13話ー3:真実の告白③

「オレは………ずっとお前のことを騙してた」

「え? 俺をですか?」

「ああ……お前が初めて患者の死に直面して酷く落ち込んだ時、オレはお前に『助けてやる』なんて偉そうなことを言ったが、その裏で自分の欲を満たそうとも考えてた」


 弱っている人間を言葉巧みに唆して、和臣を求めるよう誘導した。今までひた隠しにしてきた秘密を、ゆっくりと形にして西条に晒す。


「東宮先生の欲?」

「お前と…………身体の関係を持つことだ」

「え……」


 和臣の告白に、西条の目がこれでもかというほど大きく見開かれる。

 

「オレはゲイなんだ。お前と関係を持つずっと前から」


 目を閉じ、西条の表情の変化を見ないようにして告げる。


「本当は死ぬまで隠しとおすつもりだった。けどお前という魅惑的すぎる人間がが目の前に現れて、望みどおりの関係になれて……オレは生まれて初めて幸せってものを感じることができた。でも……」

「でも……?」

「同じぐらいお前を失う恐怖を覚えるようになった。真実を知られて軽蔑されたらどうしよう、いつか弱さを克服してオレを必要としなくなったらどうしようって。……きっとそんなことばかり考えていたから、いつの間にかお前に依存してたことにも気づけなかったんだ」

「依存?」

「ああ。だから、お前を失った途端に何もできなくなった。今日の急変で手が止まったのも直接的な原因ではないが、そこから来る不調のせいだ」


 この懺悔を聞いて西条が何を思うのか。想像すると恐ろしくなり、和臣はグッと歯を食いしばる。

 数瞬の間、沈黙が流れた。

 

「ちょっ……ちょっと待って下さい、あの、騙したとか失ったとか、その、情報量が多すぎて……」


 頭が追いつきませんと、背後からの声は明らかに揺らいでいた。

 それだけ和臣の告白が衝撃的だったのだろう。


 著しい混乱の中、ふと和臣を捕まえていた西条の腕の力が和らぐ。

 今だ。直感した和臣は、すかさず西条から抜け出した。

 

 

「先生っ」

「西条、オレがしたことは謝って許されることじゃないことは分かってる。けど…………悪かった」



 震えそうになる喉を何とか抑えながら一言だけ謝り、和臣はそのまま振り返ることなく歩き出す。その足が向かったのはもちろん、更衣室の出口だった。


「待ってください、先生!」


 背後から切羽詰まったような声と足音が聞こえてくる。すぐに西条が追いかけてくるのだと悟った和臣は、恐怖で逃げ出したい気持ちに駆られ、咄嗟に走りだした。しかし。

 

「逃げないで下さいっ」


 狭い部屋での逃亡劇が成功するはずもなく、和臣は出口に辿り着くよりも先に腕を取られ、再び西条に捕らえられてしまう。


 背後でガタン、と大きな音を立てながらロッカーが揺れた。

 続けて、重たい衝撃が背中に走る。


「くっ……」

「先生……酷いです。こんな……こんな衝撃的なことさらりと告げて……逃げちゃう……なんて……」


 両手で和臣の肩をしっかりと捕まえた西条が、頭を落とし、肩で息をしながら文句を口にする。だが、その声色にはさほど怒りは含まれていないように聞こえた。

 驚きすぎて、まだ怒りまで到達していないのだろうか。



「……すま……ない」

「謝らなくていいです。でもその代わり、ちゃんと最後まで話してください。俺にはまだ聞きたいことがたくさんあるんですから」


 落ち着きを取り戻した西条が、ゆっくりと顏を上げる。

 しかし視線が絡まった瞬間、たちまち穢れた心を暴かれたような恐ろしさに囚われ、和臣は瞬時に顏を逸らした。


「怖がらないで、先生」


 和臣の唇の震えに気づいた西条が、切なげに訴えてくる。


「俺、絶対に怒鳴ったり、先生に危害を加えるようなことはしませんから」


 今にも泣き出しそうな懇願に、チクリと胸が痛んだ。


「西条……」

「先生がちゃんと話をしてくれるなら、捕まえるのもやめますから」

「………………分かった」


 もう逃げたりしない。和臣の肩を掴む西条の腕を柔らかく撫でながら約束し、解放するように促す。すると西条はわずかに逡巡したものの、ゆっくり指の力を抜いて和臣から一歩離れた。


