第9話

 川原が露骨に顔を逸らすことに気付いたのは今朝のことだった。

 少し前までは、もう別れているにも拘らず、意味ありげな視線を敏彦に向けたり、思わせぶりなメモを机の上に置いてきたりしていたのだが。

 そういえば一週間ほど前には既に元気がないと言っていた――というか、アピールをしていた。何度も眠れなくて、と聞こえるように連呼されるのは鬱陶しかったが、実際、演技ではないようだった。傍目に見ても顔色が悪く、いつもはまっすぐ伸びた背中が芯を抜いたように丸まっていたので、敏彦は彼女の机の上にビタミン剤をひと瓶置いておいた。こんなことをしているのを見られたら、まだ川原に気持ちがあるのかと勘違いされそうだ。しかし、敏彦は彼女の色々な意味で「強い」本質を知っているがゆえに単純に心配だったのだ。

 あの時の川原はどうだっただろうか、と思い返してみる。

 ビタミン剤を置いたのが敏彦だと分かるとは思えない。分かったとしても、彼女は特に何も言ってこなかったのだから同じことだ。

 まだ気持ちがあるなどと思われたら迷惑ではある。これが川原でなければ「勘違いするな」などと周囲が諫めるのだろうが、川原はよく同僚から言い寄られている。説得力があるのだ。松野塾長の息子である、松野拓郎なんてあからさまだ。なにかあればきららちゃん、きららちゃん、と下の名前を呼んでは寄っていき、他の女性と全く扱いが違う。プライベートな食事や遊びに公然と誘っているのも何度も目にした。周囲も、当の川原でさえ冷ややかな目で見ていたというのに、哀れだった。しかしいずれにせよ、川原に別れを告げてから誤解されるような行動はとっていないつもりだ。

 意図がなくとも誤解されることなど沢山あるのも残念ながら事実だ。敏彦はそのことを他の誰よりも知っていた。

 今まさに、川原は敏彦を避け、不自然なまでに迂回しているのだが、気にしても仕方がない。時間が解決するのを待とう、と決めたときだった。

「ちょっと、川原ちゃん」

 耳障りなまでの高い声。また別の事務員、大谷だ。

 大谷は遠目から見ると小山のように太った女だ。顔も醜い。これで仕事ができるとか、心が優しいとかであれば評価も違っただろうが、彼女はどちらでもない、と敏彦は思っている。

 なんでもない他人の発言から勝手に悪意を読み取り、すぐに騒ぎ立てる。口癖は「女性は抑圧されている」だが、彼女自身が同僚の女性を抑圧していることに関しては無自覚だ。たまに、休憩室から「あなた、人としておかしいよ!」という金切り声が聞こえてくるが、それは大谷が誰かしらを注意している合図だ。翠も以前、「人としておかしいよ」攻撃をされたらしい。廊下で楽しそうに話していた生徒――その二人はカップルだった――彼らにも「人としておかしいよ」攻撃をしたところで、大谷は生徒とは一切接触禁止になった。大谷は松野塾長の知り合いの娘で、ここでは古株だ。松野拓郎や大谷のような、どう考えても他人のパフォーマンスを削いでいる人間でもクビにならない松野塾はどうかと思うが、こんな場所だからこそ自分のような異常者でも働けるのだ、と敏彦はある意味感謝している。

 大谷は川原の前に立ちふさがって、川原を睨みつけている。

「なんですか、大谷さん、そこ、通りたいんですけど」

 川原の口調はいつになく刺々しかった。大谷に失礼なことを言われたり不機嫌を振りまかれても、川原は常に朗らかに返していた。そういうこともあって大谷も川原だけにはさほど攻撃的ではなかったのだが。

「なに、その言い方。邪魔だっていうこと? 人の体型のことで悪口を言うのは一番やってはいけないことよ」

 どこからともなくふう、という溜息が聞こえる。これは、また始まったよ、という呆れた溜息だ。松野拓郎は自分のデスクで書類仕事に集中しているフリをしている。こういうときに間に入って庇うほどの気概がある男ではないのだ。つくづく情けない男だ。

