第4話
敏彦の入院中、刑事が話を聞きに来た。敏彦は正確に起こったことを話したつもりだった。おそらく、美鈴のところにも同じように話を聞きに行ったと思う。敏彦は被害届を提出し、退院した。しかし。
全く納得がいかないのは、手紙の主と事故の原因になった人物が同一人物で、身の危険を感じるから捜査してくれ、という訴えがまるきり無視されてしまったことだった。
わけを聞くと、美鈴と敏彦の証言から、「何者かに突き落とされそうになった美鈴を庇った敏彦が転落した」ということに嘘はなさそうだが、当日の歩道橋近くに設置された防犯カメラの映像には何も映っていなかったというのだ。カメラの死角はあったものの、人が立てるスペースなどはなく、あの場所に美鈴と敏彦以外の第三者がいたとは考えにくいそうだ。ただ、雨天であったため、防犯カメラの映像が不鮮明だったことも考慮して、一応は捜査を続けているという状況らしい。
敏彦は退院後改めて証拠の手紙を持って警察に行った。その目的の一つは、カメラの映像をしっかりと自分の目で確かめるためだ。確かに、刑事の言った通り、何も映ってはいなかった。さらに、あの歩道橋は、周辺に幼稚園や小中学校、学習塾などがあり、子供たちが頻繁に通行するため、防犯カメラは音声まで入る高性能のものだ。しかし、かなりヒステリックに叫んでいた美鈴の声さえ聞こえなかった。何故か硬いものと硬いものがぶつかる音が大音量で流れていて、その他の音声がかき消されていたのだ。雨足はかなり強かったので、それのせいではないかと刑事は話した。
もう一つの目的、つまりストーカーへの対応に本腰を入れて取り組んでほしいという訴えをするという目的だが、生活安全課の対応は全く芳しくなかった。手紙の内容は確かに脅迫ともとれるが、現在特に何かが起こっているというわけではないため、何もできないという。
「おかしいじゃないですか。ケガしてるんですよ。一緒にいたっていうだけで、生徒まで狙われてるんです」
生活安全課の若い男性警察官は取り繕ったような笑顔で、
「ですからね、片山さん。転落事件とストーカーに関連があるとは現時点では言えないんです。申し訳ないですけど。それに、手紙だって、妄想を書いていますけど、直接的に迫ったりはしてきてないわけでしょう」
「それは僕が婚姻届不受理申出書を区役所に提出しているからですよ」
「ははあ、慣れていらっしゃいますねえ」
突然、年配の警察官が敏彦の目の前にどっかと腰かけた。確か、亀村という名前だ。
「それはどういう意味ですか」
敏彦が睨みつけると、冷たい印象の造形がより険しく見えて、大抵の人間は竦みあがる。若い警察官も目を逸らしているが、亀村はにやにやとした表情を崩さずに続けた。
「どうもこうもそのままの意味ですよ。片山さん、あなた、以前にも何回か警察に相談していらっしゃいますよね」
「それは……そうですね、全て別件ですが」
「だから、慣れていらっしゃるんだと言っただけです。これまでのことでも、説明されませんでしたか? 我々は何も起こっていないうちは動けないんですよ」
「だから、何も起こってなくはないと言っているんです。見てください、この手紙」
敏彦は『何するか分からないよ』と書かれた手紙を机の上に広げた。
「これが届いてすぐ、こういうふうになったんです。死ぬところだったんですよ。今すぐに捕まえてくれとか言ってるわけじゃないんです。もう少し危機感を持ってください」
「情熱的なお手紙を貰っただけでは無理でしょうねえ」
亀村は足を組み替えた。
「ま、パトロールは強化しますよ。これでご満足いただけるでしょうか」
「あの……」
あまりにもひどい態度に敏彦が次の言葉を探していると、亀村は鼻をフンと鳴らした。
「片山さん、本当に何度も何度も同じような被害に遭われているようですね。嘉納からもお名前聞いたことがありますよ」
「ええ、全て別件ですが……」
嘉納というのは、以前生活安全課にいた三十代くらいの警察官だ。何度か世話になった親切な警察官だが、今年の初めに別の部署に異動になったとは聞いている。
