5話:お誘い


 小児科はよく家族みたいだと言われる。医師と看護師が父と母で患者がその子ども。時に笑い、時に叱ったりしながら皆で病気を治している様がそのように見えるらしい。

 確かにここは温かな場所だ。昼間は小学校の昼休みのような騒がしさに包まれ、夜は毎日が修学旅行みたいな特別な空気が漂う。子どもがそこにいるというだけで、蜂蜜をたっぷり入れたカフェオレのような安らぎを感じられるのだ。

 

 だからだろうか、外来診察を終えて小児科病棟へと戻ってくると時折、実家に帰ってきたような気分になるし、どれだけ疲れていてもここへ帰って来たいと思ってしまう。

  

 結局、和臣だって好きなのだ。小さな命たちが。


 一歩一歩廊下を進むごとに、陽だまりの音が大きくなっていく。ああ、もうすぐだ。自然と明るくなる気分に頬が緩みそうになったその時。

 

「とーぐーせんせい!」


 病児保育室から小さな塊が勢いよく飛び出てきて、軽い衝撃とともに何かが足にひっついてきた。


「うわっ」


 驚いて足元を見れば、一人の男の子が和臣の足に小さな腕を絡ませてギュウギュウとしがみついていて。


「瑞紀君?」


 こちらを見上げてくる顔を見て、和臣は目を丸くしながら自分の担当患者である七尾瑞紀の名を呼んだ。


「瑞紀君、どうしたんだ?」

「あのね、せんせー見つけたから出てきたの!」


 どうやら和臣が病棟に戻って来たのが見えたから、走ってきたらしい。


「せんせ-、もう今日はそとのお仕事おわり?」

「終わったよ」

「じゃあ、おかえりなさいだね」

「ま、ぁ……そうだね」


 向けられた満開の笑顔に、和臣はわずかばかり言葉を詰まらせる。看護師からは何度か経験があるものの、患者からおかえりと言われたのは初めてだからだ。


 瑞紀はとても不思議な子である。他の子は和臣を見るなり怯えた顔にるのに、この子だけはこうして寄ってくる。

 特別優しくしたわけでもないのに。


「ん? なんだ、瑞紀君、汗びっしょりじゃないか」


 ふと目を凝らすと、瑞紀の髪の毛が風呂に入った後のように濡れていることに和臣は気づいた。額や頬にも珠のような汗が滲んでいる。


「うん、あそこでみんなと遊んでたから!」


 瑞紀が飛び出してきた部屋を指さす。その先には保護者が長時間病棟を離れる場合に、保育士が一時的に預かる病児保育室のドアがあった。きっと夕方は自由時間となっているから、中にあるオモチャで遊んでいたのだろう。汗だくだった理由を納得した和臣は瑞紀に当たらないよう膝を折り、ポケットから取り出したハンカチで瑞紀の額を柔らかく拭った。


「そうか。でも先生を見つけたからって、周りも見ずに飛び出てきたら危ないぞ。誰かとぶつかったらどうする?」

「だって走らなきゃ、せんせーに追いつかないと思ったんだもん!」


 目をぎゅっと閉じ、為すがまま汗を拭かれながら瑞紀が答える。


「だったら大きな声で呼べばいいんだ。いくら元気になったからってあまりはしゃぎすぎると、またベッドから出られなくなるぞ」


 瑞紀は今こそこうして元気に走り回っているが、三週間前に心室中隔欠損症という先天性の心疾患の根治手術を受けたばかりだ。例え術後は良好で退院の日程も決まっているとはいえ、子どもの体調は変化しやすいから軽視できない。

 和臣は釘を刺しながらも肌の色や頬の体温を観察し、異常が無いかを確かめる。


 ――貧血症状も見られないし、呼吸や脈の乱れもない。少々体温が高いようだが、これは走り回っていたせいだろう。


「もーボク、ゲンキだって!」


 こんな場所で診察されたことが不満だったのか、瑞紀は首をぶんぶんと振って和臣の手から逃れた。


「分かった分かった」


 これぐらいよく動けるなら、問題はないだろう。そう結論付けて瑞紀との会話を続ける。


「そういえば、今日お母さんは?」


 ちらりと瑞紀が飛び出てきた保育室に目を遣る。

 あの部屋から出てきたということは今、瑞紀の母は病棟にいないのだろう。


「おかあさん、おばあちゃんがカゼ引いちゃったからって帰っちゃった」


 こちらに向けていた視線を床に落し、口を尖らせる。

 

「今日はもうこれないかもって」

「そうか……」


 いくら病気が快方に向かっているとはいえ、五歳の子どもが長時間母親と離れるのは寂しいはず。瑞紀の気持ちを考えたら胸の奥がツンと痛んで、和臣は思わず小さな頭を撫でた。


「一人で寂しいかもしれないが、あとちょっと頑張ればずっとお母さんと一緒にいられるようになる。それに、ここには友達がたくさんいるから、寂しくて我慢できなくなったら色んな人に声をかければいい」

「本当? せんせーもお話してくれる?」

「もちろん」

「わかった! じゃあ、さみしくなったらせんせー呼ぶね!」


 そしたら絶対に来てよ、ゆびきりげんまん! と目の前に突然小指を出されてしまったものだから、和臣は「え?」戸間遠いながらも、マシュマロような指に自分の自分の小指を絡める。


