13話ー2:真実の告白②



 ゆっくりと更衣室の扉が開かれる音が続く。



「失礼します」


 まずい、誰か来た。

 慌てた和臣は咄嗟に立ち上がり入口に背を向け、白衣の袖で眦を拭う。

「あれ、東宮先生まだ残ってたんですか?」


 背後からかけられた声に、和臣はハッと双眼を見開く。 

 何でこんな時に、一番顔を合わせたくない男がやってくるんだ。


「先生? どうかしました?」

「いや、な……んでもない。お前こそ何で……」

「何でって、もう上がりの時間だから……」



 今日、西条は遅上がりで二十三時までの勤務だったはずだと時計を見上げて、和臣はすぐに自分を殴りたくなった。

 時計の針は西条の退勤時間を軽く超え、そろそろ日が変わる時間に迫っている。こんな時間まで残っていれば、西条がやってくるのも当然だろう。

 しかし、まさかこんなにも時間が経っていたなんて、思いもしなかった。

 

「先生こそどうしてこんな時間まで?」


 何かあったんですかと問われ、和臣は西条に背を向けたまま首を横に振る。


「ちょっと用事があっただけだ。もう帰る」

「あれ……先生、もしかして体調悪いですか? 少し声おかしい……」



 些細な変化を指摘され、心臓がギュッと絞まる。

 さすがは医者。気づくのが早い、なんて今は皮肉にしか思えない。

 

「別に何でもない」


 動き出した足音で西条がこちらに近づいてくることが分かり、振り返ることができない和臣は声で制しようとする。が、これは逆効果だった。


「調子の悪い患者ほど、何でもないっていうんです」


 同じ医者なんだから隠さないでください、と言いながら西条が前に回ってくる。和臣は咄嗟に身体を向きを逸らそうと考えたが間に合わず、真正面から最悪な顏を見られてしまった。


「え……先生、泣いて……」


 和臣の顏を覗き込んだ西条の表情が固まる。


「どうしたんですかっ? 何かあったんですか?」

「……っ、違う!」


 西条が驚いているうちに一歩距離を取り、再び背を向ける。


「ほ、本当に何でもないし、お前には関係ないことだ。だから放って……」

「何もないのに先生が泣くわけないでしょう! それにたとえ関係なくても、こんな先生を放っておくことなんてできません!」


 和臣の言葉を遮って西条が近づいて来る。


「俺、ずっと先生に助けられてきました。だから、ほんの少しでいいですから、俺にも先生を支えさせてください」

「あ……んなことに、恩義なんて感じなくていい。あれは……」



 こっちが利用したことなのだから。真実が脳裏を過ったが、臆病な自分は咄嗟に言葉を喉の奥へと引き戻した。

 

「先生?」

「……とにかく個人的なことなんだ。オレ一人でどうにかできるから、お前は心配しなくてもいい」


 どうにかしてでも西条を遠ざけたい和臣は、頑なに言葉を跳ね返す。そしてそのまま顔も見ずに更衣室から出て行こうとした時、不意にトン、と軽い衝撃が背中に響いた。

 

 温かな体温が肩甲骨の辺りから広がったと同時に、逃げようとしていた身体が背後から引く力によって止められる。

 

 気づいた時には、西条の長い腕に捕まっていた。


「さ、西条っ、おまえ、ここをどこだと思ってるんだっ」


 突然抱き締められたことに驚き、声が慌ててしまう。

 

「誰かに見られたらどうする!」


 今の状態を見られたら二人は恋人同士なのでは、なんて変な勘違いをされてしまう。焦燥から、和臣は何とか西条の腕から逃れようとするが、和臣を閉じ込める力はことのほか強くて、抜け出すことができない。

 

「西条っ!」

「大丈夫です。この時間に男子更衣室を使う人間はもういません」


 今夜の夜勤担当は女医の横手で、男性看護師も日勤ですでに帰った。西条にそう説明され、一気に高まった焦燥が穴が空けられた風船のように萎んでいく。

 

「何で……」

「先生を逃がさないためです」


 耳元で甘い声が響く。するとたちまち背筋がぞくりと震えた。

 頭はまだ警告音を出し続けているのに、和臣の身体は意思に反して力を抜いてしまった。それどころか突然与えられた幸福に喜びを訴え始める始末で、己の身体ながら恨めしく思えて仕方なかった。



