2話 夕暮れの約束
その日は委員会の活動で帰宅がちょっと遅かった。おまけに忘れ物をしてしまって、いったん教室に戻るはめになったのだ。
もう誰もいないと思ったけれど、教室の鍵は開いていた。
「あれ……?」
部活帰りの誰かでもいるのかな。
そう思いながら中に入ると、夕焼けに赤く染まる教室は静まり返り、人の気配はない。
窓際にぽつりとひとつだけ、人影があった。
早乙女美優だ。
休み時間のときと同じように、分厚い本を黙々と読み進めている。
俺は
席が近い都合上、俺は美優のほうへ向かわざるを得ない。また例の察しの良い冷ややかな視線が飛んでこないか気が気でない。
俺は必死に目を合わさないよう努めた。
しかし美優は、視線はおろか、気づいた素振りすらない。眼中にないぞという態度だが、「早くこの場から消えてうせろ」との圧力だけは、ぬるっと放たれている。
奴が本のページをめくる音がいらだたしげに聞こえる。
こんなときに限って、普段から整理の習慣がないのが災いし、目的のものがなかなか探し当てられない。
そして不運も不運、ガサゴソと机の中をあさるうち、引き出しの中に突っ込んでいた教材やら何やらが床にぶちまけられてしまう。
……あろうことか、その一部は、くだんの“文学少女”様の席のほうへ。
本のページをめくる美優の手が明らかに止まった。
俺は完全にテンパってしまって、ぶちまけた教材を慌てて拾っていく。
美優も身を屈めると手近な教材を拾い集め、俺が受け取るのを待っていた。
「ありがとう……」
情けないくらいの小声で、相手の目を見ることもできずに、俺は受け取った。
すると、自席に戻っていく俺の背中へ、
「君、小説読むの?」
文学少女様の声が追いかけてきた。
俺は足が止まった。心臓も止まるかと思った。
恐る恐る振り返る。
彼女は、じっと俺のことを見ていた。
「いつもスマホ見てるし、そんな話、聞こえてきたからさ」と、美優は言葉を続ける。
こいつは、俺の席で悪友たちが陰口叩いていたときのことを、言っているようだ。
「ああ……」と俺は生返事をする。
胸を張って「そうだ」とは言い切れなかった。
彼女の手元には、いかにも高尚で難しそうな本が開かれているのだから。
「どんなの読むの?」と、なおも美優はたずねる。その瞳は、純粋に興味がある、と告げていた。
こんな目もできるんだなと、俺は意外な想いがした。
それなのに、
「ただの、Web小説だよ」と俺は、卑屈な感じに笑いながら言う。
「ミコトっていう作者の……。まあ、その辺のなろう作家だろうけどさ」
なおもヘラヘラと引きつった笑みで、俺は言った。
自分で自分が情けなかった。いっそ己自身を思いっきりぶん殴ってやりたかった。
ミコトの名をそんな風に、ヘラヘラと語るなんて許せなかった。
なのに、その許せないことをやっているのは、俺自身なのだ。
美優がどんな表情をしているのかはわからなかった。それもそのはず。俺は彼女の目も見ずにぼそぼそと小声で答えたのだから。
でも、きっと興味もなさそうな顔をしているのだろうと思った。
人の質問に相手の目を見て答えることもできない、つまらない陰キャ野郎だと幻滅しているに違いないと思った。
すると、美優は手元の本をぱたりと閉じた。
「Webとかそういうの、関係ないと思う」
その声に、俺は今一度ビクリとする。
気のせいか、彼女の声が怒気をはらんでいるように思ったからだ。
「一作一作が、その人が一生懸命に書いたものだよ?」
美優は、まっすぐに俺を見据えていた。強い意思のある瞳だった。
「ただの、とか、その辺の、とか、書いた人に失礼だよ」
歯に衣着せず、言いきった。
感じが悪いなんて、思う奴もいるだろう。
でも、俺は清々しかった。清々しいはずなのに、自分がそれを言われてしまったことが、悔しくてならなかった。
「何がわかるんだよ……」
俺は気がつくと、悪態みたいにそうつぶやいていた。
「お前みたいに高尚な本、読まねえもん……」
まったくの言いがかりだと、自分でも思う。なのに言ってしまう。
本当は、自分自身が許せないだけなのに。
「じゃあ、君はWeb小説のこと、語れる?」
美優は涼しげにそうたずねる。
動じているのは俺だけで、美優は冷静そのものだ。
「語れるよ……」と俺は答える。声がだらしなく震えている。
「てか、自分でも書くし」
俺はとっさにそう言った。
なんでそんなことを言うのかわからなかった。なのに言ってしまった。
「へえ」と美優は、感心した様子を見せる。
「構想、あるの?」
「あるよ……。とびっきりの奴」
「自信あるんだ?」
「もちろんだよ。今度のコンテストに応募する」
「ふうん……」
美優は頬杖をついて、細い目で俺を見る。
妙になまめかしかった。けれどそれにときめく余裕なんてなかった。
「大賞、本気で狙ってるから」
強がりなの丸出しで、俺は宣言してしまっていた。
美優は何も言わずに俺を見返していた。
本気で言ってる? 彼女の目がそう問うていた。
けれども俺はそれ以上彼女と対面しているのすら耐えられなかった。
かばんを乱暴につかむと、逃げるように教室を後にしてしまう。
玄関まで来て、後悔とかふがいなさとか、色々な感情が一気に襲ってきた。
俺は下駄箱に自分の頭を打ちつけながら、何度も己を「バカ」と罵った。
不覚にも涙がにじんできてしまう。
まったくもって、なんと情けないことだろう。言いたいこともまともに言えないし、女の子には泣かされるし……。
マジ、ダッセー……。
あまりにもカッコ悪くて、情けなくて、いっそのこと笑ってしまいたい気分だ。
でも、あいつの言うことは、なんだかんだと正論だ。
俺はミコトにあこがれて、彼女の小説のすばらしさを、こっそり書き留めたりもしていた。
しかし、それを少しでも人に伝えられただろうか。悪友どもに文学少年なんて
日和見な悪友たちとは違うなんて思っていながら、俺自身、ただの風見鶏だった。
彼女の魅力を独占したかったのは本当だ。でも、布教する勇気がないのも事実だ。そのくせ、俺にはすばらしい
そしていざという場面になると、自分の好きなものに、素直になれない。
ありもしない暇を潰していた頃と、なんら変わらない。
一言、カッコ悪い。
でも、このままでいいのか? そんなわけがない。
こんなみじめな自分、ぶち壊しにしてやりたい。
俺は自分が好きなはずのミコトを、散々おとしめてしまったかもしれない。
せめて己もあこがれの人にならい、Web小説の旗手として立つべきではないか?
俺は下駄箱に頭をぶつけるのをやめた。代わりに決意していた。やってやる、と。
玄関を出ると、グラウンドの向こうに大きな夕陽が落ちようとしていた。
……こういうとき、夕陽は実際の何倍も大きく描写されるんだよな。
俺はこの先に待ち受ける創作人生を思い、勇み立っていた。
その結果として自分がどうなるのかは、想像も及ばない。
あの“文学少女”様は、俺がギャフンと言わされるきっかけくらいにしか思っていなかった。
だから、まさかその“文学少女”様と、あろうことか主人公とヒロインとして、荒唐無稽な物語に巻き込まれていく未来など、俺は予想だにできないのであった。
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