第2話
「でさ、その人栗田さんっていうんだけど——」
「栗田さん」
俺は懸命に、その名前を短期記憶に刻み込む。凜子の話の登場人物は、出てきた瞬間に覚えてしまうのが一番だから。
窓際の席に、向かい合って座っていた。
案外席は埋まっていて、一瞬焦った。ちょうど二人分空いていたから良かったが、なかなか座れなかったら大変だった。
「タイミングがよく分かんないのよね。この前もさー締め切り直前になって急に仕事振ってきて」
「直前になって言う人やだよね」
「でしょ?でもね、かと思ったら一ヶ月後のプレゼンの用意始めてないって怒られたこともあんの」
「た、確かに。タイミングのよく分かんない人だ」
言い忘れていたが、凜子の仕事は、ファッション誌の編集者だ。ほとんどそういう世界に興味のない俺さえ名前は知ってるくらいの、割と有名な雑誌である。
職業柄、ほとんど休みは取れない。ほぼ新人扱いの凜子は特に、雑用も含めて四六時中働かされている。
だから今日は結構貴重な休みといえる。丸一日オフが取れたのは、前倒ししてやっていた仕事が終わった上、偶然それ以外のタスクが溜まっていなかったからに他ならない。
——だから彼女のしたい話は、全部聞くのだ。
「だから直前に振られたやつ、まあ書類整理なんだけど、昨日までずっとやってたの」
「それで一昨日は帰って来られなかったんだね」
「そう!ごめんね、ご飯まで作ってもらって」
「いや急だったんでしょ」
「ひどい上司よほんとに」
一方俺はというと、あるホテルのレストランで厨房スタッフとして働いている。凜子が以前「高級ホテルのコックさん!」と自慢していたが、実際はそれほど高級でもないし、俺はまだメインの料理は任せてもらったことすらない。見習いのようなものだ。
そんなわけで大抵、俺の方が先に家に帰る。
ので、夕飯は俺の担当だった。
ところが一昨日のように、凜子が急に帰れなくなることも少なくはない。こっちの料理が余るのは別に問題ないが、それよりちゃんと食べられているのか時々心配になる。
「いや大丈夫よ、しっかり食べてるって」と彼女は言うが、彼女の「しっかり」が何を指しているのか、いつの間にか流しの下に大量にストックされたカップ麺を見る限り、疑わしいところだ。
俺がそんなことを考えているとも知らず、凜子は自分のドーナツの一口目をかじった。
ノーマルのはちみつドーナツだ。俺もそれに合わせて、自分のに取りかかる。
結局、俺はココナッツコーティングのと、オレンジ&シトラスのを選択した。
最初は甘さが控えめな方から——オレンジ&シトラスからだ。
「え、美味しい」
一口目で目の輝きがパッと変わった。
そのリアクションで、こっちの期待も高まる。凜子の「美味しそうな顔」なら、いかなる食品のCMにも起用できてしまうだろうな、などと考えてしまう。
そして期待通り、ドーナツの一口目はすごく美味しかった。しっとりとした食感、口に入れた瞬間広がるバターと柑橘系の香り。なるほど人気が出るわけだ。
「——ねえ、流」
名前を呼ばれるまで、凜子との会話が途切れていたことに気づかなかった。
「ん?」
「今、なに考えてたの?」
幸い、凜子の声に怒りの気配はなかった。
「いや、なんか適当なこと」
俺は手元のドーナツを見つめていた。
「またややこしいこと考えてたんでしょ」
「別にややこしくなんか」
言いかけたが、そこで俺の言葉は止まった。
凜子が、不思議そうな顔をしている。
「——割と、どうでも良いこと考えてたな」
「どんな?」
どうしてそんなことに興味を持つんだろう、というポイントに、凜子は食いつくことがある。
仕方ない、こういう時は正直に、ありのままを話そう。
「じゃあ言うけど、なにそれ、とか言うなよ」
「なにそれ」
「...。」
「分かった、もう言わないから!」
少し間を置いて、俺は話し出した。
「どっかの本で読んだんだけど、ドーナツの話で」
「ほう」
「それはずばり、ドーナツの穴は存在するのかってこと。ドーナツってこう、こんな風にリング状になってるよね」
俺はまだ手をつけていない、ココナッツの方を左手に持つ。
「ドーナツがあるってことは、その中心に穴があるってことだ。でもこれを途中まで食べると」
今度は右手の、オレンジ&シトラスを前に出す。
「“C”みたいな形になって、いずれなくなってしまう。でも俺は別に“ドーナツ”を食べただけであって、“ドーナツの穴”を食べた覚えはない」
凜子はきょとんとした様子で聞いている。
あ、やっぱりこの話を始めたの、間違いだったかもしれない。
「まあ要は、“ドーナツの穴”ってあるかないか考え始めたらキリがないってことだよ」
凜子の顔を見て、俺は一言だけ付け足す。
「——え、ごめん」
「いや全然謝ることじゃないよ!ただ、流ってぼーっとしてそうな時にすっごい深いこと考えてたりするから」
「普段はぼーっとしてるんだけどね」
約束どおり「なにそれ」と口には出さなかったものの、さっき上司の話をしていた凜子の勢いはごっそりと落ちたようだった。
こういうタイミングで変な空気になる話をぶっこんでしまうのも、俺の悪い癖というか、よくやってしまう失敗だったりする。
「でも、結局分からないの?」
「へ?」
「ドーナツの穴は存在するかどうか。結局、答えはないの?」
突然聞かれると、何とも答えづらい。
「そ、そうだね、結局はっきりした答えは、出てないらしい」
「ふーんそうなんだ」
言いながら、凜子ははちみつドーナツの最後の一口を頬張る。
「なんか、国語の授業みたいね」
俺はうなずく。確か凜子は国語より数学が好きなタイプだった。
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