9 亡霊

「先輩——先輩! 大丈夫ですか? 亡霊化してないですか?」


 肩を揺さぶりながら顔を覗き込んできた青い目を見た途端、白く霞んでいた頭に色が戻った。ここが幽世かくりよであることと、目の前の男の名前を順繰りに思い出す。


「……あんまり揺らすな、問題児。気持ち悪くなる」

「よかった。僕を覚えてるってことは大丈夫そうですね」


 めずらしく焦った顔をしていたエリアムは、口を開いたレオにほっとしたように息を吐いた。


「いきなり先輩がその部屋に引っ張り込まれて。ガラスは割れたけど、カーテンだけびくともしなくて入れなかったんですよ。僕の声、聞こえませんでした?」

「……いや、何も聞こえ——というか、俺は今、何して……?」

「大丈夫ですか? こっちには先輩の声、普通に聞こえてましたけど」

「聞こえて……? 何か言ってたのか? 俺」

「覚えてないんですか?」

「……記憶が抜けてる。窓の中に引っ張られて、それで——あぁくそ、つまり俺のミスだな」


 エリアムの話と霞んだ記憶から鑑みて、危うく取り込まれかけていたのだろう。


 今更ながらぞっとする。戦う術を持たない探知者サーチャーである以上、亡霊とは距離を置くのが鉄則なのに、話しているからと油断した。


 しかし、釈然としないものも残る。未帰還のだって、幽世かくりよであんなにしっかり話せる者は少ない。それなのに、レオを取り込もうとしたということは、彼女は〝亡霊〟だったのだ。


「何なんだ、くそ。あんなに言葉を話す亡霊なんて見たことないぞ。あれじゃあ、まるで〝人間〟だ。……それに、どうして亡霊は、取り込みかけた俺を開放したんだ?」


 もはやもぬけの殻らしい割れた窓の奥を見つめて考え込んだレオに、エリアムは前触れなく素っ頓狂な質問をした。


「ところで、先輩ってお付き合いしてる人とかいるんですか? 婚約者とか」

「は? いねぇよ」

「あぁ……じゃあさっきのって架空の彼女の話かぁ。なんか痛々しい」

「は? 架空? 彼女? 何言ってんだお前、大丈夫か?」

「先輩の方が大丈夫かですよ。……でも、なんだか——はぁ」

「あぁ? なんだよそのため息。殺すぞ!」


 意味はわからないが、めちゃくちゃに馬鹿にされているのはわかった。

 怒鳴ったレオに、エリアムはなぜか困ったように眉尻を下げた。地面についたハンマーにもたれるようにして、もう一度大きく息を吐く。


「いや、なんて言うか——先輩は、買えないものはないようなお金持ちの家に生まれたくせに、真っ当ですね。真っ当なんでしょうね、先輩みたいなのが。『あなたをお金で買いたくないの』って、売ってる方にはなかなかの殺し文句ですよねぇ? 色んな意味で」