 が、すぐさま左腕を伸ばし、おそるおそるといった様子で和臣の右手人差し指を包み込むように握ってくる。



「あの、指だけ……握っててもいいですか? 先生のこと信用してないとかじゃなくて、その……先生に触れてないと不安で……」


 西条のは和臣に拒まれるのを怖がっているのか、それとも緊張からか少々汗ばんでいた。


「……ああ、構わない」


 和臣は小さく頷いて、握り返す。


「それで……お前はオレに何を聞きたいんだ?」

「はい。えっと……さっきの、俺を誘導して思いどおりにしたって、先生は俺とそういう関係になることを望んでたってことなんですか?」


 問われ、和臣は静かに答える。


「あの夜…… 酷く落ち込むお前を見て、どうにしてやらなければと思ったのは指導医としての気持ちだった。だが、辛い気持ちを忘れさせるためにとお前に迫った時は……一人の男として望んでいた」

「それは俺が単に男だったからですか?」


 たまたま目的を果たせる相手がいたから、関係を結んだ。そう聞かれ、和臣ははっきりと首を横に振る。


「それは違う。お前は……お前は明るくて、優しくて、誠意もあって……オレが憧れた小児科医そのものだった。だから自然と惹かれたし、欲しい……とも思った」


 男だからではない。西条だから心を動かされたのだ。


「そうだったんですか……」


 極力西条の顔を見ないようにしているため声でしか判断できないが、幾分戸惑いを感じる。


「他に……何かあるか?」


「じゃあ……その後の『俺を失った』って話は、どういう意味ですか? 俺、今現在もこうして先生の傍にいる、と思うんですけど……」

「お前、これからは一人で乗り越えるから、オレの支えは必要ないって言ったろ? あの時、ああ、オレはもう用なしになったんだなって……」

「ああ、そういう意味ですか」



 なるほど、そうか。そういうことか。何か納得することでもあったのか、西条は視線を落としながら独り言を繰り返し、その後なぜかあー、だの、うー、だのと唸った。そして和臣の指を握ったまま一頻り思考に耽ったのち、突然顔を上げた。

 


「あの、こういうのって遠回しに聞くと変な誤解が生まれるので、直球で確認しますね。――――先生は俺のこと一人の人間として好きってことですか?」



 宣言どおり直球で問われ、和臣は瞠目する。

 だがすぐに、『もうここまで来て隠すことはないだろう』と諦めが勝り、小さく頭を縦に振って自分の気持ちを認めた。


「ああ……そうだ」


 とうとう言ってしまった。

 これでもう何一つとして言い逃れはできない。


 この後、西条からどんな辛辣な返答がくるかを考えると胃が握り潰されそうなぐらい痛んだが、逆にずっと伸しかかっていた重石が取れたような心の軽さは生まれた。


「ふざけるなって思っただろ。いつもお前をバカにしていた奴が、こんなザマだなんて。別に笑ってくれてもいいし、罵ってくれたっていい。……お前にはその権利があるから」


「いえ……罵るだなんて、そんなことは。ただ……その……」


 緊張で知らず知らずの強く握りすぎて白くなった和臣の手の甲を、西条の指が優しく撫でてくれる。


「嬉しくて……」

「……え?」


 騙していたことを叱責されるものだと思っていた和臣は、想定外すぎる返答に一瞬理解が追いつかず、逸らしていた目を思わず西条に向けた。

 そして、さらに困惑した。

 なぜなら、西条の顔がお湯でも被ったかのように耳まで真っ赤になっていたからだ。


「西条? お前、なんでそんな茹で蛸みたいになってるんだ?」

「当たり前ですよ! 好きで好きで仕方ない人から、オレがいないとダメなほど依存してました、なんて言われて嬉しくない男はいません!」



 好きで好きで仕方ない人。

 

