13話−1:真実の告白①

 室内に飾ってあるのは、製薬会社から配られた面白みのないカレンダーに、白黒の壁掛け時計だけ。そんな殺風景な更衣室の硬いベンチに座りながら、和臣は数時間ずっと項垂れていた。

 

 床を延々と見つめ考えるのは、今日の急患のことばかり。


 西条の機転でアナフィラキシーショックだと判明した子どもは、投与した薬によって症状が改善し、二時間後には意識を取り戻すまで回復した。大事をとって今夜は小児科で預かることになったが、きっと明日には帰宅することができるだろう。


 処置の後、患者の母親から何度も頭を下げられ感謝された。

 しかし和臣はその姿を直視することができなかった


 ――オレは礼なんて言われる立場じゃない。むしろ……。


 罵られなければいけないほうだ。

 緊急時に処置を迷ったことは、これまで一度もなかった。研修医時代ならともかく、専門医になって十年になろうという人間が苦しむ患者を前に思考を止めてしまっただなんて。


 もしあの時西条が現われなかったら、和臣は完全に医師失格の烙印を押されていた。


 ――いや、そうでなくても失格か。


 医者は人の命を預かる職業。一度のミスだって許されない。今回は窮地を脱することができたものの、和臣の失態は医師としての資質を問われても反論できない。

 

「っ……」


 誰かに責められることは怖くないが、この先のことを考えると、明かりも何もない場所に閉じ込められたかのような不安に駆られた。


 今回のことを尾根に報告しても明確な被害を出したわけではないため、きっと口頭での指導で終わる。

 

 でも、それでいいのか。それでこれからもやっていけるのか。


「……っ、はぁっ……」


 この手で子どもに触れられるのかと自分に問いかけた途端、気道が狭窄したかのような苦しさに襲われ、和臣は慌てて息を吐き出す。

 たちまち身が冷え切るほどの恐ろしさと、すべてを飲み込むかのような暗闇に襲われた。


 怖い。どうしよう。どうすればいい。どうしてこんな風になってしまったのだ。


 西条はあんなに頼り甲斐のある医師へと成長したというのに。


 さらに項垂れた和臣の閉じた瞼の裏側に、今日の一件が蘇る。

 多くの医師が診断に迷う中で西条だけが原因を特定できたのは、和臣のようにゼロから疾患を探ったからではなく、症状から即座に該当病態の見当をつけたから。つまり、それだけ様々な症例を頭に叩き入れていたということだ。

 

 それに加え、あの緊急時に混乱する母親を落ち着かせ、情報を引き出せたことからも医師としての資質の高さが窺えた。


 西条は常日頃から患者やその家族と積極的に向き合い、気持ちを理解してきた。その努力が実ったことは指導医として誇らしい気持ちになる。

 しかし。

 

 ――西条は、もう一人前の医者だ。誰の支えも必要ない。


 完全に和臣の下から飛び立ってしまったのだ。

 そう確信した瞬間、鼻腔の奥がズキンと痛んだ。

 

 全身が強ばって震えると、続けてマーブル模様の白タイルに透明な雫がポタポタと床に落ちた。喉からも抑えることができない嗚咽が、壊れたように漏れる。

 

「……っ……ふっ……く、……」


 もう頭の中が、握り潰した卵みたいにグチャグチャで、どうしたらいいのかすら分からない。

 俯いたまま情けない嗚咽を漏らし続ける。

 

 その時、更衣室にコンコンと控えめなノック音が響いた。

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