「そんなこと言ってませんけど。とにかく、なんですか? 早く言ってください」

 川原はぎらぎらとした目で負けじと大谷を睨みつけている。普段の明るい彼女からは考えられない表情だった。

 大谷はますますヒステリックに叫ぶ。

「私たちは子供と接する仕事なんだから、子供たちにお手本を見せなくてはいけないのよ? そんな意図ありませんでした、じゃ通用しないの」

 川原が全く顔色を変えないのを見て、大谷はまあいいわ、と言葉を切った。

「とにかくね、川原ちゃん。あなた、片山さんに嫌がらせしているでしょう」

 はぁ? と口から出そうになって慌てて呑み込む。大谷は目ざとく川原が敏彦のことを避けているのを見ていたのだろう。しかし、それを即座に「嫌がらせ」と断じるのは驚きだ。揉めた、と考えるのが妥当だろうし、そもそも大人なのだから、いちいちこの程度のことには構わないのが普通だ。

「しっかり見てるんだから。あのねえ、大人でしょう? 合わない人がいても我慢して付き合うのが普通でしょう。片山さんだって困ってるわよ。前から思っていたけど、ここは好みの男の人を探しに来る場所じゃないの。きちんと仕事しようよ。あなた、人としておかしいわよ」

 大谷は言いたいことを言って満足したのか、口元に笑みを浮かべている。そして、きちんと言っておいたからね、とでも言うかのように敏彦に向かって目配せをした。

 さすがに何か表明すべきかもしれない、そう思って口を開こうとしたときだった。

「うるせえよ」

 一瞬、誰の口から出た声なのか分からなかった。それほどまでに低い声だった。いつも他の同僚たちは大谷のヒステリーが始まるとなんとか別の話をして気を紛らわせようとするが、それも静まり返る。

 川原はゆっくりと顔を上げた。

「逆に聞くけどさあ、大谷さん、あんた自分がどうしてそんな不満だらけか分かる?」

「は? どういうこと?」

 川原の豹変ぶりに明らかに大谷は動揺していた。

「どういうこと、じゃねえよ。毎日毎日毎日誰かしらに文句つけて、キレ散らかして、何がどういうこと、だよ」

 川原は頭をぐしゃぐしゃと掻きむしる。髪を留めていたバレッタがはじけ飛んで、栗色の髪が思い思いの方向に跳ねている。口に入った毛束を気にすることもなく、川原は大谷に詰め寄った。

「あんたさあ、いつも言ってるよね。差別だとか、抑圧されてるだとか」

 川原は乾いた声で言った。

「鏡見えないの?」

 青ざめていた大谷の顔が怒りと羞恥で赤く染まる。

「川原ちゃん、それ以上言うとっ」

「それ以上言うとなんなの? 鏡が見えないからそんなに恥ずかしい存在でいられるんだよね」

 川原は大口を開けて笑っていた。涙さえ流していた。そのままぐるぐるとよろめきながら大谷の周りを歩いている。

「教えてあげるよ。あんたが不満だらけなのはね、ブスでバカだからだよ。ブスでバカは誰にも大事にされないから。不満を溜めるのも当然。だけど自業自得だから。何が差別だよ。お前が嫌われてるだけだろ。何が抑圧だよ。お前の存在が他人を抑圧してるんだよ。世間のせいにしてんじゃねえよ。ブスもバカも自己責任だろ。男に媚びて社会に迎合してる? バッカじゃねえの、さすがバカだな、お前以外の人間は男も女も大なり小なり我慢してんだよ。社会とか関係ないんだよ、バカ。お前みたいなのが偉そうにしてるの苛つくんだよ。死ねよブス」

 川原は一気に言うと、また黙ってしまう。目線だけは大谷に向けたまま、なおもぐるぐると歩き回った。

 何かにとり憑かれたように口角から泡を飛ばし大笑いする川原を見て、大谷はすっかり怯え切っている。大谷だけではない。その場にいた全員が川原を恐れ、動けなかった。敏彦を除いては。

 敏彦だけは、川原に近付いた。

 大谷の行動が目に余るのは事実だ。川原の暴言の中には正直頷ける部分もあった。

 しかし、相手が嫌な人間であれ、暴言を吐いたらその時点で加害者になってしまう。川原を加害者にしたのは大谷だけのせいではない。この場所にいる全員に責任がある。

 恐らく川原はずっと我慢をしてきたのだろう。彼女のしつこい本性にうんざりして別れてしまったわけではあるが、彼女が頑張って良く見せようとしていた外面の部分――誰にでも優しい女――これだって彼女のパーソナリティの一部ではある。打算的に優しく振舞っていたのだとしても、他人が優しいと感じれば、その人間は優しい人間なのだ。優しい人間であろうとする努力を敏彦は素直に称賛していた。何かのきっかけで、我慢が暴発してしまったのだ。そして、敏彦はそのきっかけが自分にあるような気がしてならなかった。

