夢へと逃げて

久永在時

第1話

 夢の中に逃げ込めば全てが救われると思っていた。夢の中に逃げ込めばこれ以上痛い思いはしないで済むと思っていた。だから、私は夢の中へと今日も落ちていく。

 深い海に沈む様に眠り続けた。死んだ様に惰眠を謳歌した。

 間違いかもしれないとは気づいていた。それでも止められなかった。夢こそが私の全てで逃げ込む逃避先だったからだ。

「……野さん、起きなさい夢野さん」

 夢の中で私の名前を呼びかける声がした。どうでもいいと最初は思っていたのだが何度も声をかけられ、体を揺さぶられた。

 意識が覚醒する。逃避行への道が閉じていく。

 私は仕方なく重い瞼を擦り、目を開いた。代わりない現実の風景が飛び込んできた。古ぼけた教室の机。消し跡が残った黒板。窓から差し込む赤い光。

 夢から目が覚めると、全てがつまらない現実であった。

「おはよう、夢野さん」と目の前に立っていた朱音が言った。

「おはよう、朱音ちゃん」

 私は思わず頬を掻いた。朱音の顔を直視することはできなかった。

 夕焼けの逆光で眩しいと言うのはあった。だがそれ以上に声に怒気が帯びていたのだ。きっと、朱音はずっと眠っている私を見て不愉快だったのだろう。

「ずっと寝てたわね。楽しい夢は見れた?」

 何も答えず体を逸らそうとしたが、朱音の手によって強制的に対面の姿勢を取らされた。

 まつ毛の長い朱音の瞳に吸い込まれそうになる。恋愛小説なら恋の芽生えなんて素敵なシーンであったかもしれない。

 が、朱音の顔を眺めていると眉が吊り上がっていた。額には青筋が立っていた。

 別の意味で心臓が痛くなった。

「それはその……」

 曖昧な返事を返した。彼女の真剣な表情を前に誤魔化し、開き直りはできなかった。

 夢の世界ならいくらでも逃げ道はあるのに今はない。本当に現実は嫌だなと思わされてしまう。

「今、何時かわかる?」と朱音が教室の時計を指差した。時刻はすでに十六時を回っている。

「夕方かな」

「つまりずっとあなたは寝ていたのよ」

「面目もない」

「そのセリフこれで何度目かしら?」

 朱音が大きなため息をついた。教室を見回すと既に誰もいなかった。

 誰かがいてくれれば場をなごましてくれたかもしれない。教師がいてくれたら「やりすぎですよ」と止めてくれたかもしれない。だが、現実は朱音と私だけを夕日が照らしていた。いっその事寝てしまおうかなんて考えも過った。

