8 飾り窓の少女

「外は寒いでしょう。私たちと一緒にあったまりましょう?」


 先が見えていたはずの道を塞ぐように、その館は出現していた。


 警戒しながら振り返る。現れた館の一階の窓辺に、声の主は佇んでいた。

 飾り窓を大きく開いた女は、こちらに向けて艶やかに笑う。


「……倒していいですか? 人じゃないですよ、あれ」


 ハンマーを強く握り込みながら、エリアムが問う。いきなり武器が飛ばなかったことに安堵はするが、声はあくまで好戦的だ。


 レオを庇うように前に出た肩を掴んでその場に留め、小声で告げる。


「いや、待て。まともに俺たちを見て話してる。未帰還者かもしれない」


 亡霊は明確な言葉を発さない。形は様々だが、レオが今まで出会った亡霊たちはせいぜい意味のわからない繰言を発する程度で、会話なんて出来たことはない。


 言葉を発する少女は、きちんと人の形をしていた。ただ全身が白く色がない。精巧な彫刻のようだ。あるいは、周囲に降り積もった雪で出来た雪像か。


「あんたは何者だ。何か覚えているか? どうしてここにいる?」


 亡霊とも、歪んだ人ともつかない女に、レオは声をかけた。会話をするならば、さすがに亡霊ではなく未帰還者だろう。未帰還者の保護は討伐に優先される。もし彼女が人ならば、即時保護して連れ帰らねばならない。


 レオの声を聞いた女は、窓から身を乗り出して手を伸べた。


「そう。お客さまはあなたの方ね?」


 窓からは距離がある上に、レオの前にはエリアムがいる。それなのに、彼女は


(なんで届い——)


 細い指がレオの手を強く握ると、思考はすぐに分断された。まるで火が灯ったように、体の芯が鈍く温まる。


 強く引き摺り込まれる感覚と共に、レオの意識は白に包まれ暗転した。





******


 その部屋は狭かった。


 ぱっと目に入るのは、窓辺に佇む女と、今いる粗末なベッドしかない。低くはない視線から、自分が座っていることを知る。


 女は素早くカーテンを閉めた。透明なガラスの向こうに金色の何かが見えた気がしたが、それが何かはもうわからなかった。


 頭に靄がかかったように、思考が乱れて定まらない。


(ここはどこだ? 俺は何をしに、ここに……)


 暗い、狭苦しい部屋に知らない女と二人きりでいる状況を思えば、訪れたことはなくとも娼館らしいことはさすがに知れる。

 しかしなぜこんな場所に居るのかはわからなかった。今までどこに、誰と居たのかすらも思い出せない。


(なんで思い出せないんだ? 俺は何を忘れて——)


 にわかに混乱するレオに、あどけない声がかけられる。


「お兄さん、こういうの初めて? ルールは知ってる?」


 窓辺のテーブルにあった蝋燭にマッチで火をつけ、慣れた口調で女は言った。


「この灯りが消えるまでなら、好きにしていいよ」


 暗くなった窓辺で振り返った女は、さして年も変わらない——いや、レオより幼いかもしれない少女だった。


 知っているようでいて、記憶の中の誰ともつかない顔をした少女は、頼りなく細い体でレオの上に乗り上げた。軽い体を押し退けることなど容易いはずなのに、影を縫い留められたように動けない。


「好きにって言ったって――」


 見知らぬ少女に、この狭苦しいだけの部屋で、したいことなんて何もない。


(いや、俺だってそういうことに興味がないわけではないが)


 興味がないわけではないが——こういうのは違うだろう。


 動かないレオに、少女は不思議そうに首を傾げる。


「どうしたの? 時間、なくなっちゃうわよ。私たちみたいなのは好みじゃない?」

「そういうわけじゃないが……」


 好み以前に、目の前の少女は何人もの顔を重ねて写したようにぼやけて見えて、うまく像を結ばない。表情はわかるのに不思議なものだが、今のレオはどうしてか、それを不思議とは思わなかった。少女が言葉を発するたびに、焦りも混乱も遠く、鈍くなって行く。


 ただ、霞みつつある思考の中でも、わかることが一つだけある。


「俺はあんたを知らないし、あんたも俺を知らない、よな」

「そうだけど、それで?」

「こういうことは、知らない人間同士がすることではないだろ」

「私たちは商品。あなたは買主。人間同士じゃないわ」


 幼子に言い聞かせるように、少女は続ける。


「ここはお店で、私たちは売り物の道具なの。おもちゃなのよ。だからあなたの好きにしていい」

「人間じゃないなら余計におかしい。この年になってまで、おもちゃで遊ぶ趣味はないし」

「言葉遊びをする場所じゃ、ないんだけど」


 蝋燭がチリリと音を立てる。

 短くなりつつあるそれを横目で見やり、少女は困惑したような視線をレオに戻した。


「……例えば人間同士だとしたら、あなたは私たちに何をしたいの?」

「そうだな、まずは……」


 問われて、レオは考える。同じ部屋で、同じベッドで眠るような相手がいたら、自分は何をしたいだろうか。


「まずは……早起きして、一緒に市場に買い出しに行く」

「は……?」

「それで二人で飯を作って食って、眠くなったらまた寝たりして……」

「…………?」


 訳がわからないと言いたげに、少女は首を傾ける。

 初対面の少女に何を語ってるんだと自分でも思ったが、白くけぶる意識の中では、それもどうでもよくなった。


 例えばそういうことをするとして、する相手がいたとして。

 レオが思い浮かべるのは、明るい光の差し込む暖かい場所で、微睡むような時間を積み重ねた先にあるものだ。


 こんなに暗い部屋で、狭いベッドの上で、蝋燭のか細い明かりに照らされてなお寒そうな少女を相手にするようなことでは、絶対にない。



「……それから、何をするの?」


 少女の声に、困惑以外の感情が初めて乗った。興味か関心か、そんなものが窺える。


「それで、目が覚めて隣にいたら——こうやって」


 蝋燭の炎がやけに明るく少女を照らし、意識は一層ぼんやり霞む。

 色の失せた薄暗い部屋。ここはどこなのか、この少女は何者なのか、自分は誰なのかすら、白い雪にまかれたように曖昧になる。

 ただ、こちらを見つめる瞳にだけは色があった。誘われるように手を伸ばす。

 割れる寸前のガラスのような張り詰めた色。その奥にある感情を読み取って、そうだな、と心で頷く。


(こんな場所じゃ、眠るにはさみしそうだな)


 伸ばした手が頬に触れた。

 歪んだ輪郭を辿るように撫で、顔を寄せる。触れ合った唇に温度はない。それはそうだろう。こんなに暗い、寒い場所では。


「こうやって、また眠るまで抱きしめておく」


 しんと冷えた少女の体が、その瞬間に熱を持った。

 ジジっと音を立て、蝋燭の火が消える。


 閉じていたはずのカーテンが風をはらんでぶわっと膨らんだのを視界の端で見たのと同時に、レオの体は広い窓から引き摺り出された。

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