10 一か八か

「は……?」


 意外すぎる提案に、頭が一瞬真っ白になる。レオの動揺を知ってか知らずか、エリアムはもっともらしく続けた。


「僕が取り込まれるのが早いか、僕の武器が亡霊を倒すのが早いかわからないですけど、時間、もうけっこう経ってますよ。どっちにしても間に合わない。ここに二人で残されるよりは、先輩だけでも戻った方がいいでしょ」

「……ふざけんなよ。ぶっ殺すぞ」

「この期に及んでガキっぽいなぁ。殺したいなら帰ってくださいよ。そうすればお望み通り、僕って存在はぶっ壊れますよ」


 馬鹿にしたように言ったエリアムは、ため息と共に自分を睨むレオの目を見返した。


「先輩、お兄さんのこと終わってないんでしょう。ここでおしまいにするわけにはいかないんじゃないですか」

「お前だって金稼ぐんだろ。軍の恩給なんて大した額じゃないぞ」

「それはもういいんです。もらいましたから」

「……どういうことだ?」

「僕を金で買いたくないって言ったババ——ご夫人が、どういう風の吹き回しか入隊前日に小切手を送ってくれたんですよ。だからもういいんです。あれだけあれば妹も嫁に出せるし、両親も慎ましくなら暮らしていけます。不肖の息子は名誉の戦死で体面も保つ。だから大丈夫ですよ、ここでぱっと消えちゃっても」


 嫌なことあったと初日に言っていたのはその一件らしい。

 幸運が転がり込んだと思わないのが意外な気がしたが、施しを忌むのがエリアムなりの誇りの在り方なのだと考えればらしい気もする。


(つまり俺はまだ大して知らないってことだな。こいつのことを)


 確実に知っているのはバカだということくらいだ。亡霊に喰われてぱっと消えられるわけがないだろう。むしろ延々と彷徨う羽目になる。それをレオが許すはずもないことが、何故わからないのか、このバカは。


 淡々と戯言を述べるエリアムに、舌打ちまじりに吐き捨てる。


「ごちゃごちゃうるせえな、誰が置いていくかバカ。お前を置いていったら俺が大丈夫じゃなくなるんだよ!」

「えぇ……? 先輩そんなに僕のこと好きでしたっけ?」

「好きじゃねえよ安心しろ。でもな、俺はもう一人じゃ絶対帰らないって決めてるんだ。一度やって後悔してるからな」


 兄と穴に落ちた時、レオだけが外に戻った。扉を開いて一人で逃げた。穴の底に兄を残して。


「——兄貴を置いて戻った時、俺はガキで、扉を開けたのも無意識だった。兄貴はでたらめな暴君で、正直なところ全然好きでも懐いてもなかったが、わざと残していったわけじゃない。……それだけ言い訳があったって、まだ引きずってる」


 あの夜だって、無理やりに夜の森に連れ出されたのだ。「きもだめし」とかなんとか言って。レオが行かないなら妹を連れていくと、もう眠った彼女を起こそうとするから嫌々ながら付き合った。


 今にして思えば、レオは穴の予兆を感じていたのだ。嫌な感じがするからせめて明日にしようと言ったのに、「一緒に行けば怖くない」と、煽るように笑って言った。そして今はどことも知れぬ穴の底か、あるいは軍の隔離施設だ。自業自得と笑いたくなる。共に落ちたのではなかったら、本当に笑えたかもしれないのに。


「……それでも、二人で落ちたままよりはましでしょう」

「そうだな。みんなそう言った。親も妹も親戚も、一人で戻った俺を責めなかった。当たり前だ。俺だって他人だったら『仕方なかった』『お前だけでも無事でよかった』って言う」

「僕を置いて行ってもみんなそう言ってくれますよ。何なら僕も言ってあげますから、帰ってください」

「俺は俺と他人じゃない。誰も俺を責めなくても、責めないから俺は……あぁもう面倒だな、とにかく俺は一人では戻らない。それならお前と残る方がましなんだよ、俺にとっては!」


