6 幽世

 眠る前の一瞬のような落下感の後に、レオは穴の底に落ち込んだ。


 霧のような何かが薄くたなびく、薄ぼんやりした白い、幕の内側のような世界。風の音がないとこんなにも世界は静かだ。穴の底——幽世かくりよにくるとそう実感する。


 ひんやりとしているような、生ぬるいような、不可思議な温度に浸されていると境界を見失いそうになる。努めて意識を現実に戻し、視線を横に滑らせて傍らに立つ男の様子を窺う。緊張感のない表情はそのままだが、きょろりと周囲を見渡した目には新しい色が浮かんでいた。呆れたことに好奇心だ。


 白い世界には果てがない。ただ、視認できる限界点と思える場所に、薄く道のようなものが見える。


「なんか広いですね? 訓練で来たのはもっと狭かったですよ。十歩歩いたら亡霊がいた」

「軍用墓地のだろ? 予科を連れて行くのは大体あそこだ。できかけの穴は探知者サーチャーが無理に広げるから、狭いんだよ」


 穴は神出鬼没に出現するが、墓地や戦場跡など、できかけが頻出する場所柄というのはある。人が落ちるほど大きな穴であることは滅多にないが、放っておいて拡大すると厄介なことになるため、討伐隊はあえて穴を〝開いて〟乗り込み、穴底に亡霊がいれば討伐する。


 討伐隊の主な任務は、自然に開く穴を探す巡回任務と、できかけを潰す監視任務の二種類だ。危険度は前者の方が高いが、実際に亡霊に遭遇する確率が高いのは後者の方なので、隊員は交互に任務を行うことが多い。とはいえ、ほとんどの新人が監視任務で亡霊と穴に慣れるところから始めることを思えば、エリアムは巡回での実戦に足りうると期待されているのだろう。狩猟者ハンターとしては、の条件付きではあるが。


 その場に佇んだまま、道の先を目を凝らして見つめるレオに、エリアムは不思議そうな声を出した。


「行かないんですか? なんかありそうですけど」

「こういうだだっ広い幽世かくりよでは無闇に動かない方がいい。そのうち案内役が——」


 振り返って説明しようとした途端、顔の右側を何かが横切った。

 背後でパン、と膨らんだ袋が弾けるような音がして、今度は左側を鈍く光る何かが通り抜ける。追いかけた視線の先でエリアムの手中に収まったそれは戦鎚——つまるところ、ハンマーだった。


 槌頭の大きさは大人の頭蓋くらいで、形状は直方体に柄がついている単純なものだ。戦鎚にしては柄が短く——なぜか全体がぼんやりと赤く、焼いた鉄のように光っている。


(……こいつの得物はハンマーか。雑な感じが形状によく出てるな)


 討伐者ハンターの得物の形や性質はそれぞれだ。


 幽世かくりよに落ちると、討伐者ハンターはまるで元から持っていたかのように、自分だけの武器を手にしている。出し入れは自在ではなく、外に出るまで持ったままで、その点は通常の武器に近い。形状も好きに変化させられるというわけではなく「勝手にそういう形で出てくる」質のものだとジーンは言っていた。つまり本人の性格を表しているのだろう。


 幽世かくりよ の——言ってみれば亡霊の力を探知し、操作するのが探知者サーチャーだとすれば、狩猟者ハンターはそれを打ち砕く者だ。


 討伐資質を問う『選別』は、帰還者の血の結晶に触れさせることで行う。結晶の形状を変化させた者には探知者サーチャーの、破壊した者には討伐者ハンターの資質があると見なされる。それくらい、両者の性質は反対だ。


 故に、通常は亡霊にしか効果がないはずの狩猟者ハンターの武器は、幽世かくりよ においては亡霊に近い特性を得るらしい探知者サーチャーに対しても有効である。


 ——つまり、ハンマーを顔面すれすれにぶん投げられた今の状態は、とても危なかった。


「……お前は俺を殺す気か⁉︎」

「だって先輩の後ろになんかいたんですよ。だからつい反射的に」

「俺が死んだらてめぇも外に戻れないからな⁉︎ わかってんのかクソボケ野郎!」


 探知者サーチャーの役割は三つある。

 穴を探知すること。操作すること。そして最も重要な三つ目は、帰還するための『扉』を作ることだ。


 穴は人を飲み込むとすぐ閉じる。閉じる前に場所を記憶し対応付けマッピングして、帰還する際の道と扉を作る。説明すると理屈っぽいが、「あっちが出口だ」とわかるという感覚的なもので、おそらくは本能に近い。だが、人の本能が機能して道を記憶していられるのは、平均して二時間程度。討伐隊員は、その制限時間内に亡霊を討伐して帰還しなければならない。そうしなければ穴に飲まれ、亡霊に取り込まれる。


「わかってますよ。大丈夫、これブーメランみたいに投げても僕の所に戻ってくるんですよ。便利でしょ」

「まぁ飛び道具としても使えるのは便利だが……赤く光ってるのはなんでだ?」

「なんか最初に出した時からこうなんですよね。触ってみます?」


 返事を待たずに頭の部分を手の甲に押し付けてくる。ジュッと音がした気がしたのと同時に、鋭い痛みにも似た熱がやってきた。


「うぁっつ‼︎ なんだこれ焼きごてかよ、拷問器具みたいな武器だな⁉︎」

「あ、やっぱ熱いんですね先輩が触っても。探知者サーチャーの人、みんなそう言ってました」

「だったら触らせんな、火傷すんだろうが!」

「柄のとこでも熱いですか?」

「あっつ! だから触らせんな痛えだろ!」


 引いた腕を捉えてまで触らせてきたので、足を蹴り飛ばして距離を取った。

 患部を見ると若干赤くひりついている。エリアムがしているように握り込めば完全に火傷するだろう。


「まるで熱したフライパンだな。当たってたらどうなったと思って——」


 そこではたと思い出す。これが当たった『何か』があったはずだ。

 そしてそれはおそらくは〝案内役〟と呼ばれる、亡霊の元へ人間を誘うものであったろうことにも思い当たる。


 周囲を見れば、ゆらゆらと揺れる煙のような複数の影が生まれていた。ゆったりして見えるくせに素早い動きでレオとエリアムを囲もうとしている。


「——あぁやっぱりだ、来やがった。ここの亡霊は相当でかいな」

「わぁ、なんですかあれ。もやもやがたくさん来た。気持ち悪いな」

「こういう広い穴を掘ってる亡霊は、自分の元へ人間を追い立てるために〝案内役〟を寄越すんだよ。大人しく着いていけば本体の所まで行けたのにお前が潰すから、数で押し切ろうとしてきやがった」

「気が短い亡霊なんですね、先輩みたいに」

「うるせぇ殺すぞ!」

「ほらすぐ怒る」


 円を描くように囲まれるが、一方向だけに薄く抜けがある。やはり道のある方角だ。


(誘ってやがるな。生意気に)


 あの先に、亡霊がいる。


「そこ、抜けるぞ」

「こいつら気持ち悪いんで、全部倒したいですけど」

「切りが無い。雑魚を倒してタイムリミットより、本体をぶちのめしたいだろ」


 唆すように言ってみると、レオの意を察したように口角を持ち上げる。


「……手柄にもなるし?」

「そういうことだ。先に行け、相棒ハンター

「なんか調子いいなぁ」


 言葉の割に声は明るい。

 ハンマーを担ぎ上げたエリアムは、躊躇なく影の中に突っ込んだ。

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