第2話 失意

 ハンドボール投げの計測が終わり、50m走を行う直走路に移動しようとしていた時、


「ナグ、せっかくだし勝負しようぜ!」


 尊に不意を突かれ、両肩をかっちりとホールドされてしまった。


「勝負なんかしたって、僕が尊に勝てるわけないじゃん」


 僕は遠慮するつもりで拘束から逃れようとしたけど、尊はニコニコと僕の両肩を掴んで離さない。


「なに弱気なこと言ってんだよ! やってみなきゃ分からねーだろ?」

「だって尊は陸部で、しかも専門は短距離なんでしょ?」

「まだ始めてから1ヶ月だっつーの! 競技歴ならお前のほうが長えよ」

「僕のは小学生の頃の話だから」

「大丈夫だ、その頃の貯金がまだ残ってる」

「そんなの中学3年間の帰宅部生活でとっくに使い果たしたよ」


 色々と抗弁を試みたものの、結局そのまま無理やりスタートラインに並び立たされてしまった。


『位置について!』


 こうなったら仕方がない。尊には勝てなくとも、せめて女子のタイムには負けないように頑張ろう。

 僕は石灰で引かれた白線に両手をついた。後ろの人が足を貸してくれるので、それをスターティングブロックの代わりにして両足を添え、クラウチングスタートの姿勢をとる。


『よーい……』


 無理のない程度に腰を高く浮かせて――


『はいッ!』


 合図を聞いた瞬間、全力で土のグラウンドを蹴った。


 スタートの基本は体を前傾させることと、腕を大きく使って地面を強くキックすることだ。そうすることでキックの力を効率よく推進力に換え、よりスムーズに加速していくことができる。

 かつて何百回と練習した動きだ。イメージはいまでも完璧に体に染み付いている。あとはそのイメージ通りに動けば、体は自然とスピードに乗ってくれる……


 ……はずなのに。


 現実の僕の体は、まったく思い通りスピードに乗れていなかった。

 死に物狂いで手足を動かしながら、僕は思う。


 ああ、またこの感覚だ。


 こんなに強く地面を蹴っているのに。

 こんなに激しく腕を振っているのに。

 体が全く思うように進まない。かつて感じていたはずのスピード感が得られない。

 まるでぬかるみの上でバイクが車輪を空回りさせるみたいに、地面に着いた足は反動をうまく全身に伝えることなく後方へと流れていく。


 違う、こんなのは僕の走りじゃない!


 ふと視覚に意識を向けると、尊の大きな背中が数メートル先に見えた。

 うわっ、なんて無茶苦茶なフォームなんだ。上体がやけに右側に傾いているし、視線が下を向いている。よもやそこにサッカーボールがあると錯覚しているのではあるまいか。

 しかし、これが天性の運動センスってやつなのか、接地の瞬間にはしっかりと軸足に乗り込み、うまく地面に力を伝えている。一歩進むたびに、尊の背中が遠ざかっていくのがはっきりと分かる。


 くそッ、負けたくない……


 人間の中に眠る闘争本能に意識を逸らされる。


 これ以上離されるな! 進め! 追いつけ!


 しかし、そうやって焦れば焦るほどに動きは硬くなり、むしろ尊との差は広がっていく。

 結局手も足も出ないまま、50mという距離はあっという間に過ぎ去ってしまった。


 ゴールラインを超えた先で止まった後、僕は両膝に手をついた。

 わずか数秒間とはいえ、久しぶりの全力疾走だったからものすごく疲れた。

 いや、こんなのは《疾走》とは言わないか。50mという距離を、ただがむしゃらに手足を振り回しながら進んだだけ。ただのエネルギーの浪費でしかない。後に残るのは、実に不快な疲労感だ。


 戻ってくる途中で、計測をしていたクラスメイトがタイムを読み上げてくれた。


「6秒0!」


 一瞬「えッ?」と思ったが、それが先にゴールした尊のタイムであると知って落胆し、同時に感嘆する。高校受験のブランクもある中、部活に入ってたった1ヶ月の練習でこれほどのタイムが出せるのは相当なものだろう。改めてあいつのスプリンターとしての素質には脱帽させられる。

 しかし、当の尊はこのタイムに満足している様子はなく、むしろ5秒台を出せなかったことが悔しかったのか、「やっぱ土だと走りづれぇー」などとわざとらしく大きな声で不満を漏らしていた。僕に大差をつけておきながら、まだ高望みしようというのか。


