第四階層【彩色の明けき郷】 Ⅰ — 青空 —
爽やかな風が、優しくアンジェラの頬を撫でた。
天井は果てなく遠く、高く。
太陽はどこにも見当たらないのに、天にはダンジョンの外と変わらないような青空が広がっていた。
足元に踏みしめるのは岩や石畳ではなく、柔らかな地面。もちろん湿った苔などではなく若々しい草が生え伸び、白や黄色の花までいくつも咲いている。しかし、地面はある程度のところで途切れ、崖になっている。空に浮かぶ小島のようなものだろうか。
遠くに目をやれば、今いる地点と似たような、空中に浮かぶ島がいくつもあり、木々や草花がまばらに伸びる様子が見てとれた。
「これは……一体…………」
『だから言ったろ? 空間が繋がってないんだって。ダンジョンってのはこういうところなんだよ』
出てきた側に振り向けば、細長い塔が空へと伸びている。長く長く、その先は見えなくなるほど果てなく遠く。神話の中でバビロンの地に建てられたそれのように、どこまでもその塔は伸びている。
もちろんここを外側から辿ったからといって、第三階層に戻れるわけではない。あくまで形だけの出入り口だ。
『この感じだと、階層全体が一つの巨大な空間になってるタイプかな。キューやシキを飛ばせば地形の把握は簡単なんだが……』
こうした地形で問題となるのはフロアマスターの所在だ。
本来ならばフロアマスターの居座る部屋というのは、階層の最奥部。それも道のりが特別険しい、特徴的な場所に配置されていることが多い。
しかしこの広い階層に、最奥部と呼べるようなものは無い。もちろん探す相手は、「我こそフロアマスター也、腕に覚えある冒険者の挑戦を待つ」などと書かれた看板を、常日頃から背負って歩いているわけでもない。
例えばフロアマスターが、他の魔物とさして変わりない姿をした小動物だったとすれば。見つけ出して斃すのは、砂漠で針千本を捕らえるより難しくなるだろう。
要するに、
『めんどくせえ……』
のである。
「あら、どうかなさいましたの? エスク様。ほらほら、空気が綺麗ですわよ。すー、はー、すー、はー」
かったるい未来を思いわずらうエスクを尻目に、アンジェラの方は能天気な顔で野原を駆け回っている。
しかし穏やかな景色が広がっていようと、ダンジョン内に変わりはない。不意にそこらに生えた植物に食べられ、咀嚼され、消化吸収されて養分と成り果てることもある。
それに加えて、もう一つ。
『はしゃぐのはいいけど、間違っても足は踏み外すなよ。見たところ崖の下は水も何も無い、底なしの空が続いてる。深い深い地獄の底に叩きつけられるか、あるいは永遠に落ち続けるか。いずれにしろ、一度転げ落ちたが最後、生き残る可能性は相当低いからな』
「ふえ!? ちょ、ちょっと、いきなりそういう怖いこと言わないでくださいます!?」
『言ってる間に、ほら、ちょうど今お前の立ってるその足元』
石畳――いや、正確には大きめの石の塊だろうか。アンジェラが乗っている立方体の石は、各面に奇妙な刻印が彫り込まれ、周囲の自然物とは明らかに性質が異なっている。恐らくは魔導技術を宿した代物だ。
一体どのような魔導が仕込まれているのやら。などと考えているうちに、音も無く。魔導の石はゆっくりと動き出した。
成る程、こういう仕掛けか。
「ふわッ!? わわわ、ちょ、ちょっとお待ちになっていただけると……」
アンジェラが物言わぬ魔導石にお願いの言葉をかけるも、当然のガン無視を食らい。後はもうなすがまま。移動する魔導石の真ん中で腰砕けになり、とっさに捕まえた魔導球体を抱きしめていた。
『そんなことしても、こいつにはお前の体重を支えられるほどの浮遊能力はないぞー』
「しっ、しし、知りませんわよそんなこと! あわわわ、どうか落ちませんように、落ちませんように……」
『もしそうなったら俺が手厚く弔ってやるから、安心しろ』
「せめて、どうにかして助けてやるくらい言えませんの!?」
二人が言葉を交わす間にも魔導石は静かに動き続け、そして止まった。どうやら別の岸壁まで到着したらしい。
『第四階層はこうやって浮島を渡って進んでいくわけか。まあ、仕掛けとしては非常に単純だな』
「はあー……もう、心臓に悪いですわ。これだからダンジョンっていうのは……」
新たな浮島への第一歩をまずは慎重に踏みしめて、十分に足場が安定していることを確認してから乗り移る。そしてアンジェラはへなへなと地面にへたり込んだ。
『ビビりすぎだろ。高所恐怖症か?』
「多少はそういうところもありますけれど……。それを置いても、空を動く謎の石に身を任せるのは誰だって怖いものでしょう?」
『それは確かに』
今回は運良く魔導石が純粋な移動手段だったから良かったものの、これがただ落ちるだけのトラップだったなら、終わりのない紐無しバンジーにご招待だ。何の対策もなく乗ってしまったのは、危険な行為だったのは間違いない。
ならばこの第四階層、それらしい安全策の一つくらい用意すべきだろうか。などと考えている途中。
突如として、奇怪な雷鳴が響いた。
巨大な――だけではない。巨大、かつ長大な存在が、こちらに近づいてきている。
青い鱗を全身に纏い、赤く伸びたヒゲを揺らめかせる、巨大な蛇。ヴェールのようなヒレを幾重にも揺らし、周囲には電撃を放って、優雅に空を飛んでいる。
一体どんな理屈で、こいつは宙に浮いている? なんて疑問を差し挟む余地も無い、圧倒的な存在感。
見上げるアンジェラと魔導球体にその巨躯の影を落としながら、怪物はただ悠然と、果てなき青空を泳いでいった。
「……あ、あれは、一体何ですの……?」
『はっきりとは分からんが……只者じゃあないだろうな』
怪物は今や遙か遠く。ヒレのある尻尾を揺らす後ろ姿だけが見えている。威風堂々たる姿。もしかすると。いや、恐らくはあれが――
『っと、その前に。キュー、改式[五時角/放射]』
アンジェラが「へっ?」と間の抜けた声を発するより先に、魔導球体が光を発した。光の線はアンジェラの頬をかすめ、その背後に生い茂った草花を薙ぐようにして輝く。
「あう――ッ!?」
そこで小さな声がした。
光を撃つのを止め、魔導球体はすぐさま声の元へと飛んでいく。
『…………女の子、か?』
そこに倒れていたのは、まだ年若い少女。そう、間違いなくそれは、少女の姿をしていた。
不思議な色合いの青い髪が、穏やかな風に揺れていた。
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