オルゴールの夢

檜木 海月

オルゴールの夢

世界は簡単に色を変えるなんて月並みなことを吐いたところで、反応を示す人もいない。

来年なんて浮ついた言葉がいよいよ現実味という輪郭を帯びてくる師走も末の深夜二時、私は今日も冴えない顔で覚めない夢を見続ける。

なんて格好をつけても仕方がない、体も心もとうに寒波にやられて冷え切っていた。震える手で煙草を消して残り香なのか吐息なのか分からない白い息を吐いてアパートの階段を登った。


部屋に入って舌打ちする、凍ったような床にも山積みの段ボールにも嫌気が差す。学生の時分より住んでいた自分だけの居城が崩壊の危機を辿っているからだ……なんて言えば聞こえはいいがただの区画整理によるアパートの取り壊しの煽りを受けただけ。


「めんどくせぇ……」


ガタガタと震えながら、ガスストーブと暖房にスイッチを入れて部屋をあっためる間に部屋着に着替えてショットグラスでウイスキーを煽る。内側から体を温める最善策はコレだとロシアのおじさんたちが証明している、人類の積み重ねとは素晴らしい。

コンロで湯を沸かしている間にカップ麺の準備やら乾燥機に放り込んでいた洗濯物を取り出したりして、部屋が温まるまでは忙しなく動き、ある程度部屋が温まれば蕎麦屋の前の信楽焼の如く酒を煽り動かない木偶の坊にシフトチェンジ。


永遠にも近い三分間を乗り越えてカップ焼きそばの湯を切ってからリビングに向かう。その間に立ちはだかる段ボールを足の先で雑にどかしていけば何かがカタンと嫌な音を立てて床に転がった。

手に持ったカップ焼きそばと床に転がる謎の物体を二度三度見比べて、本日何度目かのため息を吐いてからカップ焼きそばを置いて床に蹲る。さてはて、一体何のガラクタが落ちたのだろうか。


「……?」


それは身に覚えがないようで、ずっと内側にあったような気がする。

床に転がった埃被ったソレは綺麗な装飾が施された宝箱のようで私はソレが何かを思い出すのに実に数分ほど費やしたが考えたところでわかる訳もなく、諦めようとした瞬間に痺れを切らしたように私の手の中のソレが本当に古びた音……と呼ぶには烏滸がましい異音を奏でた。直後、頭の中に響き渡る衝撃。


「オルゴール?」


『正解』とでも言うように、ソレは私が名前を読んだ瞬間に異音を止めて静まり返る。慌てて私は埃を払って慎重に、まるで爆弾でも処理するくらいの面持ちでゆっくりと開いた。素人目から見ても分かるほど錆びたソレは絵に描いたような、というか絵本からそのままくり抜いたような見た目のオルゴールだった。


『はい、これ。クリスマスプレゼント』


あぁ、思い出した。


『本当にあなたは……』


昨日はちょうどクリスマスだった。




ぶくぶくと浴槽に口までつけて泡を水面に浮かべながら、思い出したくなかった思い出に打ちひしがれる。明日も仕事だと言うのにこんなバッドコンディションで出勤するのは本当に気が重い、いやマジで。

そもそもの話として、私は変化というものが大っ嫌いである。シャバシャバのカレーライスと骨のついたケンタッキーよりも嫌いなのだ。単純な人間なので適応力も高ければ馴染んで仕舞えばこっちのもんだが、その前の変化が受け入れられない。

私は『過去』を捨てられない、私は『未来』に展望を抱けない。故に引っ越しなど最悪中の最悪だ、本当に反吐が出るほど悍ましい。かといって取り壊されるこのボロアパートと心中する気もないので、悪態をつきながら最後の抵抗とばかりにノロノロ引越しの準備をする。似たものをあげると人間関係が変わるのも嫌いだ、友人だった人間が恋人になったり、友人同士がくっついて微妙な雰囲気になったり、知り合い同士が揉めたりなど論えばキリがないが、潔癖にも似た拒絶反応がその度に私を襲うのだ。


なんてグダグダいっても胸の奥に支えたこの感情は変えようがない。あのオルゴールの錆びた音色が耳の奥にこびり付いて離れない。


きちんと調律の取れた音が聞きたい。

きちんとあの曲に想いを馳せたい。

きちんと最後に彼女が吐いた言葉を思い出したい。


この嫌悪とも好奇とも喜びとも哀しさとも区別のつかない感情の変化が何なのかを私は知りたいのだ。


「だから嫌いなんだよ、変わっていくものなんて」


呟いても、一人。



・・・



あれから二日が経過した。その間も脳味噌を暴れ回る正体不明の感情が気持ち悪くておちおち眠ってもいられないので寝ぼけ眼を擦りながら午前十時の電車に揺られる。

最近ではいよいよ見境なく太陽が照りつけていても体の芯から凍ってしまいそうな気温が町の中を蹂躙している。寒いのも苦手なのだが暖房の匂いが嫌いな私は不自然に頬が火照る度に熱病に浮かされたような気持ちになる。そうして外に出るたびに酔いが覚めていくような気持ち悪さに襲われる。こういった変化も、私が嫌いなものの一つである。