「………………は?」 

 

 言葉が耳を通り抜けた途端、頭の中に疑問符がぶわっと噴き出した。


 この男は一体何を言っているんだ。それとも何だ、これはもしかして願望が強すぎて聞こえた幻聴か何かか。

 夢かドッキリか、と眉間に力を込めながら西条をじっと見つめる。



「え、え、ちょっと先生、なんでこんな時に不機嫌になるんです?」

「いや、不機嫌にはなってない」

「眉間に皺三本も作りながら言われても説得力ありませんよ。それとも今さっきの話は嘘だったんですか? 俺をからかってただけとか……」

「そんなことはない!」


 和臣の不機嫌顔のせいで勘違いを起こし始めている西条に、慌てて否定する。


「じゃあ……じゃあ、俺たち両思いってことでいいんですよねっ? もちろん、恋愛的なで」


 真剣な眼差しで見つめられ、和臣はゴクリと喉を鳴らした。

 これは素直に頷いていいのだろうか。

 自分も好きだ、と告げていいのだろうか。

 胸の中が湧き立つような高揚感に包まれる。


 が、頭を縦に振ろうとした途中で、和臣は大切なことを思い出した。


「で、でもお前、付き合ってる子がいるんじゃなかったのか……?」

「は? 何です、それ?」

「看護師たちが話してるの聞いたぞ。皆口さんとお前が付き合ってるって。一緒に造る家の相談してたって」



 あの日聞いた話を確認すると、最初は一体なんのことだと首を傾げた西条だったが、すぐにハッと気づいた素振りを見せて和臣の問いを力強く否定した。


「それは誤解です! 確かに皆口さんと家の話はしてましたが、あれは医院と自宅を併設させるために気をつけた方がいいこととか、予算とかの相談をしていただけです」


 皆口は建築士の父親の影響もあってか、建築関係の知識に富んでいるらしく、西条は素人では分からない部分の助言を求めていたのだという。


「けど、この前『子どもが遊び回れる庭のある家が欲しい』って、お前自身が言ってたじゃないか。あれって自分の子どもの話だろ? そんな夢、オレじゃ……」


 当然、叶えてやることはできない。


「それも違います。あれは医院の庭を地域の子どもの遊び場にしたいって意味です。病院の敷地内なら安心して遊べるだろうし、怪我をしてもすぐに対処できる。体調の悪い子だって、いち早く見つけることができるってメリットがあると思って」

「それは確かにそうかもしれないが、そもそもお前子ども好きじゃないか。自分の子どもだって欲しいだろ?」

「もちろん子どもは好きですけど、それ以上に俺は先生が好きですし、一生を共にしたいと思ってるんです! 先日、二人で食事に行った時、先生に家を建てる話をしましたよね? 実はあの時、将来、先生と一緒に開業したいってお願いするつもりで話を切り出したんです」


 だけど途中で緊急のコールが入ってしまったため、最後まで伝えることができなかったのだと西条は語る。


「俺、本当に先生のことが好きなんです。信じてください」


 西条の強い思いが、肌に圧を感じるほど伝わってくる。


「西条……」


 この気持ちは本物だ。それは恋愛の経験値がマイナスを振り切っている和臣ですら分かった。

 なのにーーーーどうしてだろう。

 叶うはずがないと思っていた想いが成就したにも関わらず、和臣の頭には「どうして? なぜ?」の疑問が溢れた。

 

 もちろん、西条が人を騙すような人間だと疑っているわけではない。だが自分は人を欺いて己の欲を満たしたうえ、お世辞でも西条に優しい態度は取ってこなかった。いくら恩があるとはいえ、そんな人間のどこに惚れるというのだ。