「……本当に大丈夫か? お前」

「そこで先輩が亡霊に言ってたのと同じことですけど」

「え……?」


 自分は一体、亡霊と何の話をしたのだろうか。


 にわかに不安になったその時、背後から伸びてきた白い何かがレオの首を抱き締めるように巻きついた。


「——なに……っ⁉︎」

「先輩、後ろです! いや、でもこれ、後ろとかいう話じゃなくて——」


 ハンマーでレオを拘束した何かを断ったエリアムは、空気に掻き消えた白の残骸には目もくれない。周囲の館を見渡した彼が言わんとすることはすぐにわかった。


 三方を囲む館の飾り窓。

 カーテンの開いた窓のほぼ全てから、白い少女が静かにこちらを見つめている。


「あの、先輩。もしかして、これみんな……」


 エリアムが言い終わる前に、窓から身を投げるようにして館から出た少女たちは、街に降り続ける雪のように中空に浮かんだ。その中の数人がこちらに向かって飛んでくる。


「逃げるぞ、走れ‼︎」


 背中は任せることにして、先に立って走り出す。

 来た道を走り抜けながら、エリアムはうんざりと言った。


「あれ全部が亡霊って、さすがに多くないですか?」

「さすがも何も、同じ穴に何体も亡霊が棲んでるなんて見たことも聞いたこともない。喋るし増えるし、何なんだこの穴の亡霊は!」


 上がり始めた息の合間で叫ぶ。そこで、エリアムはふと思い出したように呟いた。


「私……」

「何だ?」

「自分のことを『私たち』って言ってたんですよ。先輩と話してた亡霊が」

「……なるほど。つまり、あいつらはあれ全員で〝一体〟なのか。くそ、ありかそんなの!」

「なんかずるいですねえ」


 飾り窓の通りを抜けて三叉路まで辿り着くが、反対の道からも少女の亡霊は湧いていたらしい。一本だけある街灯の下で、ついに数人の少女に囲まれる。この場は戦うしかないと、腰のホルダーに手を伸ばす。


「ひとまず一陣を蹴散らせ。減ったら次が来る前に、路地に抜けるぞ」

「僕はいいですけど、先輩は大丈夫ですか?」

「防ぐだけなら警棒これで何とかする!」


 強く振って警棒を伸ばした勢いで延べられた手を弾けば、亡霊の動きが一瞬止まる。痺れたような感覚を与えているはずだ。 

 伸縮式の警棒は帰還者にちなんだ探知者サーチャー用の武器だ。亡霊を倒すことはできないが、衝撃を与えるので牽制はできる。ただ、その効果を発揮できるのは数分だ。帰還者の血か何かが仕込まれているのだろうが、相殺されるので尽きるのが早い。


(とはいえ数を減らせないんじゃ危ういか……!)


 二陣が来ないうちに路地に後退した方がいいだろうかと考えながら、伸ばされる手を避け、弾く。


 しばらくそうしているうちに、亡霊の挙動に違和感を覚える。反対側で戦っているエリアムには遠慮なく体当たりを試みてはハンマーに砕かれている亡霊は、レオには手を差し出すような動きでしか向かってこない。


(妙だな。俺のことは捕らえようとしてるのか?)


 どうして、と思った途端に目の前を鈍く光るハンマーが横切った。白い腕を防いでいたレオの警棒ごと亡霊を砕き、エリアムの手に戻る。


「——だから雑なんだよ! 俺の武器を壊すな‼︎」

「どうせもう効果切れてただの棒っ切れになってましたよ。それより今のうちに行った方がよくないですか? ほら、あっち。合体してます」

「が……ったい?」


 ハンマーがすぐ飛ぶことには若干の耐性を得てきたが、エリアムが示した先にある光景にはさすがに言葉を失った。


 宙に浮く亡霊たちはみな、今しがた走り抜けてきた道に吸い寄せられていく。一人の少女を頂上に、スカートに隠された下半身だけが少しずつ高さを増していくのを、レオは半ば呆然と見上げた。


 背を高く伸ばした亡霊がそびえ立つ場所は、今いる三叉路からそう距離はない。


「……逃げるぞ!」

「二回目ですねそれ」

「無駄口叩かず走れ、バカ!」


 のんきな背中を突き飛ばして路地に向かわせ、その後を追う。どういうわけか、亡霊はレオには手温い。さすがにあの大きさの亡霊に体当たりされたら狩猟者ハンターであってもひとたまりもない。


(二人じゃ手に負えそうもない。一度撤退するべきか……?)