チェーン展開されているコーヒー屋とは名ばかりのフラペチーノ屋でドリップコーヒーを二つ買って都心部から離れた場所にある寂れた商店街に足を踏み入れた。年末一掃セールや、年がら年中閉店セールを行っている店々の前を闊歩して目指すのは時計屋である。

名義上は時計屋なのだが、実態は使い道があるのかわからないガラクタから最新のゲーム機、果ては曰く付きの人形まで売り出している闇鍋みたいな店である。そこの今の店主は私の高校時代の友人であり、彼は非常に器用で手際がよく繊細な技術を持った人間なのだが、一物を与えられた人間というのは聖人か狂人か星人の三択であり、彼は星人でいて狂人という一年に一回会うくらいでお腹いっぱいになるコスパのいい男だった。


「よぉ」


案の定、店内は閑古鳥が爆音で鳴いている、閑古鳥が鳴きすぎるせいで客が来ず、客が来ないことで閑古鳥が鳴いているのでは……そう錯覚するほどの負のループをその身に刻んだ男は欠伸混じりに手をあげて挨拶を返した。

一体全体、彼はどうやって生計を立てているのであろうかマチュピチュ建設と並ぶくらいの人類の謎である。私の予想では彼はきっと諸外国相手に人身売買をしているのだと勝手に決めつけている。


「ようこそおいでなすった、寒かったろ」

「寒いよ、マジで家から出るか迷ったもん今日」

「寒かろうて、ほらこっちゃ来いここ暖房がいい感じに当たるから」


お言葉に甘えて出された椅子に腰掛けると、本当にいい感じに暖房が当たるポジションでこれなら暖房の香りが苦手な私でも落ち着いて暖を取れる。


「んで、本日は何用で」

「あれ、俺言ったよねオルゴールの修理って」

「あれ? 水素爆弾の作り方とかじゃなかった?」


やっぱりコイツ、人身ブローカーなのだろうか、疑惑は深みを増していく。なんて考えながらすっかり温くなったドリップコーヒーを啜った。


「治せる?」

「んー、実物見ないと何とも言えないけど治せるよ」

「いってんだよなぁ」


持って来ていたオルゴールを彼に渡すと、何やら専門家みたいな面持ちでフンフン言ったり軽くノックするみたいに叩いたり、老眼鏡みたいなもので角や錆びた部品を覗いたりしていた。


「割と簡単に音は出るようになると思うよ。多分基礎的なもんは壊れてないし、錆を取って油刺してやればお前よりやる気に満ち溢れた動きをしてくれるはず」

「おいこら」

「あっ、やべ間違えた」

「何も間違ってないな、本音が漏れただけだな今のは」


どうやらこいつの口は油を刺しすぎてよく回るようである。


「三時間も貰えれば治したるで兄ちゃん」

「ほんまか、えろぉ助かるわ」

「その間、どうする? 作業見てる?」

「いや、やめとく退屈すぎて死にたくなるし」

「じゃあ、一旦帰るか……って、あれ? というかこのオルゴール見覚えあると思ったら……」


記憶の中の誰かがヌルりと侵入して来そうになるのを寸前で阻止して、返す力で彼の会話を断ち切って言葉を吐いた。


「いや、一旦帰ると二度とここに来れなくなる、お前の顔を年末に二回も見たくない」

「おいこら」

「あっ、ヤベェ間違えた」


馬鹿話で間を埋めて、魔がさした自分を戒める。


「映画館あったろここら辺確か」

「大通り出たとこにあるよ、ボロのパチンコ屋の上の奴が」

「そこで上質な睡眠とるわ、最近引越しのストレスで頭皮が心配だから」

「あいよ、帰ってくる時甘いもん頼む」

「りょーかい」


気の抜けた返事を返して、時計屋を後にする。

何となく覚えている道を記憶だけを頼りに進みながら当時とは変わった街中を闊歩する。そこには私の嫌いな変化が詰まっているくせに不思議とマイナスな感情は見当たらない、ただ胸の内にあるのは寂しさにも似た懐かしさだけ。自分自身の曖昧さが時々私にも分からなくなる。


見たい映画があって入った訳じゃないが、金を払ってみるのだから良いものを引き当てたいと言うのが人間というものだ。かといってある程度のラインが保証されているような有名作品を選ぶのは男としてどうなのだろうか? などという馬鹿みたいな理由で聞いたこともない監督の聞いたこともない映画を見始めた一時間前の自分自身を殺してやりたい。キャラも設定もメチャクチャで演技は下手くそ、台詞回しも面白くない絵に描いたような生き地獄。


しかし、これだけつまらないと逆に完全に熟睡できないせいでうつらうつらしながら船を漕ぎ、遠くの水面に居る泡沫の誰かを幻視する。

その人は笑ってて、本当に楽しそうに笑ってて。面白くもない映画で涙を流し、私のキャラの濃い自由人ばかりな友人達を優しい笑顔であしらって……偏屈な私を愛した。そんな阿呆な誰かがいたことを今更のように思い出す。変化を嫌う私が子供なだけだ、私は過去を捨てられない。私は子供の自分自身を捨てられない。だから彼女を捨てて行ったのだ。