「――先生は温かいですね」

「え……?」

「俺、ずっと東宮先生のこの優しい温もりに守って貰ってきました。先生がいたから、今日まで小児科医を続けて来られたんです」

「西条……」

「俺にとって先生の背中はすごく大きくて、なかなか手が届かないものだけど、こうして抱き締めると意外に小さくて……。俺でも捕まえていられることができるんだなぁって、嬉しい気持ちになったりするんですよ」



 ゆったりとした口調で語る西条の言葉は心から先輩を慕う後輩のそれで、いつもの和臣だったら『お前に小さいなんて言われるなんて心外だ』なんて嫌味の一言でも返していたが、今はそれが酷く重たく感じて苦しみばかりが生まれた。

 

 

「……オレはお前が思うほど立派な医者でもないし、手が届かないものでもない。……価値のないものだ」

「価値がないだなんて、どうしてそんなことを言うんです? 誰かに何か言われました? だったら俺が抗議してきますよ。俺の大切な人に何て失礼なことを言ったんだ、ってね」

「別に、誰かに何かを言われたわけじゃない。本当に、違うから……」


 だから変なことは考えなくていいと言うが、西条の腕の力は一向に弱まらない。


「ねぇ、先生。俺、研修医時代からずっと一緒にいますけど、俺が長年見てきた先生は理由もなしに自分を卑下するような人じゃありません」

「西……条……」

「俺が研修医の頃、言ってたじゃないですか、『卑屈な医者に、人の命を預かる資格はない』って。そんな人が自分に価値がないだなんて、おかしく思わない方が変ですよ」



 弱いところを突かれ、和臣は何も言い返せなくなる。確かに自分は昔そう言って西条を指導したが、それを覚えていたなんて思いも寄らなかった。

 

「俺は先生の背中だけ見てきたんです。先生のことなら何でも知ってるって自負がありますし、知らないことがあるならワガママだって言われても全部知りたい。だから教えてください。今、先生を苦しめているものが何なのか」


 俺にも背負わせて欲しい。

 お願いしますと切なく請われ、心の奥が震えた。

 

 ーー西条に寄りかかりたい。

 ーーだめだ、自分は指導医だ。そんなことは許されない。

 ーーほんの少しだけでいいから

 ーーいけない。幻滅されるぞ。

 

 真逆の感情が、せめぎ合う。

 だけれど。

 西条の温もりとともに少し早くなった鼓動がこちらに伝わってきた瞬間に、すっかり弱りきった心が白旗を上げた。

 



「……かったんだ」

「え?」

「怖……かったんだ」

「怖い?」

「今日のコードブルーだよ……。他科の医師たちから『小児専門だろう』『分かるはずだ』って確定診断を求められた時、間違えたらどうしよう、誤った処置で死なせてしまったら、って急に全部が怖くなって……何も考えられなくなった」



 そのせいで処置が遅れてしまったと、正直に告げる。すると西条はすぐに「うーん」と疑問を表すような声を発した。



「でもあれは稀にあるかどうかの特異な状態でしたし、あの場合は東宮先生だけじゃなく、他の先生たちも病名を特定するために考えるべき状況ですよね? だったら東宮先生だけのせいじゃ……」

「けど患者は子どもだ。身体のつくりが大人と違う分、成人症例に照らし合わせて考えるより、専門医に委ねたほうが賢明だってことくらいお前だって分かるだろう」



 医者だって人間である。救命救急科で毎日全身治療と接しているなら別だが、そうでない一般の専門医に老若男女、頭から爪先まですべての病態を把握しろというほうが無理だ。

 

 

「それなのに自分の専門分野の対応すらできなかった。オレは……っ、医者失格だ」



 覚悟を決め、恐れている言葉を形にする。しかし、西条はすぐにフッと軽い苦笑を零した。



「先生が医者失格なら、オレは医学部受験からやり直しですよ」

「茶化すな、オレは――――」

「茶化してません。だって先生がどれだけ優秀な医者かは俺が一番よく知ってますし、それに原因が判明した後の処置を見た限りでは、先生が言うような不安は感じませんでしたよ。きっとその時はたまたま調子が悪かったとかじゃ……」