 これだけの大きさの亡霊なら、近いうちに近い場所で、また穴を開くだろう。本部に応援を要請して再戦した方が確実かもしれない。


(どっちにしろ、ここじゃ亡霊の気配が強すぎて扉が開けない。距離を稼いで街から出ないと——)


 そう思った時だった。

 レオの手首を、ひやりとした指が掴んだ。今までとは比べ物にならない力で体が後ろに引かれて浮かぶ。


(これ、亡霊の——)


「えぇ⁉︎ ちょっと先輩……っ!」


 駆け戻ってきたエリアムがハンマーを振りかぶって投げた。レオを捕らえた亡霊の腕が砕かれて消える。

 後ろに倒れ込んだレオの襟首を雑に引っ張り上げたエリアムは、さっきと逆にレオの背中を自分の前に押しやった。


「やっぱり先輩が先にいった方がいいです。あの亡霊、先輩のこと気に入って攫おうとしてますよ。軽率に口説いたりするから」

「はぁ? なに言ってんだお前、俺はそんなことしてない!」

「あぁもう記憶がないって厄介——……あれ。そういえばなんで戻ってこな……あぁ、わあ……?」


 ぐいぐい押されて仕方なく先に走り出したレオの後ろで、ぽかんと間抜けな声がする。


「どうした、今度はなんだ!」


 嫌な予感を抱いて問うと、エリアムは間抜けな声のままこう答えた。


「えっと、取り込まれました」

「は? お前ここに居るじゃねえか。なにが」

「だからその、ハンマーが」

「ハンマーが……?」


 走る速度を緩めて振り向く。そこには、エリアムの言葉通り、ハンマーを体内に取り込んだ亡霊がいた。


 雪像のような白い体の中心部——腹のあたりに、赤く光るハンマーだけが、周囲の白を溶かしたように透けて見える。


「あれ……たぶん効いてますよね。肉を切らせて骨を断つって、見た目の割にやることが豪快な亡霊だなあ」


 ハンマーの熱は、エリアムの手を離れても有効らしい。その証拠に、亡霊の動きは目に見えて鈍くなっている。しかし、すぐに砕けるほどではないようだ。ゆるやかではあるが、こちらに向かって進み始める。

 

「だから考えなしに投げるなって言ってんだよ、どうすんだ武器なしで!」

「えぇー、先輩を助けたのに」

「そりゃありがとな、次からは投げないで助けろバカ! あぁもう撤退だ撤退、ひとまず街の外まで走るぞ!」


 緩んだ足の速度を戻して路地を抜け、やっと最初の目抜き通りまでたどり着く。

 レオに続いて道に出たエリアムは、そこで唐突に雪の積もった地面に倒れ込んだ。


「何やってんだ、溶けもしない雪で滑ってんじゃ——」


 言おうとした文句は途中で止まった。

 エリアムの足元は雪で埋まっていた。そこを起点にしたかのように、うつ伏せに倒れた体もざわざわと登り上がる白い雪で覆われる。


「……へぇ。穴の底ってこんなのもありなんですね。ずるいなほんと」

「落ち着いて言ってる場合か! なんだこれ、雪——氷? 単なる舞台装置じゃなかったのかよ……!」


 さっきは触れなかったはずの雪は、今や明確な意思を持ってエリアムを凍らせていた。触れても冷たさはなく、代わりに体温で溶ける気配もない。エリアムを覆う白い雪は瞬く間に広がり、氷のように硬度を増していく。しかし、雪に手を置くレオまでを凍らせる様子はない。


(やっぱり亡霊は俺を取り込もうとしない……)


 なぜだ。あの部屋で、取り込みたくなくなるような何かがあったのか。まさか本当に口説いていたのだろうか。


(いや、そんなことはどうでもいい。どうする、動かせないんじゃ外に帰ることだって——)


 焦るレオをよそに、「うーん」と緊張感のない声で唸りながら雪の中でのたうっていたエリアムは、やがて納得したように凍りかけた顔で頷いた。


「これはもう動けませんね。じゃあ、しょうがないか」


 へらりと笑った問題児は、夕飯のメニューを提案するように気軽に言った。


「先輩、一人で帰ってくれません?」

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