007



 三年生になった。


 それも――夏真っ盛り。



「よっ、前田さん」



 うだるような猛暑の中、相も変わらずジャグに水を汲む私に、市原くんが声を掛けてくる。



「どうも、市原くん」



 今日は現役最後の部活。昨日行われた夏の大会で見事二回戦敗退を決めた我がサッカー部は、大人しく引退という二文字を引っ提げて、受験勉強に励むことになる。


 ちなみに、最後の最後まで水汲みの雑用をやめなかった私のことを、女子マネージャー陣は尊敬と皮肉を込めて「ジャグじょ」と呼んだ(普通にダサい)。



「サッカー部、残念だったね。めえちゃめちゃ強豪校とあたったらしいじゃん?」



「私たちに勝ったとこが優勝したんだ……市原くんはどうだったの? 剣道部も昨日大会があったんだよね?」



「あー……」



 彼は頭をポリポリと掻き、恥ずかしそうにはにかむ。



「負けちゃった。惜しいところまではいったんだけど……俺も今日から、受験生の仲間入りってこと」



「……残念だったね」



「剣道人生が終わったわけじゃないし、大学生になったらまた鍛え直すさ」



「無事になれるといいけど」



「酷くない? これでも勉強頑張ろうって気合入れてるのに」



「ごめんごめん……とにかく、お疲れ様」



 そうか、市原くんも引退なのか。


 私たちの青春の一ページは、幕を下ろしたことになる。


 そして――同時に。


 考えないようにしてた問題にも、目を向けなければならない時がきた。



「あ、これ、ココア」



 そう。


 クラスの違う私たちが、唯一つながりを保てていたこの時間が――なくなってしまう。


 無糖ココアを手渡す、たった数分の関係。


 それが今、終わろうとしていた。



「ありがとー!」



 彼はいつものように無邪気な顔で缶を受け取り、プシュッと蓋を開ける。


 ココアの香りが、漂った。



「……」



 美味しそうにココアを飲む市原くん対し、どう話しかけていいのか戸惑う。


 これを飲み終わったら、私たちの関係どうなってしまうのだろう。


 私は、どうしたいのだろう。



「ごちさうさま! 前田さん、ちょっと待っててもらってもいい?」



 言葉がまとまらずにいる私を残し、彼は道場の方へと走っていった。


 しばらくして戻ってきた彼は、大きめの段ボールを抱えていた。



「これ、今までのお返し! お父さんへお礼と、前田さんにもお礼!」



 どん! と置かれた段ボールの中身は――細長いスナック菓子。



「……『うめえ棒』」



「そ。貰いっぱなしは悪いから、せめてもの気持ち的な。それに前田さんも部活引退だし、お疲れ様の意味も込めて」



「……」



 駄目だ。


 泣きそう。


 こんなお返しを貰うなんて想像もしてなかったから、あまりに突然すぎて心の準備ができていなかった。


 いろんなものが込み上げてきて、それを止めるので精一杯で、なんにも言葉が出てこない。



「えっと……大丈夫? いらないなら全然捨ててくるけど」



「……大丈夫、嬉しいよ。ありがとう、市原くん」



 私は泣きそうな顔を見られたくなくて、下を向き俯く。


 私と彼の関係。


 甘くない無糖ココアがつないでくれたこの関係を。


 私は――終わらせたくないんだ。





「……市原くん」



「なに、前田さん」



「今日でお互い、引退だね」



「そうだね、お疲れ様」



「これからは、受験勉強が始まるね。市原くん全然勉強してなかっただろうから、大変だね」



「ヤなこと言うねー。ま、死ぬ気で頑張るしかないけど」



「そんな死ぬ気で頑張る受験勉強のお供に、無糖ココアがあったら嬉しくない?」



「……確かに、ブラックコーヒーみたいでよさそう。それに周りに飲んでる人もいないし、特別感が出る」



「何それ、かっこつけ……じゃあ、毎日ココアが飲めたら、市原くんはどれくらい喜ぶ?」



「そりゃもうめちゃめちゃ喜ぶよ。勉強のやる気も出るだろうし……でも、何より」





 言って。


 彼は、私の顔を覗き込む。




「恋人がいたら、毎日ハッピーなんだけどな……前田さんは、どう思う?」



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