「まだ、俺のこと信じられませんか?」

「だって……オレは……」

「不安に思っていることがあるなら、言ってください」


 俺が全部取り除きます、と自信満々に微笑まれ、和臣はならば、と湧き出た疑問を西条にぶつけた

 

「オレは、お前も知ってのとおり性格も口も悪くて、周りから感情が欠落してるって言われるような男だ。こんな奴、一体誰が好きになるんだよ……」


 子どもには怖がられ、患者家族には批難され、上の人間や看護師たちからも協調性がないと溜息を吐かれる。どこを取っても欠点しかない男なんて、自分だってごめんだ。



「先生は感情が欠落してるわけじゃありません。少し分かりにくいかもしれませんが、誰よりも優しい人です」

「違う。お前はオレとなまじ身体の関係なんて持ったせいで、変に勘違いしてるだけだ」


 男という生き物は、セックスすると相手に好意がなくても情を抱いてしまうものだ。特に西条の場合、最初に自分のための行為だと騙されていたこともあって、余計に間違った認識が植えつけられてしまったに違いない。


「うーん、なかなかに頑なですね」


 和臣の言葉を聞いて、西条が困ったように笑う。


「分かりました。そこまで先生が自分のことを否定するなら、どうして俺が先生を好きになったか、今からありったけ説明します」

「……へ?」


 よく聞いてくださいね。前置きをした西条が、長い息を吸い――――。


「最初に先生のことが気になったのは、研修医時代でした。あの頃の先生はめちゃくちゃ厳しかったけど、それは人の命を預かる覚悟を俺に持たせるためだってすぐに分かったし、しっかり育てようとしてくれているんだって伝わってきたので、すごく嬉しかったんです。あと患者が元気になって退院する姿を見て浮かべた先生の笑顔が、すごく可愛くて、ドキっとしました」

「え? は? ちょっ、お前……」

「その次は研修が終わって小児科にきた時です。あの時、先生に『面倒な奴が来た』とか『うちに来なくてもよかったのに』って言われてへこんだんですが、後から看護師長さんに、俺の配属が正式に決まった時、先生が一番嬉しそうだったことや、部長にかけあって指導医を買って出てくれたこと、あと随分前から準備をしてくれてたことを聞いて、俺、泣きそうになりました。というか、そのあと一人になった後、嬉しすぎて本気で泣きました」

「お、おい」


 今は泣いたとか泣いてないとかそんなことよりも、当時のことを看護師長に知られていただけではなく、西条本人にまで伝えられていたことに驚きが隠せなかった。



「それから一緒に働くようになって、先生が誰より優しいってことも知りました。先生、毎年新人の看護師が入ってくる度に『子どもに泣かれたら迷惑だから、一発でルート取れるようにしろ』って点滴の練習台になってますよね? それに冬は必ず白衣のポケットにカイロを入れて、子どもに触る指先が冷たくならないようにしてる」



 両腕が針の穴痕と内出血だらけになってもすました顔で差し出し続ける姿に感銘を受け、自分も同じ行動を取るようになったのだと西条は語る。

 

「いや、それは、別に……」

 

 まさか密かに行ってきた数々の行動を、西条に知られていたとは。

 それだけでも気恥ずかしいというのに、それをつらつらと聞かされるなんて。

 これはもしかしなくても、罰ゲームなのだろうか。そんな気持ちにまでなってくる。


「西条、もう……もういいから」


 これ以上は、と制しようとしたが勢いは止まらず、まるで最初から台本でも用意されていたかのように西条の思い出語りは続けられた。



「俺が酷く落ち込んだ時だって、負担のない科への転科も考えた方がいいっていう上の人たちに頭下げて、俺が小児科に残れるようにしてくれたんですよね?」


 これも尾根から聞いたと、西条は言う。

 