 敏彦はぐるぐると歩き回っている川原の肩に手をかけようとした。その寸前で川原が振り向いた。

 ヒッ、と口から悲鳴が漏れる。川原の首は支えを失ったかのようにがくりと右に倒れた。川原は息がかかるような位置まで顔を近付けてくる。

「と、敏彦さん」

 川原は目を見開いて、

「敏彦さん! ごめんなさい、あなたのことは好きでした! やさしくてきれいできれいできれいできれいできれいで! あ、あなた、あなたあなたあなた、は、何も! 何も悪くないんです! でも、でも、もう」

 びしゃびしゃという水音がした。床に茶色いものが広がる。

 吐いてる! と大谷が金切り声を上げた。

 身を引こうとすると、何かに足を取られて前につんのめる。川原が嘔吐しながら敏彦の膝にすがりついている。

「べったりくっついてて、もうダメです」

 川原は糸の切れた傀儡のようにばたりと倒れた。嘔吐物が跳ねて、敏彦のスラックスを汚した。しかしそんなことは気にならない。

「救急車呼びます!」

 鋭く叫んだのは恐らく佐山だ。その声を皮切りに、にわかに辺りが騒々しくなる。何事かと覗きに来た生徒たちを教室に押し込めようと、走って行く者もいる。

「私、何もしてないわよ!」

 喚く大谷の声に耳を傾ける者はいない。嘔吐物の中に倒れ込んだ川原と、その横に呆然と立ち尽くす敏彦を、ある者はちらちらと、またあるものは遠慮なく凝視していた。

 担架を持った救急隊員に声をかけられるまで、敏彦はその場を動かなかった。動けなかった、と言う方が正しいだろう。敏彦はずっと、川原が残した言葉について考えていた。

 べったりくっついてて、もうダメです。

 今悩まされているストーカーの件と結びつけてしまう。

 しかし、同僚の中で比較的仲の良い翠や佐山にも教えていないのだから、川原がこのことについて知るはずもない。

 敏彦は騒ぎがある程度収まってから、ちょっと休ませてください、と言ってトイレの個室に入った。

 いったん頭を冷やしてみると、自分が宏奈のような状態になっていることに気付く。

 つまり、主観的で断片的な情報を繋ぎ合わせて結論を出そうとしてしまっている。

 敏彦がストーカーに遭っていることと、川原が我慢の限界に達しておかしくなったことの因果関係は証明できない。証明できないことは、因果関係がない、と考えるのが一般的だ。

 もし合理的に考えるとしたら、川原こそが敏彦のストーカーで、だからこそストーキングのことも(自らの犯行であるため)知っていて、「もうダメです」は自分の心情吐露だと受け取ることもできるかもしれない。

 しかし、この件が人間以外の何かによって引き起こされているという考えをどうしても捨てきれない。川原の言う「べったりくっついてて」は敏彦がとり憑かれている状態を指していたのではないだろうか、とどうしても考えてしまう。

 防犯カメラに入っていた、硬いもの同士がぶつかるような音。宏奈が見たという、背の高い異形の女が歯を鳴らす音。敏彦も美鈴の家を訪問した時、妙な音を聞いた。同行した佐山にも、美鈴の母親にも聞こえていなかったようだが。

 基本的には、手紙や生理用品が実在することからも、生きている人間が行っている嫌がらせである、と敏彦は考えている。いるのだが。

 まずは現実的で科学的な線から当たろうなどと先延ばしにしていた自分を恥じた。同時並行でやらなくてはいけなかったのだから。なにが現実的だ、と自分を責めた。現実にそういう、科学的な実証のできない、不可解でどうしようもないことがあることくらい何度も経験したことだというのに。そして、そういった類のことは、放置しているとあっという間に取り返しのつかないことになるのに。

 敏彦はスマートフォンを取り出して、心当たりに電話を掛けた。

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