第3話
ぴーんぽーんとくぐもった音を出す古いチャイムを鳴らすと、すぐに輝美がにょっと顔を覗かせた。アパートの割目の表札はすっかり埃を被って元々の白はすっかりくすんだクリームに変色している。
「はよ、はいりなって」
兄ちゃん今日は30分遅かったんやないか。もう19:30分やが。なんでなんや。僕は靴を揃えながら応える。テルミー今日はクリーニング屋に寄って。夏物ズボンが破けてそれでって今朝言ったじゃないか。
「聞いとらんよ」
不機嫌そうに輝美はそっぽを向いた。まあさ、ともかくご飯にしようよ、今日はつけ揚げを買ってきたよ。ご飯炊けてる?お腹、空いたでしょ。あとはサバ缶もあるよ。がさがさ紙袋から品を出すと、照美は急に嬉々として配膳をはじめた。洗面所へ向かうと僕は手をすすぐ。きゅっと蛇口を捻るとぽたぽた水滴が垂れてくる。もう一度ぎゅっと蛇口を締め直す。栓をする。タオルで軽く手を拭ってから、左の上瞼を睫毛の上から大きく上に引っ張る。目頭側の下瞼を指先で軽くさえながら平行に揺らす。スッと楕円に窪んだプラスチックがぽろり外れる。コンタクトレンズ型はこつさえ掴めば外すのは容易い。盛り上がった先には薄い血管が精緻に描かれ、薄茶色の瞳も変わらずに美しい。滑らかに白く光るプラスチックには、縁を中心にどろり固形の目やにが張り付いている。じゃばじゃば水で洗い流す。濡れタオルで目やにも軽く擦りとる。一滴オイルを垂らすと目頭からまた嵌め込んだ。
「兄ちゃん。落とさんかって!」
輝美は必ず毎日必ず聞く。日課みたいなものだ。高校生の頃、僕がうっかり義眼を排水口に流したことが衝撃だったらしい。左目ないと兄ちゃんもいなくなるんやないか、いなくなったらどこへいくんや、と母親に泣きついて、それ依頼この事件は、彼女の重要な記憶としてずっと存在している。テルミー今日の‘ねむの樹’はどうだった。僕が聞いても、輝美は一心不乱に配膳している。ターコイズブルーのアジアンランチョンマットを敷き、茶碗にご飯をよそい、プレートを並べる。
「兄ちゃん。つけ揚げってさつまあげって言うんやって」
この会話も、もう何度目だろう。毎度毎度つけ揚げを買って帰るとこの話になる。知ってるよでも知らないよでも照美は満足そうに頷くだけだ。母が亡くなって、輝美と二人暮らしをしてもう5年になる。軽度の知的障害のある輝美は、市内の共同作業所“ねむの樹”でクリーニング作業をしている。日常会話は何ら問題ないが、一つの事柄に固執するため作業所でもトラブルがよく起こる。先日も輝美のことを割目、割目と名字で呼び、テルミーと呼ばなかった新人職員がいたため、輝美はむくれてその後の作業を一切やらなかったそうだ。トラブルの度、迎えに行くのは気が重い。
スーパーで見切り品買いしたさつま揚げだが、黄金色をしたこの魚のすり身はそのまま食べて十分に美味しい。プレートには千切りキャベツにサバの水煮。キャベツにはマヨネーズと決まっている。箸で乳白色のマヨネーズを摘むとサバに擦りつける。
「兄ちゃんなあ。さつまあげは魚のすり身やから身体にいいんやって」
輝美は“ねむの樹共同作業所”と印字された薄ピンクのTシャツを着ている。イベント用のTシャツだが彼女はひどく気に入って、すっかり部屋着だ。土からがっしりと太く生えた白い樹が荒々しく一筆書きのように描かれている。子どもが描いたような未熟なそのタッチは一切迷いのない稜線は、ある種抗うことのできない迫力を感じさせる。
輝美の背面には古ぼけた木目調のアップライトピアノが置いてある。譜面台には輝美の作業所の予定表。鍵盤蓋にはプリントやらチラシが散乱し、すっかり物置台と化している。天板には60センチ程の水槽。エアーポンプのモーター音は常に少量の濁った雑音を響かせている。水槽内には銀白色のモツゴ8匹と透明色なヤマトヌマエビ4匹いるはずだ。アンティーク調の朽ち果てた橋梁のオブジェのまわりに数匹のモツゴがぷかぷか漂っている。一匹しか姿が見えないが、カボンバの隙間にヤマトヌマエビは隠れているのだろう。
「テルミーあのなあ、モツゴの唐揚げって美味いらしいぞ」
輝美は興味なさげに無表情で頷く。ほうなんか、とサバの身をほぐしながら小さく呟いた。
片目 蓮太郎 @kou1225
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