第一部 後悔ばかりの毎日
第1話 出会い
「なあ、ナグ――」
土のグラウンドの上で胡座をかきながら体力テストのシートを記入していた僕に、親友の
「お前ってたしか足速かったよな?」
体育用のハンドボールを手に取りながらいつもの能天気な口調で尋ねてくる親友に、僕は視線を手元のシートに下ろしたまま他人事のように答えた。
「昔はね。いまは全然」
「ふーん……」
親友は力の抜けた返事をすると、わずかに助走をつけて右手に持っていたハンドボールを白線の手前から勢いよくぶん投げた。予想をはるかに上回る凄まじい投球に、計測係のクラスメイトが慌てた様子で後ろに下がっていく。
「45m!」
野球部でも通用しそうなほどのビッグスローだったにも関わらず、まるで興味なさそうな涼しい表情で戻ってくる親友に、今度は僕から僻みを込めて言ってやった。
「そういう尊はずっとサッカー部だったよね?」
「中学まではな。いまは陸上部だ」
ああ、そういえばそんなこと言っていた。ひと月前にこの
サッカーにしろ陸上にしろ、どちらも足をメインに使うスポーツのはずだが、その強肩は一体どこで身につけたのやら。尊とは小4の頃からの付き合いになるが、まったく、こいつの身体能力の高さは昔から異常だ。
計測係から返されたボールを僕にパスしながら、尊は言った。
「ナグはまだ部活入ってないんだろ? だったら一緒に陸部入ろうぜ」
「ヤだよ」
親友の誘いを、僕は迷うことなく拒否した。
「僕、走るの嫌いだから」
「えー、なんでだよ! 全力で走るのって気持ちいいじゃん! なんかこう、自分だけの世界を駆け抜けてるみたいでさ!」
「逆だね。走ることほど自分の思い通りにならないことはない、って僕は思う」
きっぱりと言い放ってやると、尊は「そうかなぁ」と異国の言葉でも聞いているかのような顔で首を傾げた。
まあ、無理もないか。尊のように抜群の運動センスに恵まれた人間には、身体を思い通りに動かすことのできない者の苦悩など理解できまい。おまけにこいつは高身長とイケメンフェイスにも恵まれてやがる。どこまでも苦労知らずなやつ。ちくしょう、こういうやつには何かひとつくらい致命的な欠点があったっていいものだ。前髪の後退が早いとか、足がとんでもなく臭いとか……
そんな阿呆なことを考えながら、僕は受け取ったハンドボールを持って投擲ラインの手前に立った。フゥと静かに息を吐き出し、十分な助走をつけ――渾身の力を込めて放った一投は、尊の半分にも満たない距離で情けなく地面に墜落した。
ああ、これは尊のヤツ、絶対に馬鹿してくるだろうなぁ……
あたかも調子が悪かったというように小首を傾げながら振り返ると、親友は醜態を晒した僕のことなど全く見てはいなかった。
何事だろうと思い、こちらに無言で背中を向けている親友の視線を追ってみると、その先では女子が50m走の計測を行っているところだった。
うちの高校の体育の授業は基本的に男女別の2クラス合同で行われるが、新学期が始まってすぐの体力テストだけは男女一緒に行われている。今日は屋外種目を実施しており、先に男子がハンドボール投げ、女子が50m走、それが終わり次第もう一方の種目の測定を行う段取りになっている。
いつも好みの女子を見かけては「あの子かわいくね?」とか言っているチャラ男が、今ばかりはやけに神妙な面持ちで女子の集団を見つめている。その様子が気になって「どうしたの?」と声をかけてみると、チャラ男は前を向いたまま、緊張感さえ感じさせるような重い口調で言った。
「次、レンカちゃんが走るんだよ」
「それって、
無言の首肯が返ってきた。
僕もスタートラインに立つ二人の女子のうち、手前に見える
「あの人がどうかしたの?」
「……まあ見てなって」
直後、スターター役を務めていた同クラスの女子が腕を高く上げながら「位置について」という号令を発した。その号令に合わせ、我室さんともうひとりの女子が並んでクラウチングスタートの姿勢をとった。
僕も尊の隣に並び立ち、これから始まる計測を黙って観察することにした。
