29話  作家と娘

 その日は俺にとって長い一日だったが、それは俺に限った話ではなかったようだ。

 とはいえ、俺がそのことを知るのは少し後のことになる。


 それから数日経った日の学校帰り、俺は、さすがに今日は早く帰って勉強しなけりゃならないなと考えながら、駅までの道を歩いていた。


「よお~、文学少年」


 と、聞き覚えのある声が俺を呼び止める。振り返ると、マナブさんだった。


「あれ、めずらしいですね、こんなところで」


「買い物~。ときどき歩いてるぜ?」


「ずっと部屋でパソコンの前にいるのかと思ってました」


「……俺ってそんな暗いキャラに見えてたわけ?」


「まあ……そのくらい調べるのすごかったからすかね」


「んま、褒め言葉に取っておくわ~」


 やや不服そうではありつつ、頭をかきながら上の空に言う。

 こういう飄々としたところは、マユミとそっくりだ。


「それよか、暇~? 付き合ってよ」


 爽やかな笑みを浮かべ、親指を突き出し、そう言う。

 本当は暇じゃないのだが……そんな笑顔で誘われたら、女の子じゃなくてもなびいてしまう。


 そんなこんなで、俺はマナブさんと並んで商店街を歩く。

 近頃は女子たちと一緒にいることが多かったし、すれ違う男たちが俺の傍らをちら見するのはだいぶ慣れていたが、今日はやけに女性の視線を感じた。

 むろん、俺に向けられているわけではない。マユミやらのぞみやらといたときはそういう視線を感じなかったわけだから、それはまあ、そういうことだ……。


「ここ、お気になんだわ~」


 駅前の街を練り歩いていると、マナブさんが足を止めたのは、ずいぶん古びた建物の前。

 どうやら、レトロ映画館のようだった。


「この街にこんなとこ、あったんですね……」


「ファンもちょいちょいいるんだぜ? せっかくだし、付き合ってきなよ」


 マナブさんがチケットを買ったのは、ちまたでは聞いたこともない西洋のヒューマンドラマだった。海外で何かの賞を受賞したらしい。

 なんてことはなさそうに俺の分までチケットを買ってくれて、飲み物までおごってくれる。こういうさりげなさがイケメンなんだよな……。


「ふたりで観ればふたり分楽しいだろ? それに出資してるだけだからさ~」


 そんなセリフを、なんてことなく口に出せるのだからうらやましい。俺が真似しても、絶対無理してる感じにしかならない。


 その映画は、父親の危篤を告げられた主人公の女性が、帰省する話だった。

 その父親は有名な作家で、しかし彼女は父の本は一度も読んだことがなかった。寡黙で頑固な父親で、親子の会話は弾まない。けれども、なぜ作家になったのかをたずねたとき、父親は、娘に読ませたいお話があったのだと言う。

 主人公は捜索の末、その物語を探し当て、その内容から、娘に愛情を伝えたくてもうまくいかない、父親のもどかしい想いを初めて知る。

 彼女は父に今の気持ちを伝えたいと願い、病院へ急ぐが、父親は症状の急変で旅立ってしまう。彼女は、墓前で亡き父に一言、「ありがとう」とだけ告げ、墓碑にキスをすると、自分の街へ帰っていくのだった。