「全て別件でもね、あなた、結局全部被害届取り下げてるじゃないですか」
亀村は時計を睨んでいる。
「私だってこんなことは言いたくないですよ。でも、その顔でしょ? 嘉納から話は聞いていたけど、初めてお会いしたとき、びっくりしましたよ。吉田……なんだっけ。とにかく、今流行ってる、国宝とか、千年に一度の美青年とか言われてる俳優より断然かっこいいじゃない。あなたもそれくらい自覚あるでしょ? そんな顔なんだから、よっぽど気を付けないと、誰でも勘違いしちゃうでしょ」
「それは、被害者にも責任があるという理論でしょうか。失礼ですが、そのご意見は警察機関全体の意見と受け取られかねませんよ」
「弁護士みたいなこと言うんですね、片山さん。ああ、随分いい大学出ていらっしゃいますもんね」
若い刑事がちょっと、亀村さん、などと言って諫めているが、亀村は全く気にすることなく話し続けた。
「責任はないですよ。すべての被害者に責任なんてない。悪いのはもちろん、100%加害者だ。でも、原因はある。事件が起こった原因がね」
亀村は敏彦を真正面から指さした。
「あなたの場合、その顔ですよ。臭いとかダサいとかじゃないから治せるもんでもないでしょうし、ひどいこと言ってるのは分かりますけど」
「もういいです」
敏彦は立ち上がった。ここでこの失礼な男と話していても、不快になるだけで時間の無駄だ。
「おや、ご納得いただけましたか」
「ええ。告訴状を出しますよ」
亀村の顔がわずかに曇る。
告訴状は被害届とは異なる、捜査機関に対して加害者に明確な処罰を求めるものだ。あまり知られていないことだが、被害届とは文字通り犯罪の被害を報告するものであって、そこに処罰を求める意思表示は含まれていないし、実は受理をしても捜査機関には捜査をする義務はない。一方、告訴状を受理すると当該機関には捜査の義務が発生することになる。
一見被害者側にはメリットしかないように見える告訴状だが、被害届よりずっと詳細に書類を作成しなくてはならないし、いざ受理されたら、その件の裁判含め諸々全てに最後まで付き合わなくてはいけない、というデメリットも存在する。
いずれにせよ、捜査機関側からすると「告訴状」は面倒なこと、という認識は少なからずあり、大抵の場合あまり良い顔をされない。
「ご自由に!」
亀村の捨て台詞を背後に聞きながら、敏彦は思った。ああは言ったが、告訴状は出さない。というか、出しても意味がない。今までいろいろな人間からこういった被害を受けてきたが、結局のところ、精神的苦痛を含めて受けた損害に見合った罰を加害者に与えることはできないと判断して、金銭によって和解したことしかないし、そのことに後悔はしていないつもりだ。刑事裁判はひどく長く、面倒で、体力がどこまでも削られる。
いつものように和解で済ませたい。
しかし、今回は無理そうだ。今までとは少し違うものを感じる。
手紙の女は、話の通じるような相手ではないのではないか。
たしかに、ストーカーの中には、話が全く通じないタイプの人間もいる。恋愛妄想ならまだしも、独特の価値観に基づいて付きまとい行為や嫌がらせをやめない人間は厄介だ。
しかし、そんな人間でも、時間をかけ、第三者を通して根気よく彼らの本当の望みを紐解くと解決してしまうこともある。民間で、ストーカーと被害者の間に入って調整してくれる専門家がおり、敏彦も何回か利用していた。
彼女のやり方は独特で、まず、ストーカー本人に連絡を取る。そして、本人がなぜ対象者に執着しているのかをじっくりと聞いていく。ストーカーたちが「対象者は〇〇したから許せない」「信じていたのに裏切られた」などと言っている場合は、なんと「そんなにひどいと思うのなら、民事訴訟をすればいいのです」とアドバイスをする。そして、彼女の言葉に従って弁護士などに相談して初めて、自分の言っていることがいかに筋が通っていないか思い知らされる。そこまで行った後で、彼女は、ストーカーたちに自分の気持ちと向き合わせ、対象者を攻撃するのをやめるまできちんと加害者をフォローする。そもそもほとんどの加害者が、もやもやとした気持ちを晴らす場所がほしいだけなのだという。彼女は、その「場所」になってくれているわけだ。
