第5話
職員室に通じる長い廊下で他の事務員と連れ立って歩く川原きららを見かけて、敏彦は立ち止まり、壁の陰に隠れた。
川原は昨年度の夏頃に入ってきた事務員で、元々は女優を目指して劇団に所属していたらしいが、なかなか芽が出ず、二十歳で見切りをつけて事務員になったという。かわいらしい容姿だけでなく、小柄ながらよく通る声と、力仕事でも積極的にやろうとするバイタリティで、男女問わず人気者だった。
「ちょっとお腹痛いからトイレ行くね」
「わかった」
「ごめんね、二日目でさ」
立ち聞きするつもりはなかったのに聞こえてしまう赤裸々な情報で、敏彦は気分が悪くなった。どうしても、家の玄関に張り付いていた不気味な生理用品がちらつく。
敏彦は一日たった今でも臭いさえ鮮明に思い出せる。少しでも気を抜くと吐いてしまいそうだが、ただでさえ長く休んでしまったのに、これ以上迷惑はかけられない。それに、川原を見ると不愉快になるのは、なにも生理のことだけが原因ではない。
敏彦は川原と一時的に付き合っていた。告白は川原からだった。川原は翠含む他の女性陣のように敏彦に対して特別な態度を取らなかった。そういうところを好ましく感じていたので、敏彦は告白を受け入れた。結果的には間違いだった。一度寝てから、彼女は本性を現した。
川原は独占欲の強い女だった。とにかく敏彦の全てを管理しようとしたし、敏彦にも同じことを望んでいるようだった。無理やり作らされたインスタアカウントで、彼女は敏彦と付き合う前から、敏彦と付き合っているような写真をいくつも投稿していたことに気付いた。なんとか言いくるめてインスタアカウントは消し、敏彦と特定されそうな画像もすべて消してもらったのだが、その頃には川原のリスのような愛くるしい容姿も、意地汚いネズミのように見えるようになった。敏彦は川原の自分に強い執着のなさそうな部分を好ましく思っていたのだから、そうではなかった場合好意もなくなる。
別れるのにも随分難儀した。川原はカンが良く、別れ話をしようとするととにかく避ける。仕方なくメッセージアプリに「好きな人が出来ました。別れよう」とだけ書いて一方的にブロックした。その後、妊娠した女を捨てたという根も葉もない噂が流されたが、一瞬で消えた。「敏彦ほどの美貌があれば人間性が最悪でも仕方ない」というような結論が出たようだ、とその噂を教えてきた翠は言った。そういった情報を吹き込んでくる翠のこともまた不快に思ったのだが――いずれにせよ、川原と鉢合わせしたくはない。
川原のことを思い出しているうちに、敏彦の頭にまた新しい疑念が浮かんできた。
川原は「生理二日目」だと言った。
合致してしまう。
敏彦に何通も手紙を送り付け、生理用品を玄関ドアに張り付けたのは、川原かもしれない。
ドアの軋む音がして、敏彦は体を強張らせた。続いてパタパタと足音がして、消える。ちらりと覗くと川原の後ろ姿が見えた。
――今がチャンスかもしれない。
幸い、人の気配はない。今なら、女子トイレに入って、汚物入れを漁っても誰も見ていない。
敏彦が一歩踏み出した時だった。
「片山先生」
思わず悲鳴を上げそうになってなんとか呑み込む。背後に佐山が立っていた。
佐山は驚く敏彦を見て、申し訳なさそうに目線を床に落とした。
「ごめんなさい、急に声をかけてしまって……」
「いや、大丈夫……」
むしろありがとうと言いたいくらいだった。佐山がいなければ敏彦は確実に女子トイレに侵入し、汚物入れの中身を全て持ち帰っていたところだろう。敏彦はその行為自体に罪悪感は感じていない。いやらしい目的ではないのだから。しかし、先ほど「人の気配はない」と思い込んでいたのだ。相手が探偵や刑事ならまだしも、気配を消すつもりのない佐山のような一般人にも気付かなかった。そもそも、佐山だけでなく誰が来るかもわからないし、バレたときの良い言い訳を考え付いたわけでもないのに、こんなことをしようとするなんてまるで冷静ではない。確実にバレる。罪悪感はないが、さすがに「敏彦ほどの美形なら仕方がない」という範疇を超えた行為であるということは自覚がある。社会的責任を取らされることは間違いないだろう。
「ええと、なんか用?」
敏彦は内心を取り繕うように早口で尋ねた。
「いや、用はなくて……ただお見かけしたので、声をかけてしまっただけなんですけど……ごめんなさい、キモいですよね」
「全然キモくないよ」
佐山は敏彦ほど美形ではないが、恐らく誰が見ても好感を持つ容姿をしている。それに、笑顔が可愛い。彼の人柄を反映しているようだ。話も上手い。話し上手と言うよりは聞き上手なのかもしれないが、誰も傷付けず、彼と話すと癒される。だから常に彼の周りには人が集まるのだろう。無駄なトラブルばかり引き寄せる敏彦とは大違いだ。そんな『誰からも好かれる』彼は時折自身を卑下し、ほんの少し薄暗い目をする。
佐山はほとんど身の上話などはしないが、以前二人で飲んだ時にぽつりと、
「昔ちょっといじめられてたんですよね」
と言った。
佐山をいじめる人間がいること自体が信じがたいが、世の中には人気者を憎む層というのも存在する。そして、何年も前のことだろうに未だに苦しんでいる彼のことを哀れに思った。
全然キモくないよ、という敏彦の言葉を受けて、佐山はあからさまに喜んでいる。こういう分かりやすく表情が変化するところなどもかわいらしいと敏彦は思う。
「じゃあ、行こうか」
佐山と連れ立って歩きながら、敏彦はぐるぐると考えた。
敏彦を苦しめる相手が怪異なのか人間なのか、やはりまだ分からない。
手紙やら、生理用品やらは怪異とは思えない。肉体を持つ者にしかできない嫌がらせだ。しかし、歩道橋の事件や宏奈の話などは人間ではないものの仕業のように思える。ひょっとすると、勝手に結び付けているだけで、全部単独で起こっていることかもしれない。分かっているのは女性の仕業であるということだけだ。
ふと鼻腔を鉄錆のような臭いが掠めた。思わず眉を顰めると、佐山が立ち止まって大丈夫ですか、と尋ねてくる。幻聴ならぬ幻臭だ。頭が犯人(人ではないかもしれない)に支配されてしまっている。もう自分一人では答えが出せそうになかった。
先ほどの自分の行動をもう一度脳内で反芻して、敏彦はふと気づいた。
どうして自分が「汚物入れの中身を持ち帰る」などという発想に至ったか。それは、汚物入れの中に、玄関ドアに張られていたものと同じ生理用品が紛れ込んでいるかどうか調べようと思ったからだ。
あのときははっきりとそう考えていたわけではないが、言語化するならばそうだ。
そういう科学的アプローチが得意な男を敏彦は知っている。
それとやはり、超科学的アプローチも視野に入れるべきだ。幸いなことにそのツテも持っている。
「なんでもないよ」
佐山に短く返事をしてから、敏彦は大きく深呼吸した。トイレの芳香剤の匂いしかしなかった。
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