第8話

 彼は最近、元気がない気がする。

 彼が一番悩んでいた、クソガキを消してあげたのに、これ以上何が不安だって言うんだろう。クソガキの家に行ってわかったでしょう? 安心して。もうあなたに会うことはない。

 クソガキのことはちょっとだけ可哀想になった。あんな母親がいるなんて。

 だからもうどうでもいい。不幸な子供のことなんて忘れて、私ときちんと向き合ってほしい。

 一緒に食事をしたとき聞いてみたけど、あの子供の話しかしなかった。

 もしかして。

 もしかして、本当に、あのクソガキのことが好きなの?

 そんなの変だよ。ありえない。

 あんなどうしようもないクソガキ、家族からも愛されていないバカガキ、彼に愛される資格なんてあるわけない。

 腹が立つ。腹が立つ。許せない。許せない。許せない許せない許せない許せない。

 私が甘かった。

 クソガキを彼の視界から消してあげるなんて、そんなの意味がなかったんだ。

 彼の目を覚まさせてあげないといけなかったんだ。

 ママも言ってた。結局、男なんて、若い方に行くんだって。だから女は若くて可愛くしてなきゃいけないんだって。たとえ、本当は違っていても。

 でも――本当にそうなのかな。

 彼は本当にそんな男かな。

 いつもの彼を思い出す。

 ちょっと変わっているけど。びっくりするくらい、綺麗だけど。彼は誰にでも、同じ態度じゃなかったかなあ。

 事務員の、信じられないくらいブスで太ってる大谷さんにも、アイドルみたいに可愛い川原さんにも、他の男たちと違って、彼は同じように接していた。私は彼のそういうところも好きなんだ。

「ハハハハハッ」

 ママが笑った。

「なに……?」

 ママがこういうふうに笑うときは、お酒を飲みすぎていて、機嫌の悪いときだ。私はおそるおそる聞いてみる。

「あんた、バッカじゃないの」

 ママはテーブルに片足を載せて、椅子をぎこぎこと漕いだ。

「簡単に騙されちゃってさ、本当に頭が悪い。学ばない。そんなわけないでしょ」

 カラン、と乾いた音がする。

 空になったグラスに、丸い氷だけが残っている。私はママに早く眠ってほしくて、グラスになみなみとお酒を注ぐ。ママはそれを一瞬で飲み干して、また大声で笑った。

「あんたバカだから教えてやるけどさ、あんたは若くも可愛くもないし、そもそもそれ以前の問題だってば」

 うるさい!

 うるさい!

 うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。

 そんなこと分かってる。

「あんただって分かってるでしょ?」

 うるさい。

 私はお酒の瓶を横に倒す。瓶は壊れなかった。それを見て、ママが馬鹿にしたように鼻で笑う。

 ママは立ち上がって、私の肩に手を回した。体が強張る。予想に反して、ママは私を抱きしめて、優しい声で言った。

「だからさあ、私の言う通りにすればいいんだって」

 ママは細くて骨ばった指で、私の頭を握るように撫でた。

「いつも私は■■ちゃんの味方だってば」

 そうだよね。そう。

 私は■■ちゃん。ママの■■ちゃん。

 ママは間違えない。

 ママは私を強く抱きしめる。

 私はそのまま、ベッドに雪崩れ込んだ。

 彼に分からせなくてはいけない。

 私を愛さなくてはいけないと分からせなくてはいけない。

 遠回しに言ったって彼には、男には、伝わるはずがない。

 もっときちんと分からせなくてはいけない。

 そしたら、彼は私のもとに帰ってくる。

 分からせなくてはいけない。

 でも、それは明日からにしよう。

 頭がゆらゆらと揺れる。

 眠い。

 眠い。

 眠い。

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