しかし今回のストーカーは違う。
この女は、敏彦に直接的な攻撃、例えば待ち伏せをするだとか、刃物を持って脅すだとかをしているわけではないからだ。歩道橋の件でも分かる。あの女は、美鈴を狙っていた。敏彦を傷付ける気はない。だから、もし彼女に相談しに行ったら、女は彼女と話し合いなどせず、ただ彼女に危害を加えるだけだろう。
女は確実にずっとこちらを監視している。今も視線を感じるのだ。
警察官は「防犯カメラに映っていなかった」と言った。敏彦もそれには納得している。なぜなら、あの女の動きはかなり素早かったからだ。黒髪で長身の女だったことだけは分かった。でも、それだけだ。あの女は霧のように消えてしまった。
あんなことができる人間に常に見られていると思うと、それだけで心が挫けそうだ。
警察にも期待できず、民間の業者に頼ることも難しい。
それならば、自分で解決する。
敏彦はそう決心していた。それに、解決できるような気もしている。
その根拠は、敏彦のオカルト趣味とは別の、もう一つの趣味にある。
敏彦は、数年前まで、立派なストーカーだった。
幼馴染――と言っても、隣の家に住んでいる、というだけの間柄だった女性、小宮山栄子を明確にストーキングしていた。
栄子はゆで卵に目鼻をつけたような特徴のない顔をしていたし、平凡な大学の薬学部に通っており、取り立てて魅力のある女子ではなかった。
しかし、敏彦は栄子のすべてを知りたいと思った。
元々親交の深かった栄子の兄と仲良くするふりをして、堂々と家に上がり込み、彼女の部屋に様々な道具を仕掛け、それが終わったら、道具を介して毎晩彼女の生活音を聞き、彼女と他人のすべてのやりとりを盗み見て、彼女のいないときは隙を見て彼女の部屋に侵入して、爪や体毛を集めた。大学に行っているとどうしても彼女を監視する時間が減るので、一年休学までした。
しかし敏彦は、栄子のことを恋愛対象として好きだったわけではない。もちろん、憎んでいたわけでもない。何か惹かれるものはあったのだろうが、「なぜ」彼女を対象にしたかについてはうまく答えることができない。
ただ「どうして」ストーキングしていたのか、という問いには明確に答えられる。趣味だ。
本人しか知りえない情報まで、すべてを把握するのが純粋に面白かった。
ストーキングが犯罪であることも知っていたし、敏彦は被害者だったこともあるのだから、その煩わしさ、気持ち悪さは十分に理解していた。しかし、一度始めてしまったら止めることはできなかったし、止める気もなかった。
最終的には本人にバレ、
「あんた最低、本当に気持ち悪い」
そう言われてしまった。
栄子は口は悪いが、心の広い女だった。何故かその後、ほとんど話していなかったことが嘘だったかのように顔を合わせれば世間話をするような仲になった。
しかし、そうなってしまったら、急激にどうでもよくなってしまった。
栄子に謝罪し、部屋に仕掛けた道具をすべて取り外した。結局、今では連絡も取らない。彼女と彼女の兄は失踪してしまったのだが、それがなくとも、その前から疎遠だった。
要は、知らないことを知りたいだけなのだ、と敏彦は自分で思っている。その探求心は世間的に見れば犯罪で、あってはならないことなのだが。
その後も敏彦は、別の人間に対して同じことをした。
栄子の時と同じくらいの興奮は得られなかったものの、それなりに楽しかった。やはり、相手が誰であるかというよりも、行為そのものが楽しいのだ、と敏彦は思った。
幸いにも栄子以外の対象にはバレていない。部屋に侵入するまでには至っていないからかもしれない。もっぱら敏彦はSNSで見つけた任意のアカウントから住所を割り出し、職場やよく行く場所などを訪問し、その人を特定して写真を撮る、ということを繰り返していた。
そういうわけで、敏彦は、少ない情報から当人に行きつくのが得意だ。顔が目立つため探偵稼業はできないが、捜査能力はプロと同じくらいあった。