「今回たまたまじゃない。きっとオレはこれからだって……」



 同じ現場に出会したら、同じ状態になる。そんな不安しかなくて、今は患者の前に立つことすら申し訳ないと感じてしまっているぐらいだ。



「どうしてそう思うんです?」

「どうしてって……」



 問われ、和臣は閉口する。

 理由を問われても、ただ漠然と自分がこの先も使い物にならないとしか思えないだけ。けれどそのことが上手く説明ができず、和臣はまごついてしまう。

 

 

「もしかして、自分でも不調の原因が掴めてないとか?」

「それは……」

「ほら、普通の人だって何もなしにそんな状態にはならないでしょう? 何か……たとえば直前に衝撃的なことがあった、みたいな要因があって一時的に自分を見失ってる、とか」



 そういったことが起こらなかったかと聞かれて、和臣は誘導されるまま考え込む。と、一番に出てきたのは。

 

『――――いやだ、西条を失いたくない』


 音のない部屋で一人慟哭する、己の姿だった。


「……っ、ぁ……」


 思わず小さな声が漏れる。目の前のロッカーを映していた瞳がこれでもかというほど開いていくのが、自分でも分かった。


 今日の緊急事、咄嗟に浮かんだのは以前、救うことができなかった患者の保護者の顔だった。だから一番の原因はそれだと思っていたが、弱かった頃の自分を思い出すきっかけとなったのは、西条の喪失だった。



 気づいてしまった事実が胸にストンと落ち、納得という二文字を弾き出す。

 そう、やはり自分は西条の喪失を受け入れられないのだ。

 これはもはや依存だ。しかも重度の。

 

 ――まるで少し前までの西条じゃないか。

 

 患者の死を受け入れられず、目の前の道を見失いかけてしまう以前の西条。だが西条と自分で大きく違うところは、自身で処理できない不安を支えてくれる相手が隣にいるかいないか、だ。


 西条には自分がいた。

 でも自分は西条を心の拠り所にすることはできない。

 誰かを西条の代わりにすることも無理だ。


 なぜなら、西条を愛してしまってるからだ。


 こんな状況で一体どうすればいいというのだ。

 

 

「先生? 何か分かったんですか?」

「え……いや、何も……」


 西条が静かに尋ねてきたが、和臣は首を横に振って否定する。

 原因を掴むことはできたものの、本当のことなんて言えるはずがない。

 とりあえずここは悟られないようにしよう。そう決めて話題を逸らそうと思考を巡らせるが、良案が思いつくより先に背後から呆れを含んだ溜息が聞こえてきた。



「先生って驚くぐらい嘘が下手なんですね。そんな態度見せたら、『原因が分かったけど、言いたくないから逃げたい』って言ってるようなもんですよ」 


 西条は、最初に和臣が小さく声を零した時点で気づいたという。


「っ、気づいたんだったらーー」

「嫌です。先生が原因を教えてくれるまで、絶対に離しません」


 より強く抱き締められ、拒絶を奪われる。


「何でっ……」


 こんなにも強情なのだ。人のことなんだから放って置けばいいのに。眉根を寄せ文句を吐いてやろうとした時、フッと首筋に密着した西条の息が吹きかかかった。


「んっ……」


 するとたちまち身体が火照ってしまい、また和臣の中の焦燥が色濃くなる。

 こんな時に反応してしまう自分の身体が恨めしい。



「西条……頼むから、離してくれ」

「すみません。俺だって先生のお願いなら何でも聞いてあげたいです。でも今、先生を手放したら二度と捕まえられない……そんな気がするので、絶対に離しません」


 優頑なに腕の拘束を解こうとしない西条に、和臣は唇をグッと噛んでから大きく動いてみる。だが体格も腕力も差がありすぎて、わずかの隙間すらできなかった。

 やがてあまりの無力さに途方に暮れてしまった和臣は、両目を閉じて長い溜息を吐いた。

 

 諦めが、指先からじわりじわりと全身に広がる。



「理由を聞いて後悔するのはお前だぞ……」

「聞かずにいるほうが後悔します」

「お前は俺のことを絶対に軽蔑する」

「大丈夫、俺はどんな内容でも先生を軽蔑したりしませんから」


 

 おそらく、西条は何を言っても退かない。

 だったらもう真実を告げてしまったほうが楽になれるかもしれない。


 どうせ話しても話さなくても、結果は変わらないのだから。

 もう全部話して、全部壊してしまえ。

 自暴自棄になった心が、思考を放棄する。

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