ブーッとまるで私の人生に不正解を突きつけるみたいな劇場の音が耳をさして、目の前で笑っていた幻はアスファルトに落ちた雪みたいに溶けて消えた。

小さく伸びをして、嫌に重い頭を左右に振る。


「最悪だ、まったく」


どうせなら布団でも被って見たい夢だ、布団の中なら起き上がらずに済むからだ。布団の中なら芯から冷える自分を知らないままですむ。


「行くか」

チラリと時計に目をやると約束の三時間まであと少し、甘いものも買っていかなければならないから時間的にはジャストかもしれない。

オルゴールの音を聞きたいと思った、本当に心の底から。あの音色を聞けば溶けも消えもせず灰色に染まってずっとずっと重さだけを置いていくこの感傷から解放されるかもしれないから。



・・・



苺大福を入れたビニール袋を下げたまま店の戸を叩いて部屋に入ればうたた寝をかましている店主が一人。作業は終わったのだろうか、それともサボっているのか。というか防犯対策はしていないのかこいつは。

呆れ返りながら椅子をひいて座ると、机の方に目がいった。

そこには見たことのない工具やらスプレーやらが転がっていて、その真ん中には本来の輝きを取り戻したオルゴール、部品の隅々まで光っているように見えて手際の良さが見て取れた。

恐る恐る手を伸ばして掴むと、確かん感触があった。まぁ、当たり前の話なのだが。それでも劇場で見た幻のせいでこれも冷めない夢なのでは……なんてらしくもなく詩的なことを考えてしまった。

ネジを回して手を離す。

カチカチとなる部品の音のそのあとで確かにゼンマイは回り出して静かだが確かにキチンと調律の取れた音を奏で出した。あいも変わらず何の曲かも分からない、思い当たる節だって一欠片しかない。その一欠片が確かに覚えている、この曲の音色を胸の奥で覚えている。

冬の日の寒さや哀愁を纏った音色は、されど暖かくこの店の中を彩った。


「それ、大学の時に彼女からもらったやつでしょ」

「なんだ起きたのか」

「そりゃ、近くで誰かが動いてたら気配で起きるよ」

「そりゃそうか。ほら、苺大福」


私から復路を奪い取るとムシャムシャと苺大福を次から次へと食いながら、彼が私の瞳を見つめる。


「おおかた、押し入れの中にでも封印してたんだろ」

「捨てられないだけだ、昔から」

「捨てる必要、ないと思うけどね」

「そうか?」


指で、オルゴールをなぞる。

変化が嫌いだ。変わっていくものなんて、消えていくものなんて怖いだけだ。ただの怖がりで私は彼女を引き剥がした。これから先、変わっていって消えていく様なんて見たくなかったから。何一つだって捨てたくなかったくせに、私は彼女を捨てたのだ。なんと気持ちの悪い自己矛盾だろうか、そのくせ思い出に浸る自分自身が嫌になる。


「彼女、この前ウチにきたよ」

「……何で?」

「この辺に住んでるんだって、旦那の時計の修理にきたんだよ」

「へぇー」

「まだ、お前のこと覚えていたよ」


ゼンマイを撒き切ったオルゴールは音を鳴らすのをやめて、再び物言わぬ箱に戻る。

本当はこの店に売っていこうと思ったのだ、このオルゴールは。

でもやめた。


「なぁ、一つ頼みがあるんだが……」


・・・





引越しというのは面倒臭い。全部をしまった段ボールをひっくり返して、また新しい家の形に直していかなければならないからだ。

まぁ、でも。荷解きはそこまで苦ではない、変化は相変わらず嫌いだけど、それでもまだ新しいものに希望を託すような気がして好ましい。

マンションの四階からは外の景色がよく見える、沈みゆく夕日とかその他諸々。心機一転、そんな言葉が似合う自分になりたいものだ。腕時計に目をやると時刻は14時に差し掛かろうとしていた、珍しく今日は予定があるのだ。煙草を咥えたまま履き古したスニーカーで外に飛び出して新年の空気を吸い込んだ。


指定されたカフェに入る、女性ばかりで何だか居心地が悪い。テラス席に逃げるようにして避難すると、流石の寒さで息が白く濁った。

ブラックコーヒーで暖をとって、机に置いたオルゴールを指でなぞる。

売るか、捨てるかで迷った結果の果てに血迷った私は返却を選んだ。といってももはや向こうも家庭のある身だそう簡単に応じないだろうからと、彼にオルゴールを預けたが。数日経って店にいけば「自分で返せ、だってさ」と彼からオルゴールのクーリングオフにあった。

タバコに火をつけようと風から守るようにライターの火を手で囲えば、見知らぬガキンチョが私をじっと見つめていた。流石に、子供の前で煙草を吸うのは憚られる。


「ままー」


子供が親の方に走って戻る背中を視線で追いかけると、懐かしい誰かが立っていて。


「……」


子供を抱き上げる女性と目があって、その指に嵌った銀のリングを見ながら私は静かに思う。


変化も存外悪くないのかもしれないと。

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オルゴールの夢 檜木 海月 @karin22

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