敏彦は、この趣味を活かして、自分をストーキングしている手紙の女を特定しようと考えた。特定した後のことはまだ考えていない。今現在苦しめられている相手ではあるが、久しぶりに自分の趣味を全開にしていいと考えれば、興奮する気さえする。
一説によると、ストーカーになりやすいのは、お互いに見知った仲である人間だという。アイドルなどはその限りではないが、一目見ただけの人間を標的にするストーカーはまずいないという。
たしかに、無差別にストーキングを繰り返していた敏彦も最初は幼馴染の栄子から始めたのだ。
今まで敏彦をストーキングしてきた相手も、職場の人間や、元同級生、スポーツジムのインストラクターなど、見知った相手だった。
そう考えると、元同級生の線は薄い。敏彦は五年ほど、小中高大の全ての知り合いとは連絡を取っていない。三十になったときに送られてきた同窓会の連絡にも返信しなかった。全く連絡の取れなくなった人間のことをふと思い出して付きまとう、という可能性は薄そうだ。
ジムもやめてしまったし、趣味の集まりに参加したのも数回だ。知り合いらしい知り合いは職場にしかいないと言ってもいい。自分の人間関係を考えると、疑うべきは職場の女性ということになるだろう。というわけで、敏彦はまず、知人を中心にその動向に注意を払うことにした。
復帰後第一回の授業の後、敏彦はぐるりと教室を見渡した。
女生徒の中に怪しい人物はいなそうだ。教室にいるときだけは、あのべとつく視線を感じない。猫をかぶっているという可能性もあるので、完全にシロとは言えないが。
質問時間に、入院していたことへの心配の言葉をいくつもかけられながら敏彦は気付く。
美鈴がいない。
職員室に戻ってから確認すると、今日は欠席ということになっている。ただのサボリならいいが、美鈴は敏彦の授業には絶対に出席していたので、どうも気になる。それとも、さすがの彼女も(自分の責任ではないとはいえ)あんなことが起こってしまったため、敏彦に近付かないようにしているのだろうか。
「何か困りごと?」
背後から声をかけられて振り向くと、翠だった。鮮やかなコバルトブルーのワンピースが竹のようにほっそりとした印象の彼女にとてもマッチしている。
「うーん何でも……あー、いや……」
亀村の失礼な言葉が脳裏をよぎった。
『よっぽど気を付けないと、誰でも勘違いしちゃうでしょ』
中村美鈴がどうしているか知りたい、などと正直に言えば、敏彦のことが好きな翠は勘違いをして、美鈴に嫉妬したりしないだろうか。手紙の女ほど攻撃的な態度に出ることはないだろうが、それに近いいざこざがあっては困るし、一応は勉強をしに来ている生徒に対して申し訳が立たない。
翠のことを幼稚な人間だと思っているわけではない。しかし、敏彦は、いい歳の、地位もあって生活に余裕のある人間が、「恋愛」絡みで驚くほど馬鹿馬鹿しくみっともない行動に出てしまうことは珍しくないと知っている。それに、翠はまさに職場の女性だ。
しかし、言い淀んだ時点で「心配事がある」と告白したも同然だ、と敏彦は思いなおして、
「中村さんはどうしているのかな、と思いまして。ほら、あの事故にあったとき、一緒にいたもので……彼女、僕の授業に出なくなりましたけど、先生は?」
「中村さん? 私の授業にも出てない。でも、それは事故の前からそうだったし……片山君の授業だけには毎回出ていたから、ちょっと変よね。やっぱり事故がトラウマになっているのかなあ……ちょっと調べてみるね」
翠は敏彦より何年か長くここで働いている正社員なので、「副室長」という肩書がついている。彼女のIDで講師用ページにログインすると、より多くの生徒の情報が取得できるそうだ。翠はパソコンの画面に極端に顔を近付けて敏彦の背後から操作した。額に深い皺が寄っている。
「片山君が入院している間、彼女のお母さまが来て、こんなことにはなったけれど学習塾は続けたいですっておっしゃっていたんだけどねえ……あ、結局彼女、事故の後は授業どころか、ここに一回も来てないじゃない。これは変だね」
「うーん……」
「親御さんに連絡しましょう」
翠は画面から体を遠ざける。皺が元通りになった。メガネが合っていないのではないだろうか。