 子供だった。無意識だった。置いていくつもりじゃなかった。そもそもが兄貴のせいだ。

 そんな免罪符があってなお、レオは自分の行動を正しかったと思えない。


 一緒に外に出られればよかった。


 それができなかったなら、たとえ亡霊に飲まれても、自分を失くしても、一緒に居てやるべきだった。落ちたままでいるべきだったのだ。あの時、あの穴の底に一人きり、大馬鹿な兄を残すくらいなら。


 吐き出したレオに、エリアムは露骨に迷惑そうな顔で、一欠片の共感もなく言った。


「……そんなの僕に背負わされたって困るんですけど。いいから帰れよ、バカかよほんと」

「うるせぇんだよ、バカにバカって言われたくねえぞバカ。くっそ、剥がれねえのかよこの硬い雪!」

「いたたたた無理やり引っ張んないでくださいよ首がもげる!」

「関節とか外したら抜けられるんじゃないか」

「できませんよそんなの、先輩できるんですか」

「できるわけねぇだろ。くそ、どうすれば……」


 こうしている間にも、エリアムを覆う雪は広がっていた。金色の髪の先まで霜が降りたように白く、色を失くしていく。


(……時間がないな。どうすればいい)


 この雪は体温では溶けない。死者の世界に降る雪に、生者は干渉することができない。相容れないものだからだろう。


 そこまで考えて、レオははっと気が付いた。


(いや——でも、亡霊には触れるよな? それに、この雪だか氷だかにだって触ってる。その辺の雪には触れなかったのに)


 周囲の雪に触れてみる。最初と同じく触ったそばから元に戻る。降る雪も同じくだ。エリアムを捕らえる氷のようなそれとは違う。


 糸口が見えた気がした。もう少しでなにかが掴める。


(……考えろ。周りの雪は舞台のままだ。ということは、この白い氷は亡霊の一部か? 俺たちを実際に見て餌と記憶したから、遠距離でも捕らえられたのか)


 氷が亡霊の一部だとすれば、活路はある。亡霊は無敵ではない。倒せるものだ。


(亡霊に触れるもの。壊せるもの。何かっていったら——武器、だよな)


 半分以上凍りつつあるエリアムの指に触れてみる。生身の体温の奥にある、得体の知れない熱を探知する。しばらくそうして確信した。


(武器なら、ここにある)


 エリアムの武器は、エリアム自身が生み出したものだ。亡霊に干渉し、打ち砕く力は狩猟者ハンターの——この男の中にある。


「あの、何してるんですか? 先輩と手を繋いでくたばるなんていくらなんでもあんまりな——……?」


 凍りついた首をぎりぎりまで持ち上げたエリアムは、力の在処を探るレオを怪訝そうに見上げた。文句を半ばで途切れさせた彼は、なぜか呆れたように言う。


「……目、穴の中でも光るんですね。あと、なんか体の中ぐちゃぐちゃにかき混ぜられてる感があるんですけど、僕に何かしてます?」

「くそ、だめだな。媒介がないと外には出せない。新しく作るのはさすがに無理か。なら、取り戻すしかないな……」

「なにブツブツ言ってんですか」

「ちょうど追い付かれた。俺の仮説を試してみるか」


 立ち上がり、黒い路地を見つめたレオに、エリアムは青い目をうんざりと据わらせる。


「……一体なにを企んでるんですか、先輩」

「いいから黙って俺に賭けろ。好きなんだろ? 賭博」

「一か八かは嫌いですよ」

「なら勝たせろよ。イカサマは得意だろ」


 見下ろして言い捨てると、エリアムはあからさまに顔をしかめた。文句を言いたいのだろうが、残念ながら聞いている時間はない。


 世界のひび割れのような黒い路地から、真っ白な少女たちが影のように静かに現れる。


「……先輩と心中とか、死んでもごめんですからね」


 背中にかけられた声は諦めを帯びている。

 それを励ましと受け取って、エリアムから離れたレオは、少女たちの形をしている亡霊に対峙した。

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