「それは……オレが指導医だからで……」

「尾根部長言ってました。あんなに必死な東堂先生は初めて見た。よほど君に期待してるんだね、って。だから、さっき先生は自分の欲を優先したって言ってましたけど、それを聞いても恨みなんて気持ち少しも出てきませんし、今でも先生と出会えてよかったって心から思えます」



 西条の内側に隠されていた真摯な感情が、和臣の不安をどんどん消していく。


「これだけ俺の心を揺さぶっておいて、まだ俺の好きな人のことを悪く言うつもりですか? それなら先生の気が済むまで――――」

「もういい! 西条、本当もういいから!」


 居たたまれなくて、これ以上聞いていられない。慌てた和臣は西条の口を塞いでしまおうと、空いている方の手を持ち上げる。が、先を読んだ西条に手首を捕まれてしまい、望みは叶わなかった。


「いいえ、一番大切なことがまだ残ってます」


 これだけは言わせてください。いつの間にか両手の自由を奪われ、真っ正面で向き合う形となった状態で願われる。


「西条……」


 視線がこれ以上ないほどまでに深く絡み合った途端、強力な磁石に引きつけられるかのように目が離せなくなった。



「先生と始めた関係は、俺にとって小児科医を続ける手段だったことに変わりありません。けど何度も先生の温もりを感じるたびに、ああ、先生のこんな姿を知っているのは世界中で俺だけなんだって、特別感みたいなものを抱くようになって……気づいたら、それが独占欲に変わってたんです

「独占欲?」

「先生を誰にも渡したくない、自分だけのものにしたい。だけど、その望みを叶えるためには一日でも早く一人前の医者になって、先生に認めて貰わなきゃいけない。だから……瑞紀君のことをきっかけに、一人で乗り越えられるようにしようって決意したんです」

「瑞紀君のこと?」

「瑞紀君が急変した時、本当は俺、先生のこと支えたかったんです。けど先生は俺の手を取ってくれなくて……」


 和臣に頼って貰えないのは、すべて自分が力不足のせいだ。そう思い知らされたのだと西条は苦い顏をしながら告げる。



「ねぇ、先生……俺はまだ完全に弱さを克服できていませんし、先生の指導が必要なヒヨッコです。でも、いつか必ず自信を持って先生の隣に立てる医師になります。だから――――」


 捕まれていた手が離される。ようやく自由となった和臣だが、逃げなければという意思はとうになく、ただ頬を包む西条の両手の温もりに意識を向けた。


「いつか、俺と一緒に家を建てて貰えませんか?」


 先生と暮らすための、大きな庭のある家を。



「っ! さ……ぃ、じょ……」



 逞しい腕に包み込まれた瞬間、視界が滲み涙が自然に溢れた。

 ギュウギュウで少し苦しかったが、幸せだった。



「ほんと……に、オレで……いいのか?」

「はい、先生じゃなきゃ嫌です」

「オレ、やっかいな……やつだぞ……」

「まだ言いますか? でもそういったのも含めて、全部愛してます」


 抱擁を一旦解き、瞼を伏せた西条の顏がゆっくりと近づいてくる。すぐにそれがキスだと分かった和臣はゆっくりと目を閉じ、温もりを待った。

「ん……」


 キスなんてセックスの時にもう何十回と交わしたはずなのに、まるで初めての時みたいに新鮮に感じる。


 これからは背徳感に苛まれることなく、こんなふうに恋人として色々なことをやっていけるのだ。そう思うと、喜びが連鎖爆発する爆竹みたいに広がった。


 

 「西、条……」


 涙声で呼ぶと、こちらが燃えてしまうぐらい熱い瞳が柔らかく微笑んでくれた。

 ああ、なんて幸せなのだろうか。

 幸せすぎて逆に怖くなってしまうぐらいだ。

 まるで西条を独り占めした見返りに、何か大きなものを失うのではないかと不安を覚えるほどに。

 

 

 ――――失う?