「その方がいいですかね」
「ええ。本当に体調の問題で通えないということなら、退塾じゃなくて休塾って制度もあるしね。通っていないのに月謝を払わされる親御さんが可哀想だわ」
栄子をストーキングするために大学を一年休学していたことを思い出し、羞恥心を煽られる。しかし顔にはおくびにも出さず、敏彦は答えた。
「そうですね。もし面談とかそういうことになった場合は、僕に任せてください」
「どうして?」
翠の顔がふたたび険しくなる。
「中村さんの担任はあなたじゃないし、あなたがどうして行くの?」
空調を受けて、翠の髪がぱらぱらと舞っている。染めたことすらないであろうまっすぐな黒髪。歩道橋で腕に感じた髪の毛のような感触を思い出す。
ふと目を落とすと、翠の細い薬指には、シンプルなデザインの銀色の指輪が嵌っていた。彼女は結婚していないはずだ。それどころか、ついひと月前、酔っぱらって(あるいは酔っぱらっておらず、確信犯的に)敏彦にしなだれかかり、結婚願望があるなどと話していたのだ。
翠は面倒見がよく、几帳面で、尊敬できる先輩だ。
しかし、どうしても疑ってしまう。
敏彦は一呼吸おいて、
「だから、あの事故に遭ったとき彼女がいたからですよ。もしそれが原因なら、僕がこうして元気にしているところを見せれば彼女も元気になるかもしれない」
翠はしばらく黙って険しい表情のまま敏彦を見つめていたが、やがてふっと硬い表情を解いた。
「まあ、そうかもね。実際、中村さんが一番なついていたのってあなただし……でも、彼女の担任が許可したら、だからね」
「はい」
敏彦は、内心ほっと胸を撫でおろす。変な風にこじれなくてよかった。彼女が手紙の女であったとしても、今はそれを追及するタイミングではない。
それに、この調子だとほぼ確実に美鈴に話を聞くことができるだろう。敏彦も手紙の女はちらりと見たが、美鈴は正面から見ているはずなのだ。正直、美鈴の体調を心配していると言うと嘘になる。単に、美鈴にあの女のことを聞きたいだけだった。
書類の作成が終わり帰ろうとすると、傘立ての横に女子が立っている。毛先が跳ねたポニーテール。一瞬、美鈴に見えて驚いたが、よく見ると同じ制服は着ているものの、別人だった。
牛島宏奈。美鈴とはそれなりに仲が良いようで、何回か楽しそうに話しているのを見たことがある。
宏奈は敏彦を見つけると、突き飛ばさんばかりの勢いで駆け寄ってきた。
「先生、話あんだけど」
十中八九美鈴の話だろうな、とは分かりつつも、ここで過剰に食いつくと、相手が引いてしまう恐れがある。
「質問なら質問時間内にしてほしいんだけど」
「ちげーよ、美鈴のことに決まってんでしょ」
宏奈は釣り気味の目で敏彦を睨みつけるが、すぐに落ち込んだ表情になってしまう。
「私さ、実は聞いてたんだ。美鈴、先生のこと割とマジだって言ってて、なんか、あの日、告ろうとか言ってて、止めたんだけど……」
美鈴と仲が良いわりに、まともな感覚を持っていて冷静だな、と内心敏彦は感心した。宏奈は途切れ途切れに続ける。
「正直、美鈴といるとき先生が階段から落ちたって聞いて……最初は、先生が美鈴のことウザくて突き落とそうとして、失敗して自分が落ちたのかと思った。でも、先生がそんなことするわけないし、もしそうだったら、美鈴が先生のこと庇うはずないなって思いなおして」
「なんか、信じてくれてありがとう」
「先生を信じてるっていうより、美鈴がバカすぎるんだよね」
宏奈は深くため息をついた。
「まあ、それで、美鈴に話聞こうかと思ってたんだけど、全然学校来ないわけ。あの子、授業なんか聞かないし、塾もよくサボるけど、学校は毎日来てたから」
「全然っていうのはどれくらい?」
「全然は全然。先生の事故があってから今まで、ずっと」
敏彦が入院していたのは三日ほどで、外科手術が終わってからは通院に切り替えている。職場に復帰したのが退院から大体二週間後である今日なので、美鈴はその期間ずっと学校にも行っていないということか。
「それは心配だね」
宏奈は頷く。
「だから、先生――学校の先生ね。先生にも止められたけど、一応美鈴の家まで行ったわけ。そしたらさ」
