11話  週末のひと時④

 夜も更けて、俺はひとり、温泉にやって来ていた。


 浴場は意外と広く、特に露天風呂は、星のまたたく夜空が押しつぶさんばかりに見下ろしてくる開けた岩風呂だった。


 俺はゆったりと湯の中に沈んで、贅沢すぎるほどの夜空をながめた。


 慌ただしい一日が過ぎて、こんな静かな時間が訪れたことに、俺はなんだか感慨深くひたっていた。


 男湯には俺以外に誰もいなかったのだが、しきりのすだれの向こうは女湯の露天風呂のようである。

 そちらから、何やら賑やかな声が聞こえてくる。


 最初はまったく意識していなかったものの、どうもそれらの声に聞き覚えがある。

 どうやらそれは美優たちのようなのであった。


「あいつ、先に来てるはずだよね~ん。お~い、青春少年や~い」


 そんな声が向こうから聞こえてくる。これは……声だけでわかる。マユミの野郎だ。


 さっき入っていたというのに。

 とことん温泉を満喫するつもりのようだ。


 俺は返事をしなかった。何も隠れたわけではないのだが、呼ばれたからとて、そうそう出ていけるものではない。


「内風呂にいるんじゃないかな?」と応じているのは、きっと美優の声だろう。


 そうだ、内風呂にいる。そういうことにしてほしい。


 俺はすっかり出て行くタイミングを失い、じっと息を押し殺すがままになった。


「つまんないな~、これで尻尾振ってなあに~?とか言いながら向こうから顔出して、返事は声だけでよろしい~!!って桶とか石とか投げつけるみたいな展開超期待してたのにさ~」


 変な演技でマユミは言う。オタクみたいな早口なのが、めちゃくちゃ煽ってる感じ半端ない。


「なによお、それ~? マンガじゃ~ん?」


「うっける~。あいつ、絶対むっつりだもんね~」


 ギャルどもが何やら許しがたい会話をしているようにも思うが、ここは我慢である。


「泊まりはやっぱり急だったよね。悪いことしちゃったかな……」


 美優だけは俺をいたわってくれていた。

 美優は俺にやさしい。俺がそこにいないときに限るのが難点だが……。


「いいじゃんいいじゃん。タダなんだしさ~。うちのばあちゃん、太っ腹だからね」


「ふふふ~ん、ミユーはさ~、素直じゃないのよね~ん」


 ザバっと湯の音がして、それはきっと、マユミが美優に絡んでいる音なんだろう。


「あんた控えめなふりしてさ~? 意外とここ! あたしに負けてないじゃないのさ~!」


「きゃあ! ちょっと~!」


 美優の冗談めいた悲鳴が聞こえ、それはきっと、俺が触れるわけにはいかないじゃれ合いを簾の向こうでしているからで……。


「こら~! 仕返しさせろ~!」


 黄色い声が弾ける向こう側は、さぞかし楽園の光景が広がっていることであろう。

 俺はその様子を想像しながら、一気に顔が熱くなってくるのを感じた。


 のぼせたのだろうか……? しかし、今この場を去るわけにはいかない。


「なんか暑くなっちゃったね~」


 美優の声がものすごく近くで聞こえる。

 俺は無意識に、しきりの簾のすぐ側で湯につかっていたのだが、どうやら彼女も、簾ごしのほんの手近なところにいるものらしい。


「ちょっと夜風に当たりますかね~」と、マユミの声も聞こえる。


 おそらくは、露天風呂の縁にでもふたり並んで腰掛け、話しているというところか。


 ナオとメグの声は、少し離れたところから聞こえていた。

 そちらのふたりはそちらで、また別途盛り上がっているようだ。


「夜空が近いね~ん。星が今にも降り注いでくるみたいだよ~ん」


 詩人のように言うマユミは、きっと目を閉じて満天の星空を仰いでいることだろう。


 その様子が、目に浮かぶようだった。


「こんなに楽しいの、はじめて」


 ぽつりとつぶやいた美優は、きっと温泉から立ち上る湯を遠い目で見守っているのだ。


「はじめてなんてことはないでしょ~よ? 中学だって修学旅行はあったでしょ?」


「あったけど、覚えてないんだ。あまり良い思い出じゃ、なかった気もするし」


「……んまあ、ペア組まされて、行くとこ決められて、だもんね~。気の置けない奴とバカやるのとは、ちょっと違うわよね~ん」


「うらやましいよ。バカやれるのが。頭いいんだと思う」


「何を言いなさんのさ。バカがバカやってるだけでさ~」


「うそ。バカなふりしてるだけでしょ? ナオちゃんとメグちゃんも言ってたよ」


「あいつら~……」


「私には足りてないんだ、そういうの。強がって、自分のこと、守るばっかりで」


「もしかして、あいつのこと、言ってる?」


「あいつって……?」


「あいつは、あいつでしょうよ?」


 そう問われ、美優は沈黙していた。マユミは確実に、俺のことを言っていた。


「あいつだって、ただのお人よしであんたに良くしてるわけじゃ、ないと思うのよねん。ただ、うやむやにすんのも女の特権よん。なんたって、あいつはミユーにお熱だからね? 惚れられたほうが、主導権握れるってもんよ~~」


 ……きっとそう言いながら、得意げに指をくるくる回したりなんかしているのだろう。


「……そういうのじゃ、ないよ」


「ふうん? で、それならミユーさんはどんなんだと思ってんの? そこんとこはさ?」


 美優はしばし考えているようだった。


「もともとはライバルだったんだよ、私たち。大賞取ってやるなんて、宣言されたなあ、そういえば」


 確かに、そうだった。あれから俺の作品はほとんど進まないままだが、忘れたわけではない。


 あれが俺たちにとって、大事な原点だった。


「だからきっと、ライバルだよ。前も、今も、これからもね」


「真面目だね~。でも、それも青春なのかもね」


「あいつ、大賞なんて言っといて、ぜんぜんそこに向けて行動してないんだもん。でも、おかげで借り、だいぶ作っちゃったのもあるし」


「どっかで借り、返さないとかな?」


「そうだね。貸して、借りて、また貸して。そうやって腐れ縁が続いてくのかもね。ついこの間、知り合ったばっかなのにさ」


「ま、あいつにミユーはもったいない、ってことよね~ん」


「なんならマユミちゃんに譲ってもいいけど?」


「おさがりもらってもな~。しかもあいつじゃねえ~」


「あら、それはかわいそう」


「あいつもらうくらいなら、ミユーを嫁にしちゃいたいかな~!」


 そんなやり取りを交わすと、ふたりはまた戯れ合っているようだった。

 どうやら俺の株が不当なほどの安さでやり取りされていたようだが、そのことはもうどうでも良かった。


 俺はまた、風呂から上がるタイミングを逃しつつあった。

 とはいえ、これもこれで良いものだというように思っていた。


 湯気が夜空に絶え間なく吸い込まれていくのをながめながら、俺は簾の向こうの賑やかさに耳を傾けていた。

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