 終わってみれば、70分ほどの短めの映画だった。けれども、俺はその時間がやけに濃厚に感じられた。


「いいだろ?」


 マナブさんは、おおらかな笑みを浮かべ、言う。当たり外れはあれど、こんな映画が毎年たくさん上映されるらしい。


 俺は、流行りの映画くらいしか見たことがなかった。確かに派手さはないかもしれないけれど、それでも、ヒット映画にはないような魅力が、今の作品にはあった。


 そんな作品が、俺の知らないところで作り続けられていたことに、俺は驚きを隠せなかった。


「世の中さ、気づかれないだけで、色んな人が、色んないい仕事してるんだぜ?」


 マナブさんの言葉は、とても深かった。


「いい映画見たあとは、気分いいんだよな~」


 映画館を出たあとは、電車にも乗らず、ぶらぶらと線路沿いを歩きながら帰路についた。


「そういや、君も文学してるんだったよな」


 藪から棒に、マナブさんは話題を振る。


「そりゃ、文学少年ですからね」


「ははは、否めない」


 マナブさんは、先ほどの映画の父親と同じだと言いたいのだろう。


「なんだか、我が事みたいでしたよ」


 もしかしたら、それであの映画を見せたのかもしれない、とも思った。


「あの映画、ハッピーエンドだと思うか? バッドエンドだと思うか?」


 マナブさんはたずねる。難しい質問だと思った。


「最後、主人公の女の人は、父親のお墓にキスしますよね。伝えられなかったけど、理解することはできた。それは、幸せなことかもしれない」


「だが、親子は永遠にすれ違ったままだ」


「そう考えると、重いですね」


「しかし、俺はハッピーエンドだと思ってる。美化されていない、誠実なハッピーエンドだ」


「それは、どうして?」


「あの映画の主題はな、想いの伝え方は、人それぞれに形がある。ゆえに相互理解にも人それぞれに形がある。そういうことだと思うんだ」


「父親は、物語に込めた」


「娘は、キスに込めた。どうだ、お互いに想いは届いてるだろう?」


 確かに、物語は娘に届き、キスは父親の墓碑に届いた。

 どちらとも、間接的にしか、想いは届けられていない。

 しかし、ゆえに届き方は平等だ。


「でも、それは寂しい気がします」


 直接正面から届けあうことはできないのかと思ってしまう。


「分かり合えないと思うか、折り合いはつくと思うかの違いだな」


 確かに、それはその通りだ。父親に想いを告げられなかったと思うか、それとも墓碑へのキスでその想いは遂げられたと思うかだ。


「あれをハッピーエンドと思えるか。それが大事ってことですかね」


「ハッピーエンドを迎えるためのヒントにはなる。だろ?」


 きっと、言いたいことはそこだったのだろう。


「伝える手段が文学、か……」


 俺はつぶやく。俺自身、きっとそうなのだろうと思った。


 しかし、本当にそうだろうか。文学を通さねば想いを伝えられないのは、果たして俺なのだろうか。


「無理を通す必要はないんだ。足りないピースが揃えば、それでな」


 ピース。昨日俺自身、のぞみに語ったこと。

 映画の主人公の女性は、父親と直接分かり合うことはできなかった。しかし、物語を通してつながることはできた。

 それにならうことはできるだろうか。しかし、俺の書く小説で?


 ラストピースは、もっと別の、何かだと思えていた。


「んじゃ、俺はこっちだからさ」


 お互いに行く先がわかれるところで、マナブさんは言う。

 俺は礼を言おうとすると、


「そういや、マユと何かあったか?」


 急に、マユミのことを話題に出す。


「あいつと……ですか?」


 昨日のことを思い出してみる。マユミは早々に帰っていってしまった。特に変わった様子もなかったはずだが。


「いや、心当たりないんならいいんだけどよ」


 マナブさんは頭をかきつつ、


「あいつ、めずらしくなんもしゃべらねえの。ありゃ、何かあったな」


「昨日会いましたけど、そのときは何も……」


「強がる奴だからな。ヤボ用がどうとか、言ってなかったか?」


「言ってましたね。昨日は妙に早く帰ってましたし」


「ふ~ん、なるほどなあ」


 マナブさんは思い当たる節があるようだった。


「ま、ここで話してても仕方ないな。聞き出せそうだったら、つっついとくよ」


 今度こそ、俺とマナブさんは会釈を交わした。


 ヤボ用というからには、確かに俺とのぞみには話せない何かだった可能性はある。

 しかし、それが何なのかは、想像もつかなかった。

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