「ちょっと待って」
敏彦は辺りを見回した。今は感じない、べとつく視線など、何も。でも、きっと見つかってしまう。そうなると今度は、宏奈が狙われる可能性がある。
敏彦は冷静に言葉を選んで言った。
「ここだと、他の先生や保護者の方からあらぬ誤解を受けるかもしれない。きっと、話長くなるでしょ? 今、面談ってことにして教室を借りるから、牛島さんも親御さんに連絡して」
宏奈は真剣な表情でしばらく黙った後、自宅に短い電話をかけ、敏彦の後ろをついてきた。
*
だいたい一時半くらいだったかな。土曜の。たまたま半日授業ある日だったからさ。
ああ見えて、美鈴の家っていい家でね、お父さんがおっきい病院やってて、お母さんも医者で一緒に働いてるんだって。なんで美鈴だけあんな感じかっていうと……美鈴の上に年の離れたお兄ちゃんが二人いて、二人ともすごく優秀なんだって。美鈴は、基本放置だったらしい。だから、美鈴はバカだし、悪口言われて当然みたいなこともしてるんだけど、なんか、憎めないっていうか。ふつうにいいところもあるんだよ。ま、今はそんなこと、どうでもいいか。
とにかく、豪邸なんだよね。黒くて、上にギザギザのついてる門があってさ。母屋と、中庭と、離れがあるんだよ。うちだって別に貧乏じゃないけど、ほんと何もかも違うって感じ。
基本的に昼間は美鈴の家族は家にいないっていうのは分かってたから、会えるんじゃないかと思って。ああ、事件が起こった次の日の夜にも行ったんだけど、美鈴の母親にだいぶ嫌な顔されてさ。「娘が自分から会いに行くまで家に来るのは遠慮してください」とか、すっごい冷たい声で言われて、追い返されちゃったんだよね。だから、怖いママがいない時間帯に行けばいいかなって思ったわけで。
成功した。
ピンポン鳴らしたら、美鈴が出た。いや、正確に言うと、しばらく無言だったんだけど、なんか分かるじゃん。もし、母親とかお手伝いさんだったら、無言ってことはあり得ないし。
「美鈴、来たよ、開けて」
美鈴は声をかけても黙ってた。でも、インターフォンから呼吸音みたいなのがほんの少しだけど聞こえてきた。あと、生活音? っていうのかな。ごりごりごりって、機械が動いてるときみたいに響く大きい音がしてたから。
もう一押しだと思って、美鈴、ミスドの限定ドーナツあるよ、ってもので釣ったら、門が開いた。
玄関を開いた美鈴は、可哀想なくらい激ヤセしてた。顔が黄土色になってて、肌もボロボロ、正直、四十過ぎのおばさんに見えた。
「美鈴、どしたの」
美鈴は私の質問には答えないで、ちょいちょいと手招きした。
中に入っていいってことなんだな、と思って美鈴の後をついてった。階段上ってるときに、学校の話とか、体調の話とかしたけど、何話したかも、美鈴がなんて答えたかも覚えてない。ごりごりごり、ってでかい音がずっとしてて、全然集中できなかったから。
美鈴の部屋に着いてドアを閉めると、ごりごりごり、はちょっとだけマシになった。
「美鈴、どうして学校来ないの」
ベッドに座るのは悪いから、床に座ってそう聞くと、美鈴がいない。えっ、てなって見回すけど、やっぱり部屋のどこにもいなかった。
もしかして、私がぼうっとしてて、お茶とかお菓子とか取りに行ってくれたのに気付いていないだけかもしれない。そう思って、十分くらい待ってみたんだけど、帰ってくる様子がなかった。
「美鈴……?」
部屋のドアを開けて、おそるおそる呼んでみても、誰も答えなかった。そこで、気付いた。なんか、さっきよりごりごりごり、って音が大きくなってるの。
ドアを開けたからとかじゃない。怖いから、慌てて閉めたのに、全然小さくならなかった。
工事とかの音かな、って思いこむことにした。うちも、ここまで大きくなかったけど、水道管の工事で、かなり大きい音鳴って、テレビの音聞こえなかったこととかあるから。
「美鈴の豪邸、またでかくなんの? うける」
独り言を言った時だった。後ろで、クスクスって笑い声がした。楽しそうっていうか、なんか、こっちを馬鹿にしてる感じ。
