魔法使いの休日
すずき
第1話
東京は銀座三丁目。人通りの多い日曜日、吐く息も凍りつきそうな真冬の空気。
ボンネットのうっすら白んだ車が行き交う大通りには、休日らしくゆっくりした時間が流れる。
街に並んだブランド洋服店の、ショーケースのガラスには、凜子の姿が映っている。
大きめのコートを翻す彼女の奥にすっぽりと隠れながら、俺も並んで歩いている。
「え、どうしたのよそんなにジロジロ見て」
「な、別に何も」
「あれ、そういえば今日ちょっと背小さくない?」
「ハイヒールって、どんな靴か分かって履いてる?」
天然なのかわざとなのか、いずれにせよ、俺は今日も彼女に遊ばれている気がする。
「あっそうか。なんか...ごめんね」
「いや謝られた方が傷つくし」
何はともあれ、カツカツと靴音を鳴らしながら通りを闊歩するこの女性。
今どんな縁をもってか、俺の隣を澄まし顔で歩くこの人は、
「ん、なんか言った?」
「いや何も」
——
比喩表現ではない。本当に魔法が使えるのだ。
自分の能力に気づいたのは、小学校高学年くらいの時だという。
水たまりに転んで、お気に入りのセーターを汚してしまった日。泣きながら家に帰ったとき玄関の姿見に映った自分は、いつの間にか朝とは違う服を着ていた。
また別の日。隣の席の男子に、イタズラでおもちゃのクモを投げられたとき。自分が驚いているうちに、そのおもちゃはリスの小さなぬいぐるみとなって床に転がった。
——最初は誰にでもできると思ってたんだけどね。
凜子はそう言っていた。確かに、そういうものかもしれない。
とにかく、それから約十年の経験で、彼女は自分の“特技”が他の人には真似できないことに気づき、何とか自分で自分の力をコントロールする術を身につけた。
それからはあまり目立たないように、特技は人に隠したまま、こっそりと社会に紛れ込んで——
という控えめな性格には、育たなかった。
「あーやっぱりこの帽子じゃない方が良かったかな。
「あ、うん俺はそっちでいいと思うけど」
「そう?まあ家出るときもそう言ってくれたけどさ。なんかこう、外歩いてみると印象変わるよね?」
「多少は見え方も変わるかもしれないけど、俺は似合ってると思うよ、それでも」
「うーん——」
こんな風に首を傾げて腕組みを始めると、俺はハラハラしてしまう。
この人、人前でも平気でその技を使おうするのだ。「みんな見てないよ、すれ違う人の行動なんて」と言いながら、普通に自分の服を変えてしまう。
だが流石に目の前の人が一瞬で衣装チェンジしたら、不自然じゃないのか。
「やっぱ変えちゃおっかな——」
「いやー俺はそれでも」
「はいっ」
あ、と言う間もなく凜子は自分の帽子にちょんと触れた。
焦げ茶色だったベレー帽が、落ち着いた黄色に変わった。まるで元々そんな色だったかのように、ほんの一瞬で。
慌てて周りを見てみる。幸運にも、不思議そうにこっちを見つめてくる人はいない。
「それ、心臓に悪いんだけどなあ——」
「バレたことないから大丈夫だって!心配性だなあ」
口調はこうだが、凜子は機嫌を損ねているわけではない。むしろ楽しそうでさえある。
「もし誰かがこれを見たとしてもね、人間の頭は自分で解釈しきれない映像をシャットアウトするようにできてんのよ」
「理屈はわかるけど...。」
「分かればよろしいっ」
無茶苦茶だと思いつつ、俺はそれ以上は何も言えない。彼女はたぶん、一生こんな感じでラフに魔法を使ってしまうのだろう。
ただし、だ。
凜子の魔法はいつでもどこでもできるものではないらしい。実はいくつか制約がある。
いつだか彼女が俺に教えてくれたのは、三つのルールだった。
第一に、使えるのはいわゆる変身魔法のみ。生き物やモノの姿を変えることはできても、その『本来の性質』までは変えられない。例えばポケットを叩いてビスケットを増やしたり、箒で空を飛んだりすることはできない。
第二に、変身させたものは自分で戻さなくても、二十四時間すれば元の姿に戻ってしまう。今色をチェンジした帽子も、放っておけば明日の今頃元通りである。
そして第三に、これが一番大事なのだが、“鏡”がある場所でないと力は発揮できない。セーターを汚したときは水たまりが、学校でイタズラされたときは教室の窓が、そして今は洋服屋のショーケースのガラスがその役割を果たした。
とにかく変身させたい物の姿が、何かに映っていることが条件なのだ。
「ここはまだまっすぐ?」
「そう、次のあの、信号のとこ曲がるよ」
「はーい」
ちなみに今俺たちが向かっているのは、銀座に新しくできたドーナツショップだ。今全国に少しずつチェーン展開中の「はちみつドーナツ」を売りにした店、『Eight』の本店がここにあるとのこと。
丸ノ内線で三十分ほど揺られて、朝一番に向かっていた。行列のできる有名店だからと、凜子が昨日から狙っていたのだ。
地図アプリを参考に帽子屋を曲がると、それらしき立て看板が見つかった。
「あれだっ!」
元々高かった凜子のテンションもさらに突き抜ける。
「お、まだ混んでないっぽいね」
「ラッキー!」
「——まあ日本人は朝ごはんにドーナツ食べようとは思わないかな?」
「でもここはいつも朝から行列なの!だからラッキー!」
なんと一切並ばずに店内に入れた。俺はあまり調べていないから、ここ本当にそこまで人気店なのか?と疑ってしまうほどのスムーズさだった。
中はあまり広くはなかったが全て木造で、よく見ると凝った内装をしていた。まず目に入るのは、多種多様なドーナツのずらりと並んだカウンターだ。トレーとトングまで木目調に揃えている。
ほんのりと蜂蜜の香りがしてきて、何だか心の落ち着く空間だと思った。
「中も良い感じじゃん!」
「結構オシャレだね」
建物は二階建てである。一階で選んで会計したドーナツを、二階で食べるという流れだろう。
「さあどれにしようか?」
凜子は腕を組み、難しそうな顔をし出した。
俺も同じように腕を組み、迷い始めた。
こう一気に選択肢が現れると、迷いすぎて何もできなくなる。俺の悪い癖がここで出る。
「まずオーソドックスはちみつドーナツは欠かせないね。隣のはちみつバターのやつも絶対。え、チョコのコーティングなんかあるの?まってオレンジ&シトラスって何よ絶対美味しいやつ、あーシナモンとかずるいわね——」
とまあ、凜子の頭の中も大変忙しそうである。
俺が早いこと決めてしまわなければ、ここで三十分くらい居座ることになりそうだった。こういう時は考えず、直感に従うべきなのだ。
「よし決めた!」
——と、思っていたら凜子が思わぬ速さで決めた。
「え早くない?」
「こういう時は考えないで、直感で行くのが一番よ。流も決まったら教えて」
何てことだ。由々しき事態。
「凜子は何にした?」
「普通のと、シナモンのやつ」
うっすらそれにしようかと思っていた二つだ。
いやしかし、ここで被ってしまうのは芸がない感じがするし...。
「ゆっくり決めて良いよ、今日は急ぎの用事何もないし」
俺がもともと言おうとしていたセリフを見事になぞりながら、凜子は微笑んだ。
「お言葉に甘えて——」
「あ、やっぱり早く食べたいからちょっと急いで」
「はい承知しました」
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