「ゆーびきりげんまん、うそついたら――――」

「ちょっ、瑞紀君、声大きい」


 周囲などお構いないなしと大声で歌い始めた瑞紀に、和臣は慌てた顔で声を落とすよう願う。

 こんな大声を出されたら、看護師や保育士が何事かと驚いてやって来てしまうし、そこで見たものが保護者たちから「感情欠落医師」と呼ばれる人間の指切り姿だったら。

 衝撃的すぎて、休憩時間の噂話になること間違いなしだ。


「ゆーびきった!」


 ハラハラとしながら周囲に視線を巡らせ、誰も来ないことをひたすら祈る。そのうちに歌が終わって廊下は元の静寂を取り戻した。


「ほ、ほら、そろそろ部屋に戻らないと保育士さんが心配するぞ」

「はーい! じゃあね、せんせい!」


 指切りをして満足したのか、素直に瑞紀が保育室に戻っていく。立ち上がり、その後姿を眺めながらハァッと長い息を吐き出していると、不意に背後から聞き覚えのある声が届いた。


「東堂先生」

「……西条か」


 声だけで誰かすぐに分かった和臣は、面倒な奴が来たと眉間に軽く皺を寄せながら振り返った。


「何か用か?」

「いや、用はないんですけど、外来終わって帰って来たら先生の貴重な指切り姿が見えたので」


 立てた小指を小さく揺らしながら西条が微笑む。

 やはり見られていたか。よりによって一番見られたくない人間に目撃されたことに、舌打ちが出そうになった。



「それで、オレをからかうつもりか? いい度胸だな」

「わー、相変わらず辛辣ですね。俺そろそろ本当に心折れちゃいそうです」


 数日前の夜の空虚が幻かのような、“いつもの“明るい西条が、冗談混じりに笑う。


 ーー今回ももう大丈夫みたいだな。

 

 もうすっかり自分を取り戻した西条を見て、ホッとする。

 と、同時にあの日のことを思い出した和臣の心に、冷たい風が吹いた。


 二人で肌を重ねた翌朝、和臣が目を覚ますとすでに西条の姿はなかった。代わりにあったのがリビングのテーブルの上に置かれた、小さなメモだけ。

 

『東宮先生。ごめんなさい。もっと強くなります』


 冷え切った部屋の中、和臣はメモを片手に乾いた笑みを零した。

 セックスした次の朝、西条が和臣の起床を待っていたことはない。毎回、ことが終わった後、すべての後始末をしてそのまま帰るのだ。それは一見、西条の優しさのように見えるが、多分違う。


 西条は嫌なのだ。和臣の寝顔を見ることが。

 

 悲しみの深闇を性欲でなんとか蹴散らして我に戻った時、きっと同性とのセックスに西条は強い嫌悪を覚えているに違いない。

 だから帰ってしまうのだ。

 しかしその代わり、その次に会う時、西条は小児科医の顔を取り戻している。朝、一人で目覚めることは酷く寂しいが、目的は達成できているので何一つ文句は言えない。いや、言ってはいけない。

 

 

「心でも聴診器でも勝手に折ってろ。用がないなら行くぞ」

「わっ、待って下さい。ちゃんと用はありますから」


 背を向けて歩き出そうとした腕を、唐突に掴まれる。


「何だ?」

「先生、今日の夜時間ありますか?」


 確か今日は日勤ですよね、と最初から和臣の勤務予定を知っている素振りで聞かれる。


「夜? ああ、あるけど」


 ざっと頭の中で自分の予定を思い出してみるが、今日は医局に残ってやっていく仕事はない。しかし何故そんなことを聞くのかと疑問に思った時、ふと和臣の頭にもしかしてという言葉が浮かんだ。


「……何かあったのか?」


 西条から誘いがあるということは、また心で受け止めきれない悲しみに直面した可能性が高い。ならばどうにかしなければと口を開きかけた時、ハッとした顔を見せた西条が大きく首を振った。


「違います、違いますっ! 単純に先生と食事に行きたいと思ってのお誘いです。先生にはいつもお世話になっているので」


 ただ純粋に和臣と食事したいという西条に、和臣は内心ホッと胸を撫で下ろす。


「……別にそんなこと気にする必要はない。お前を指導してるのは万年人手不足の小児科のためだ」


 たとえ半人前だろうが辞められては困る。これは和臣自身の欲望のためだけでなく、小児科のための言葉でもあった。

 

 小児科は成人科のように細分化されていない総合診療の要素が高い科であることから、全身の医療知識を身につけなければならない。さらに治療結果が満足いかず、訴訟へと発展することも多いため、若い医師から敬遠されがちで人材が不足しているのだ。

 

「本当、先生って厳しさしかありませんよね」

「文句が?」

「いえ。俺は先生のおかげでここに居られるんですから、文句なんてありませんよ。でも、一人の後輩として誘うぐらいは許して欲しいなって」

「……毎回言うが、オレとメシに行ったって楽しくなんかないだろう」


 西条とは別段、身体だけの関係ではない。同じ医師同士、時間がある時に飲みに行ったりすることもある。が、なぜいつもこの男が誘ってくるのか不思議で堪らない。

 自分で言うのも何だが、こんな偏屈で厄介な人間と食事なんて、息が詰まるだろうに。

 

「俺は楽しいですよ。先生と二人だと落ち着いた時間を過ごせますし、何より仕事中では聞けない貴重な経験談も聞けますから」


 だからお願いしますと、耳が垂れ下がった子犬のような目で請われると、瞬く間に断るという選択値が弾け飛ぶ。

 これも惚れた弱みの一つなのか。

 

 

「……はぁ、分かったよ」

「やったぁ。じゃあ終わったら更衣室で!」


 食事の約束を取りつけて喜んでいる西条に、こんなことではしゃぐなんてお前は子どもか、と呆れ顔を見せてから医局へと向かう。

 置いてけぼりを食らった男は背後で待って下さいよと騒いでいだが、足は止めなかった。それは意地の悪い光景に見えたが、実は誰も見ていない和臣の頬がいつもより幾分も緩んでいたので、仕方のない話だった。

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