美鈴がクローゼットとかに隠れてて、今まで私のこと観察してニヤニヤしてたんだ、って思ったらめちゃくちゃ腹立ってさ。ばっと後ろを振り返ったの。そしたら。
美鈴がベッドの上で、顔だけ出して布団にくるまってた。文句言ってやろうと思ったんだけど、表情が変なの。ちょっと前に私のこと馬鹿にしてたとは思えない。顔が真っ青で、震えてるの。そんなの、こっちまで怖くなるじゃんね。だから、怖さをごまかすために、ちょっときつめに言ったんだよね。そこにいるなら言ってよ、って。
「ど、どう……して、どう、して……」
美鈴の唇は真っ青で、震えてた。何度も聞き返さなければ、「どうして」って言ってるのかも分からないくらいだった。
「なにが、どうしてなの?」
美鈴は私を指さして、
「どうして、宏奈がいるの」
途切れ途切れにそう言った。
言ってる意味が分からなかった。だから正直に意味分からないんだけど、って言ったら、
「なんで? おかしい、なんで?」
って何度も繰り返した。さすがにちょっとムッとして、
「さっき一緒に階段上ってきたでしょ、なに、あんた認知症?」
私が言い終わるか終わらないかのうちに、美鈴がヒ――――ッって鳴いた。ほんとに、びっくりするくらい大声で。ごりごりごり、が一瞬聞こえなかったくらい。
「ちょっと、さっきからどしたの」
ごりごりごり。
「おかしいおかしいおかしいおかしい」
ごりごりごり。
「ちゃんと話して」
ごりごりごり。
「なんでなんでなんでなんで」
ごりごりごり。
「分からない」
ごりごりごり。
「鍵かけても駄目だった!」
美鈴はそう怒鳴ってから、今度は号泣し始めた。人が本気で泣いてるのなんて初めて見た。っていうか、おかしくなった? そんな感じだった。悲しいとかそういう感じじゃなかった。で、やっぱりどんどん大きくなってくんだよね、ごりごりごり、って音が。
工事の音だって、冷静なときはそう思えてたけど、美鈴のおかしい空気に呑まれて、もう無理だった。正直、美鈴のことなんてどうでもよくなっちゃって、帰りたくなった。
「私が、鍵かけてたのに勝手に入ったってこと? それはごめんね、私、もう帰るね」
ごりごりごり。
適当に話を合わせて帰ろうとした。そしたら、美鈴がすごく強い力で腕を掴んできた。
「痛い!」
「帰らないでよっ!」
美鈴の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
「あんたが、あれ、入れた! 一人にしないで!」
「はあ?」
美鈴の腕はすっごく細いのに、振りほどこうとしても、全然振りほどけなかった。
「あれ!」
美鈴がすごい力で私の頭を無理やりドアの方向に向けた。
その途端、ごりごりごり、が止んだ。
背の高い女が、立ってた。
また、美鈴がヒ――――ッて鳴いた。
背の高い女は、笑ってた。笑って、私にありがとうって言った。
それでね、こう、顎をずらしてさ、細長い顔だったんだけど、ごりごりごり、って鳴ってるの。歯と歯がぶつかる音だったんだ、ってなぜか冷静に判断できた。
怖すぎたんだと思う。顎がずれてるんだよ。
とっくに人間の顔なんてしてないの。
美鈴が、また、ヒ――――ッて鳴いて、私は気絶した。
気絶ってすごいんだね。本当に、フッて意識がなくなる。
起きたら、っていうか、結構乱暴に肩を揺すって起こされたら、美鈴の母親が立ってた。
びっくりして立ち上がって周りを見回した。
もう、あの女はいなかった。美鈴はどうなっちゃったんだろう、ってベッドを見ると、真っ青な顔で、でも、ぐっすり寝てるの。
「どうやって入ったんですか?」
美鈴の母親が、すごく冷たい声で言った。
「いや、あの、美鈴……さんが、入れてくれたんですけど」
「そんなわけないでしょ、ずっと寝てるのに」
美鈴の母親は、大きなため息をついた。
「とにかく、前も言いましたけど、もう来ないでください。親御さんはどういう躾をしているのかしら。迷惑なのよ」
普通だったらムカつくし、何か言い返してやろうって思うところだけど、無理だった。
ごめんなさい、って謝って、走って帰ってきたよ。
もう、何が何だか分かんないんだもん。