スターターの「よーい」の声で二人の女子が腰を高く上げ——「ハイッ」という合図で同時に第一歩を踏み出した。
その最初の一歩を目の当たりにした瞬間こそが、
驚くほど低い姿勢でスタートラインを飛び出していく我室さんの姿に、僕の視線はあっという間に釘付けになった。
それから徐々にスピードに乗るにつれて、彼女の一歩一歩の足さばきがどんどん軽やかになっていく。ザッザッザッと軽快に土の地面を蹴る音が、遠巻きで眺めている僕の耳にも聞こえてくる。決して男子のように〝力強さ〟や〝たくましさ〟を感じさせる走りではないが、細身な体はまるで風に吹かれるみたいにスイスイと前へ進んでいく。
すごい……。スピードもさることながら、なんと美しい走りなのだろう。隣の女子が必死に地面を蹴って走っているのに対し、彼女はまるで見えない翼で宙を舞っているかのようだ。これは尊が注目するのも頷ける。彼女のしなやかで軽々とした走りは、男の僕にすら羨望を抱かせてしまうほど見事だった。
しかし驚愕、羨望の他に、僕の胸中にはもうひとつの感情が沸き起こっていた。
それは、違和感。
あのような華麗な走りを観るのは初めてのはずなのに、どうにもその事実がしっくり来なかったのだ。
あの人の走り……僕は以前にもどこかで――
まさかと思い記憶を巡らせようとしたが、違和感の正体に行き着くよりも早く、彼女は全長50mの砂の大地を軽やかに駆け抜けていった。
時間にして、約7秒。
普段なら意識することもなく消化されていくような僅かな時間。
だがそんな時間がまるで何倍にも濃縮された呑み物のように僕の意識に染み渡り、過ぎ去ってもなお強烈な後味を残していた。
ゴールラインを超えたしばらく先で停止した彼女に向かって、計測係を務めていたクラスメイトが大きな声で【7秒5】というタイムを読み上げた。
「ヒュー、さすがレンカちゃん!」
直後、隣にいた尊が小気味よく口笛を鳴らす真似をした。こいつが自分以外の人間に目を輝かせるなんて珍しい。一緒に見ていた僕も何か感想を求められているような空気を感じたので、
「うん……すばらしい走りだったね」
率直に感じたことをやや気取ったニュアンスで批評すると、尊は少しばかり得意げに笑みを浮かべた。
「だろ? 本気出してりゃ間違いなく6秒台は出てたろうぜ」
彼女が尊のお気に入りなのかは知らないが、尊の評価は決して贔屓目などによるものではない。実際、僕の目にも先の彼女は7割ほどの力しか出してないように映った。
彼女が本気で走らなかったのは、なにも怠惰な性格だからではない。そうせざるを得ない事情があるのだ。
その事情とは、彼女がいつも欠かさず頭部に身につけている、あの藍色のキャップが物語っている。
「仕方ないでしょ。あの人、病気なんだから」
「そうだなー、中学の頃はあんなもんじゃなかったしな」
「へー、尊は我室さんのこと詳しいんだね」
特に他意があったわけではないのだが、尊は照れたように顔面を綻ばせた。
「別に詳しいってほどじゃねーけどよ。まあ一応は同じ中学だったし? いまも部活で一緒なわけだし?」
我室さんが尊と同じ《
「あの人、今でも部活やってるんだ?」
「ああ。つっても、選手じゃなくマネージャーとしてだけどな」
「ふーん……」
なるほど、それで尊は彼女のことを気安く下の名前に〝ちゃん〟付けして呼んでいるわけか。やはりチャラ男だな、こいつは。
いくらか我室さんに関する情報を仕入れたところで、僕は改めて藍色のキャップを被ったクラスメイトに目を向けた。
計測を終えた後、彼女は一緒に走ったクラスメイトからの賞賛に笑顔で答えていた。
普段は日陰で読書でもしていそうな大人しい女子が、いまは太陽のように燦然とした笑みを浮かべている。
入学式から1ヶ月、彼女と一度も会話をしたことがない僕にもこれだけはハッキリと分かる。彼女は走ることが大好きなのだ。
羨ましいな。あんなふうに満ち足りた笑顔になれるのは。
いつからか心の底から笑うことを忘れてしまった僕には、あのような笑顔は作れないだろう。
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