 その時、ふと和臣は胸騒ぎのような感覚を覚えた。憂心はすでに解消はずなのに、未だ大きな問題に苛まれているような、そんな感覚だ。自分は何かを忘れている。そんな懸念が走った瞬間、脳裏に尾根の顔が浮かび和臣は双眸を大きく見開いて西条の胸を叩いた。


「どうしました?」


 名残惜しげに唇を離した西条が、首を傾げながらこちらを覗き込む。


「西条、ダメだ、オレたち……もう一緒にいられないんだった」

「なんです、それ。急にそんな不吉な冗談言わないでくださいよ……」


 せっかく両想いになれたというのに、と子どものように唇を尖らせる西条に、じっとりと睨まれる。


「冗談とかじゃない。お前、尾根部長から聞いてないのか? 今度、北海道の病院との交換研修プログラムで、オレかお前かのどちらかが転院しなきゃいけなくなるって」

「え? 俺、そんなこと一言も聞かされてませんよ?」

「小児科から一人出すって話で、オレとお前と横手先生が候補に上がったんだけど、実質的に動けるのはオレたちだけだからって……」


 詳細を話すも、西条は寝耳に水という顏で首を振る。


「多分、ここ数日部長が学会でいなかったから伝わってないんだと思います。でも北海道って……嘘だ……」


 和臣が初めて聞かされた時と同じように、西条も絶句する。そしてそのまま沈黙してしまった。おそらく、今必死に頭の中で混乱を落ち着かせているのだろう。和臣は邪魔しないよう西条を見つめたまま言葉を止める。

 そのまま待つこと五分、なんとか衝撃を沈静させることができたのか、西条は一つ大きく息を吐いて、再び和臣に視線を戻した。


「…………分かりました。その研修、俺が行きます」

「え? は? お前が? いや、お前はこっちに残って開業の準備しないといけないだろ? そう思ってオレが行くつもりだったんだが……」

「確かに準備は必要ですが、独り立ちするための医療知識はもっと必要ですからね。それに……今、北海道にいくのは、将来、先生の隣に自信を持って立てる医者になるいい機会だと思ったんです」


 患者の死を受け止め、一人でもしっかり歩けるようになるための修行だと西条は言う。


「だから俺、北海道に行きます。行って、猛勉強して、五年で必ず戻って来ます。そしたら……一緒に病院開いて貰えますか?」

「五年後か」


 その頃、和臣は四十二歳だ。医師としても一人の人間としても熟成された時期であるものの、一度踏み出してしまえばもう後戻りできない時期でもある。

 ここで頷けば、和臣の未来は完全に決まるだろう。

 しかし不思議なことにその選択に迷いどころか、わずかも不安は湧かなかった。それよりも今は、西条がここまで逞しく成長してくれたことが嬉しくて仕方ない。

 数十分前まであれほど西条が飛び立つことを怖がっていたというのに、現金なものだ。


「分かった。家でも病院でも何でも、一緒に建ててやる。だからもう辛いことがあっても泣くなよ」


 はっきりと答えを答えを返して、今度は和臣から抱きしめた。

 背中に腕を回してギュッと抱きしめると、西条は上半身を小さく震わせ、そして鼻をすする。


「ありがとうございます。……でも本音を言えば、もう今の時点で寂しくて、辛くて泣きそうです」


 西条の涙声に、和臣の鼻腔もツンと痛む。


「オレだって寂しいに決まってるだろ。でも二人の夢のために頑張るから。一緒に、頑張ろうな」

「はい」


 一緒に涙声になりながら、強く、強く抱き合う。

 今、目の前にある温もりと離れ離れになってしまうことを考えると苦しくて堪らないが、震えるような恐怖は感じなかった。なぜなら、密着した身体越しに伝わってくる西条の鼓動がまるで二人の未来を鼓舞する応援歌のように聞こえて、寂しさをうんと和らげてくれたからだ。


 大丈夫。二人には未来がある。

 和臣は幸せを噛み締めながら、愛おしい温もりに浸るのだった。


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