夢だったんじゃない? って、ママにも、弟にも言われたよ。でもさ、多分、夢じゃないんだよね。
ほら、見て、ここ、美鈴に掴まれた跡。
それにさ、美鈴の家出るときも、聞こえてたよ。
ごりごりごり、って。
*
宏奈は、話の途中からあからさまに落ち着きがなくなり、最後には嗚咽混じりになっていた。それは、敏彦とて同じだ。
宏奈の話に出てくる「背の高い女」は、まさしく敏彦をストーキングしている女なのではないだろうか。ごりごりごり、がどうしても、防犯カメラに入っていた音声と重なる。
やはり、あの女は、敏彦ではなく、美鈴を狙っている。浮気をされたら、浮気をした人間ではなく、その浮気相手を憎む、というタイプは多くいるが、あの女もそういうタイプのようだ。もっと攻撃的で、何をやるか分からない危うさがあるが。
「私さ、幽霊見たんかな」
宏奈は震える声で言った。
「呪われてないかな」
「それはないと思う」
敏彦はきっぱりと答えた。
確かに、宏奈の話は、怪談実話のようだ。それに、敏彦は趣味の関係で、世の中には常識外の怪奇現象があることを信じている。
しかし、冷静に考えれば、あの女が幽霊であると断定するには早い。
・美鈴は寝ていた
・家はきちんと施錠されていた
・人間の顔じゃないように見えた
など、単に主観的で断片的な情報を繋ぎ合わせて、幽霊ではないか、という方向性に誘導されているに過ぎない。
だからといって、宏奈の家族のように「怪奇現象は宏奈の勘違いで、すべて夢である」と断じることもできない。
とにかく現時点で分かったことは、ストーカー女が予想以上に危険で、攻撃的で、有能な人物だということだ。
「話、聞かせてくれてありがとう。牛島さんは大丈夫だよ」
「どうしてそんなことが言えるの?」
「狙われているのが、中村さんだけだからだよ。現に、そのあとその女が追ってきたり、嫌がらせをしてきたりしてないでしょ」
宏奈は、強張った顔のままゆっくりと頷いた。
「俺も狙われてると思うんだ。だから、一緒にいるところを見られたくない。牛島さんが危険だからね。念のため、今日は親御さんに迎えに来てもらうことはできるかな?」
「うん、今の時間だったら、お父さんが」
「よかった。俺の方から警察にも話しておくから、もうこの件には関わらない方がいいと思う。中村さんのことが心配なのは分かるけど、牛島さんまで危険な目に遭ったら、中村さんも悲しむと思うよ」
「美鈴はむしろ『どうしてあんただけ無事なの? ズルい!』って騒ぐタイプだと思うよ」
宏奈は今日初めて笑顔を見せた。彼女は父親に連絡をし、しばらくして帰って行った。まだおびえている様子だったが、それでも松野塾の入り口で話しかけてきたときほどの切羽詰まった様子はなかった。
ふと時計を見ると、もう夜の十時を回っている。教室を施錠して、帰路につくと、どうしても宏奈から聞いた怪談のような話が脳内によみがえってきて、恐ろしくなる。今は、べっとりとした視線は感じないが――
タクシーが走っていたので停めて、サッと乗り込む。高くつくのは分かっているが、今日は電車で帰る気にはなれなかった。やはり恐ろしくて窓の外は見ることができなかった。
手紙のことを考える。
事件の日以来、不気味な手紙は届いていない。恐らく、美鈴を攻撃することに熱中していて、手紙を書く暇がなかったのだろう、と敏彦は思った。
特に成果も出ないままタクシーは自宅についてしまう。
玄関を開けようと鞄の中から鍵を出そうとしたとき、何かが敏彦の足元に落ちた。扉をよく見ると、センサーの光に照らされて、うっすらとなにか糊のようなものの跡が見える。
嫌な予感がした。何かが張り付けてあった。恐らく、あの女の手紙。
足元に目を向けたくない。
意を決して下を見ると、むわっとした悪臭が鼻を衝く。
鉄錆の臭い。いや、それよりももっと、生々しい、生き物の臭いだ。
べったりと血がこびりつき、黒ずんだ生理用ナプキンが、敏彦の革靴にしがみつくように張り付いていた。
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