は慌てて教室前方にいる我室さんの様子をうかがった。
幸いにも彼女は他の友達とのお喋りに夢中だったため、いまの爆弾発言は聞かれずに済んだらしい。ひとまず胸を撫で下ろしてから、バカな親友を睨みつける。
「いや、そんなんじゃないから」
「なーに、隠すことはねえよ。実は俺もだから」
「あっそ。で、なにか用?」
「おっと、そうだった! ナグ、いまから部活行かね?」
「行かないよ」
もう何十回目とも知れぬやり取りに、もはや判断を介することもなく即答する。
いつもならこれだけで終わる問答なのだが、今日の尊はしつこく食らいついてきた。
「そんなこと言わずにさー、ちょっと見に来るだけでもいいだって」
「やだ」
「いまならお前の大好きなレンカちゃんもセットでお買い得だぜ?」
「別に部活じゃなくたって、教室で毎日見てるから。っていうか、勝手に人を売るんじゃない」
「ちぇッ、意固地なヤツだなあ」
明らかに僕が意固地なのではなく、尊が懲りないだけだ。
「だいたい、どうして尊はそうまでして僕を部活に入れたがるのさ」
「そりゃあもちろん、人手不足だからだ」
……相変わらず、現金なやつだ。まあ僕は腹黒だから、こういう正直な答えのほうがむしろ好きだけど。
「この前の県総体で3年生のほとんどが引退しちゃってさ。いま短距離は俺も含めて二人しかいないんだよ。このままだとリレーチームも組めやしねえ」
陸上競技には4×100mや4×400mといった、いくつかのリレー種目が存在するが、それらのチームはいずれも4人のメンバーで構成されるものだ。
だが僕は知っている。リレー種目はなにも短距離選手だけが走らなくてはならないものではない。
「メンバーが足りないのなら、他の種目から〝助っ人〟として走ってもらえばいいじゃん」
実際に短距離選手を4人も揃えられないような小規模のチームでは、跳躍やハードルといった別種目の選手にリレーを走ってもらうことはよくある話だ。
「〝助っ人〟って言ってもなあ……」
「ほら、うちのクラスにもいるじゃん。島田くんとか」
「おいおい、そりゃあ冗談だろ!」
うん、冗談だ。
島田は僕のクラスメイトで、尊と同じく陸上部に所属している。種目までは聞いてないが、彼の豊満な恰幅を見れば大方の予想はつく。おそらく投擲種目のいずれかだろう。言っては悪いが、とても俊敏に動ける体には見えない。
「まあ彼じゃなくたって、リレーを走れる人なら他にもいるでしょ」
「いやいや、ただチームが組めればいいって話じゃねえんだよ。俺はリレーでインターハイに出たいんだ」
インターハイか。
たしかに全国を目指すのならば、寄せ集めのチームでは力不足だろう。
だけど――
「だったら、なおさら僕では力になれないよ。僕はもう、昔みたいには走れないから」
「そんなのやってみなきゃ分からねえだろ。 部活に入って練習すれば、案外また走れるようになるかもしれないぜ?」
走れるようになるかもしれない、か――
そんなこと、僕だって夜の数ほど考えたさ。
無責任な文句で口説こうとしてくる親友に、僕はほんのちょっとだけ嫌気が差してしまった。
「部活に入れば速くなれるっていうなら、いますぐ入るよ。だけど陸上はあくまで個人スポーツなんだ。仲間と一緒に走ったからって強くなれるわけじゃない」
言った後のわずかな沈黙で、つい冷めた物言いをしてしまったことを後悔した。こんな突き放すような言い方をしたら、さすがの尊も愛想を尽かしてしまうかもしれないと思った。
しかし尊は気を悪くするような様子を見せることなく陽気に笑った。
「たしかに仲間とか絆とかって言葉にすると安っぽく聞こえるかもしれねえけど、実際に感じてみると馬鹿にできねえもんだぜ?」
「……」
仲間と走った経験を持たない僕に、尊の言葉を否定する権利はない。
それでも、ずっと一人きりで走り続けていた僕には、その言葉を素直に受け入れることができなかった。
板挟みになる自分自身の思考から逃れるために、僕は荷物を持って席を立った。
「ごめん、今日は帰るよ」
尊は一瞬驚いたような反応を見せたが、引き止めてくるようなことはしなかった。
「そっか……なら、また明日な」
いつものように明るく、しかしどこか寂しげな親友の笑顔が心に刺さる。
「うん、尊も部活がんばって」