「やっぱり尊は才能あるね」


 もっと自分の非凡さを自覚しろ、という寓意を込めて言ってやったのだが、


「いやー、それほどでもあるかな!」


 おだてるとすぐに鼻を高くしやがるので、それ以上は褒めないことにした。

 少し遅れて、僕の計測してくれた男子から【6秒6】というタイムが告げられた。


「そういうナグも速ぇじゃん! 3年も帰宅部やっててそのタイムはわりとすごくね?」


 確かに、僕のタイムも体力テストの得点としては満点に相当する。全国の男子高校生の中ではそれなりに速いほうなのかもしれない。

 だが僕としては、タイム云々よりも走りの内容が酷かったことが問題なのである。


 そんな僕の心の苦味を知らない尊は、「やっぱお前、陸部入れよ」と満面の笑みで僕の肩に手を置いてきた。

 僕はその手を退けながら、「考えておくよ」といつもの空返事を返した。

 何を言われようとも、陸上部に入るつもりはない。

 僕には尊のように力強く走ることも、我室さんのように軽やかに走ることもできない。

 僕には自分の思い描く走りができない。


 だから、僕は走ることが大嫌いなのだ。  


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『人は何のために生きているのだろう』


 誰しもが長い人生の中で一度は至るであろう自問に僕が行き着いたのは、中学に進学して間もない頃だった。

 そしてその問いに対する僕なりの答えがこれだ。


『人は自分を満たすために生きている』


 食べたいと思ったものを食べる。聴きたいアーティストの音楽を聴く。恋をした異性と付き合う。成りたい職業に就く。成し遂げたいと思った夢を叶える――

 人は様々な欲求を持ち、それを満たすことに至福を感じる。これこそが生きるということなのだと、僕は未熟ながら考えている。

 そして人に欲求を与えてくれる存在が、興味、興奮、感動といった心の反応である。


 そのような人生観に基づけば、幼い頃の僕は毎日が満ち足りた人生を送っていた。大好きな豚カツを食べること、好きなアーティストの曲を聴くこと、近所の友達と公園で遊ぶこと。そんなちっぽけな欲求がたくさんあって、それらが容易に満たされていたあの頃は、毎日が充実していた。


 しかし、ある出来事がきっかけで、僕の人生はガラリと変わってしまった。

 4年前に見舞われた事故が、僕からすべてを奪い去ってしまった。


 あの事故以来、僕は身の回りの景色、音、匂い、味、そういったものに感じ入ることができなった。大好物の豚カツも、好きなアーティストの音楽も、仲が良かったはずの友達さえも。まるで世界のすべての存在感が薄れてしまったように感じられた。


 街も空も動物も植物も人間も、あらゆる存在が石で作られたように冷たくて、ドライで、無味無臭で、モノトーンで、無機質な世界。


 そんな世界では、何事にも興味が湧くことはない。

 心を揺さぶるような興奮や感動に、出会えるはずがない。

 自分を満たしてくれる欲求は消え失せ、いつしか僕は満たされることのない空っぽな人間になっていた。


 高校生になって2ヶ月が経とうとしても、そんな毎日に変化は訪れなかった。クラスで休み時間に言葉を交わす程度の友人は作ったが、学校外の時間まで共有するほどの親友を作ろうとは思えなかった。部活もいくつか見て回ったりもしたが、いずれにも興味が持てず、結局中学生の頃と同じ帰宅部を選んだ。


 放課後になると、この頃は近くの図書館で閉館時刻ギリギリまで時間を潰すことが多くなった。

 本を読むのはいい。密度の濃い物語が、現実の空っぽな自分を満たしてくれる。本を開いている間がいまの僕にとって最も“生きている”時間だ。


 そうは言っても、空想の物語が現実に生きる僕を本質的に満たしてくれることはない。所詮は現実逃避なのだ。心が満たされるのは、物語に耽溺している間だけ。


 だがそうでもしなければやっていられないのだ。一時でも精神のバランスを安定させてくれるものがないと、僕はきっと崩壊してしまう。心の栄養補給は必要だ。タバコを吹かしたり、自棄酒やけざけを煽ったりするよりかは健全で良いだろう。


 だから僕は今日もこうして人目に着きづらい角の席に座り、昨日買ったばかりの新作小説に読み耽っている。さっさと家に帰らないのは、自宅が僕にとってあまり居心地の良い空間ではないからだ。


 よほど心が乾いているのか、物語に触れている間というのは、つい時が経つのも忘れてしまうものだ。今日も気がつけば閉館10分前を告げるアナウンスを聞いていた。


 図書館を出てからは、帰路につこうと高城駅にひとり歩いて向かった。

 駅から学校間の道中、いつも市営の陸上競技場の横を通る。2年くらい前に改装されたばかりの、鮮やかなブルータータンの競技場だ。近頃はすっかり日が落ちるのも遅くなり、この時間帯でも近隣のいろいろな中学・高校の陸上部員が練習している姿を見かけるが、今日のところはほとんどが中学生のようだ。

 そういえば、ちょうど今日から新潟市のほうで高校生の県総体が行われているのだった。尊も1年生ながらリレーメンバーとして出場したそうで、残念ながら予選で敗退してしまったと、午後の授業中に本人からLINEでメッセージが送られてきた。


 僕は歩きながら、トラックやフィールドの中を盛んに走り回る中学生たちを眺めた。

 僕よりひと回り若い彼らは、きっと大きな目標に向かって毎日頑張っているのだろう。だから辛いはずの練習の最中にも、あんなに生き生きとした表情を浮かべている。こうして側から眺めているだけの僕のほうが、よほど疲れきった顔をしているに違いない。


 羨ましいな、ああやって何かに向かって情熱的に走り続けていられるのは。

 僕にはどこにも、向かうべき場所がない。


 惨めな気持ちを抱えながら競技場の脇を通り過ぎ、しばらく歩いた先にある高城駅でいつもの電車に乗った。

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