 そうだ、寝てしまえばいいのだ。

「お休みなさい」

「おはようございますでしょ?」

 机に伏す前に顔を思い切り掴まれた。

 あまりに容赦のない一撃だった。あまりに情けのない一撃だった。

 視界が激しく揺れている。食い込んだ爪のせいで頭が痛い。激痛にのたうち回りそうになった。

 しかし、目の前の彼女は寝かせてくれそうにはなかった。

「お、おはようございます」

 私はこれ以上朱音を怒らせないようにしようと考えた。どうやったらこれ以上怒られないかを考えた。

 まともに対応することが一番だと気づいた。いや、厳密に言えばそんなことはしたくないのだが。

 とはいえ、ここは二人しかいない教室だ。赤い夕焼けに染まった二人だけの教室だ。

 逃げ場はどこにもないし、夢に逃げようとすればベアークローで叩き起こされる。

「取り敢えず帰るわよ」

「私もうちょっと寝ていたいんだけど」

「もう散々寝たでしょ。朝からずっと寝ていたじゃない」

「思春期の女子はいつでも眠いんです」

 軽く頭をはたかれ、引き摺られるように校舎の外に出た。

 太陽が沈み、赤から黒へと空の色が変わろうとしていた。ついさっき朝になったと思ったのに、気づいたら夜になろうとしている。

 当たり前のように朝が来て、夜が来る。毎日がその繰り返しで退屈なはずなのに皆愚痴も言わずに生きている。人間というのは不思議なものだ。

 そんなことを考えながら歩いていると、ふいに朱音が口を開いた。

「夢野さんはどうして授業中ずっと寝てるの?」

「寝ていたら悪いのかな」

 口から自然と言葉がこぼれ落ちてきた。

 学生なんて勉学さえできれば後はどうでも良いではないか。

 自慢ではないが、私は勉強のできる方だった。学内のテストの成績もトップファイブに入るぐらいには出来る方だった。

 それに授業中寝ていたって誰に迷惑をかけているわけでもない。むしろ、黒板が見えやすくなるではないか。

 仮に私の睡眠で集中が乱されるならその人の集中力が足りないだけだ。なのに、何故自分が責められなければならないのか。意味がわからない。

「勉強なら出来るから大丈夫」

 私は胸を叩いて朱音に視線を向けた。

「そう言う問題もあるけど、マナー的な話として良くないわ」

「先生は寝たいやつは寝ろって言ってたよ」

「ただ、呆れてるだけよ」

 朱音から冷たい視線を感じる。思わず背が震えた。

「呆れさせておけばいいんだよ。学生なんて勉強が出来ればいいんだから」

 私は真っ直ぐに朱音のことを見つめた。

 またもや大きなため息が漏れ聞こえてきた。

 このまま呆れてくれれば楽なのに。何度か思ったことだ。

 しかし、朱音は一度も私から離れなかった。風紀委員という立場と生来の真面目さがそうさせるのだろう。

 一方の私はと言えば離れて欲しかった。いくら朱音が現実に戻そうとしても戻る気はなかった。

「その内困るわよ」

「いつになるか分からない未来より今だよ」

 今が楽しければそれで良い。

 だから、私は睡眠を貪っている。

 現実から逃げるように。辛いことを忘れるように。

 生きていて不自由だらけの世界では自由になるのなど夢の中だけだ。

 だとしたら夢の中に逃避して何が悪いのだろうか。誰にそれを咎める権利があるのだろうか。

 大っぴらに言ったことはないが、私にとって睡眠は救いだった。不自由な世界の中で唯一自由になるものだった。

「永遠に自分の殻に閉じこもってるつもり?」

「私にとって何が幸せかは朱音ちゃんが決めることじゃないよ」

「間違いを間違いだっていうことくらいは構わないでしょう」

「間違いは考え方次第だから」

 平行線だった。伸びている夕陽の影のように平行線だった。

 きっと不真面目な私と真面目な朱音では考えが交わることはないだろう。

「その考え方変えることはできないの」

「ずっと言ってるじゃん。私は寝ていたいんだって」

 腕を後ろに組み、朱音の方に上目づかいの視線を送った。

「そんな顔しても無駄よ」

「そこをなんとか」

「風紀委員としては看過できないの」

 道徳の授業みたいなこの会話を何回したことだろう。

 繰り返し同じ事を聞かされ、繰り返し同じ返答を返す。最初は意味を持っていたはずの会話は、何度も繰り返す内すっかり意味を失っていた。

 そんな中身のない会話をする内、私達は十字路に立っていた。

 辺りは真っ暗で街灯の灯りが私と朱音を照らしている。

「ここでお別れだね」

 手を振り、寂しげな声色を作った。

 実際の所は「やっと別れられる、嬉しい」と言いたい所だが口には出さない。

 わざわざ目覚まし時計になってくれる人間を無下にする程、薄情な人間ではなかったからだ。

「まだ話は終わってないわよ」

「もう終わったよ、また明日!」

 脇目もふらず走った。街路樹が、信号が、ビルの灯りが遠くへと流れていく。

 風が顔に当たり痛い。指先の感覚が無くなっていく。制服の隙間から北風が流れ込んでくる。

 後ろからは「待ちなさい」という声が聞こえたが聞かなかった。

 家の中に帰ったら布団の中で眠って、夢の中に逃げ込もう。誰にも邪魔されない夢の中へ。

 ただ、それだけを願って木枯らし吹く街の中を走り抜けた。

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