せめてそう言い残し、居た堪れない思いに駆られるようにそそくさと教室を出た。
きっと尊は本気で僕のことを思って、僕を部活に誘ってくれているのだろう。そのことにはとても感謝しているし、だからこそ僕もあいつの誘いを断るのは本意ではなかった。
僕と尊が出会ったのは、あいつがうちの近所に引っ越してきた小4の頃だった。当時は幼馴染の圭子と3人でよく一緒に遊んだものだ。別々の中学に進んでからは疎遠になっていた時期もあったが、高校生になって再会したあいつは、すっかり人付き合いが苦手になっていた僕とも変わらず親友でいてくれた。あいつくらいだろう、僕がいまの学校で親友として気兼ねなく接することができる相手は。
だから尊のいる部活は、僕にとって何処よりも居心地の良い場所になるに違いない。たとえ活動内容に興味が持てずとも、それだけで部活に入るには十分な理由になるのかもしれない。
――だけど、やっぱり僕は走るのが嫌いだ。
僕と尊との間の友情をもってしても、これだけは変えられない。
だから、たとえ竹馬の友の誘いであっても受けてやることができないのだ。
暗澹たる気分を心の奥底に押し込め、玄関でいつものように一人で靴を履き替えて校門に向かった。
その道すがら、タッタッタとスニーカーの革底がアスファルトを軽やかに擦る音が耳に届いた。
普段は他人の足音などいちいち気に留めることはないのだが、その音が徐々に僕の背後へと迫り、しまいには「南雲くん」と名指しで声をかけられてしまえば足を止めざるを得ない。
呼び声が女子のものであったことを不審に思いながら恐る恐る振り返る。
すると目の前に立っていたのは、なんと藍色のキャップを被ったクラスメイトだった。
「……ごめん、ちょっといい?」
こちらが呆けていると、彼女が再度呼びかけてくる。間違いなく、彼女の口から発せられた声だ。僕には向けられたことのない、しかし教室の中で何度も聞いた覚えのある声だ。
「……なに?」
そのたった2文字ですらしどろもどろになるほど、僕はひどく慌てていた。
それほど衝撃的だったのだ。僕なんかに、あの超有名人である我室さんが声をかけてきたことが。
ただでさえ異性と会話をする経験が乏しいのに、その相手が彼女となれば、驚愕と動揺で頭の中がパニックになるのは必定である。
「あのね、南雲くんに話したいことがあって……」
一方、彼女のほうも異性と対話するのは苦手なのか、もじもじと言葉尻を窄めた。
「僕に話?」
彼女は黙って頷いた。
心臓の鼓動がますます激しくなる。こんな放課後に二人きりのシチュエーションでいきなり「話したいことがある」だなんて、
内心がすでにトランス寸前の状態にある僕に、彼女は潤みを帯びた視線を向け、そして言った。
「南雲くん……陸上部、入らない?」
「……え?」
まったくもって予想外の台詞に、僕の手から傘が滑り落ちた。
彼女はすぐさま慌てた様子で視線を脇にそらした。
「ごめんなさい、いきなりこんなこと言って」
「あ……いや別に……」
僕は愛想笑いを作りながら、落ちた傘を拾い上げた。
愛の告白でなかったことは残念というよりむしろホッとしたが、それでも彼女の発言は僕の頭を混乱させるだけの十分な効果を発揮していた。
どうして我室さんが、つい先ほどの尊と同じことを僕に言ってきたのだろうか……
「そういえば我室さん、陸部のマネージャーをやっているんだっけ」
「うん……」
ひとまず世間話のような会話を挟んで思考を落ち着かせてから、彼女の真意を尋ねる。
「でも、どうして僕のことを?」
理由もなく彼女が僕を勧誘してくることは無いだろう。僕と彼女はそんな間柄ではない。というより、面と向かって会話をしたのはこれが初めてだ。
では何故だろう。先月の体力テストの結果を知って僕をスカウトする気になったのか。それとも尊のやつがついに我室さんを使って色仕掛けを……?
「えっとね、その……」
それまで以上にそわそわする態度を不審に思いつつも、彼女の口が開かれるのを静観して待った。
数秒後、目の前のスーパースターの口から返ってきた言葉は、あまりに衝撃的なものだった。
「わたし……南雲くんのファンなんです」
「…………え?」
僕は拾い上げていた傘を再び地面に落とした。
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