10.「同性婚を認めないのは憲法違反」という虚偽報道。
二〇二一年・三月、「同性婚を認めないのは憲法違反」だという判決を札幌地裁が下した――という報道があった。記憶に残っている人も多いだろう。
ところが、判決文の冒頭にはこう書かれている。
「主 文
原告らの請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。」
この裁判は、同性婚を求めた原告の敗訴だったのだ。
「同性婚を認めないのは憲法違反」という判決は出ていない。それどころか、判決文を読むと、同性婚反対派である私の意見と近いことが判る。
実際に出された判決文を検証する。
原告の主張は以下の通りだ。
1.同性婚が存在しないことは、憲法十三条(幸福追求権)・十四条一項(法の下の平等)・二十四条(婚姻の自由)に違反する。
2.同性婚は憲法で認められている。しかしそれがないのは国の怠慢であり、国家賠償法一条一項によって賠償される。
3.以上の理由により、原告一人につき百万円の慰謝料と遅延損害金の支払いを求める。
ここで、憲法の条文を確認したい。(傍点は引用者)
十三条(幸福追求権)
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
十四条一項(法の下の平等)
「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」
二十四条(婚姻の自由)
「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」
第二十四条は、「婚姻の自由と平等」を定めたものだ。原告は、「両性」を「男と男」「女と女」という意味でもあると解釈し、同性同士で結婚する自由も憲法で保障されていると主張する。
これに対し、「憲法によって同性婚が認められているとは言えない」と札幌地裁は言い渡した。
すなわち、「家族と婚姻に関する事項は、国の伝統・国民感情・それぞれの時代の状況などを総合的に考えて判断すべきである」という。
「したがって、その内容の詳細については、憲法が一義的に定めるのではなく、法律によってこれを具体化することがふさわしいものと考えられる。」
当然と言えば当然だ。
そして、憲法二十四条と民法の成立過程に触れる。
明治期に民法が定められたとき、同性愛は精神疾患であると考えられていた。憲法と民法が戦後に改められたときも同様だ。当時は、諸外国でも同様に考えられていた。
「以上のような、同条の制定経緯に加え、同条が『両性』、『夫婦』という異性同士である男女を想起させる文言を用いていることにも照らせば、同条は、異性婚について定めたものであり、同性婚について定めるものではないと解するのが相当である。そうすると、同条1項の『婚姻』とは異性婚のことをいい、婚姻をするについての自由も、異性婚について及ぶものと解するのが相当であるから、本件規定が同性婚を認めていないことが、同項及び同条2項に違反すると解することはできない。」(傍点引用者)
原告側の呆れた詭弁は、こうして呆気なく退けられた。
ここから続く文を要約すれば、こうなる。
1.憲法第二十四条は、あくまでも両性の平等と自由を守るものである。婚姻制度の具体的な内容は法律が定めるべきだ。第二十四条が同性婚を保障していると考えるのは困難である。
2.憲法第十三条も、幸福追求権について述べたものである。この条文が同性婚を認めたものだと直接的に言うことはできない。
3.また、生殖を前提とした規定(民法七百三十三条以下)や実子に関する規定(民法七百七十二条以下)があることを考えると、同性婚と異性婚には制度上の差異を検討する必要もある。よって、憲法の条文のみによって同性婚が保障されていると考えることは出来ない。
一方で、十四条――法の下の平等――については、違った解釈を述べている。
つまり、異性愛者と同性愛者の差異は、性的指向が異なるだけだという。また、性的指向は本人の意思で選択・変更できない。よって、結婚によって得られる法的利益は、異性愛者であっても同性愛者であっても等しく享受し得るという。
「(前略)同性愛者のカップルは、重要な法的利益である婚姻によって生じる法的効果を享受する利益の一部であってもこれを受け得ないとするのは、同性愛者のカップルを保護することによって我が国の伝統的な家族観に多少なりとも変容をもたらすであろと推察されることを考慮しても、異性愛者と比して、自らの意思で同性愛を選択したのではない同性愛者の保護にあまりにも欠けるといわざるを得ない。」(傍点著者)
そして、異性婚と同性婚が制度上同じにならない――同じにできない――ことを繰り返したうえで、以下の通り判決を下している。
「以上のことからすれば、本件規定が、異性愛者に対しては婚姻という制度を利用する機会を提供しているにもかかわらず、同性愛者に対しては、婚姻によって生じる法的効果の一部ですらもこれを享受する法的手段を提供しないとしていることは、立法府が広範な立法裁量を有することを前提としても、その裁量権の範囲を超えたものであるといわざるを得ず、本件区別取扱いは、その限度で合理的根拠を欠く差別取扱いに当たると解さざるを得ない。」
「したがって、本件規定は、上記の限度で憲法14条1項に違反すると認めるのが相当である。」
結婚によって保障されている権利の一部でさえも法的に認められていないのは差別的であり、法の下の平等に反する――そう言ったのだ。
しかし、同性婚を全面的に認めたわけではない。
「さらに、同性愛者のカップルに対し、婚姻によって生じる法的効果を付与する法的手段は、多種多様に考えられるところであり、一義的に制度内容が明確であるとはいい難く、どのような制度を採用するかは、国会に与えられた合理的な立法裁量に委ねられている。」
つまり、同性カップルの権利を保証する方法は、同性婚だけではないのである。例えば、国制パートナーシップやその他の制度でもいいのだ。
実を言うと、この判決は諸外国で出た判決を踏襲したものである。
一九九九年、アメリカのバーモント州最高裁判所は、「結婚に付随する権利の一部でさえも同性カップルに提供しないことは州憲法に違反する」という判決を出した。これを受け、バーモント州はパートナーシップを定めることとなる。
二〇一〇年、イタリア憲法裁判所は、「婚姻とは男女の結合を指すものである」「ただし、同性カップルの権利を保護する制度がないことは違憲」という判決を下した。よって、イタリアでもパートナーシップ制度が作られる。
それと同じ判決が出たのだ。
では、そのような立法を今まで国会がしなかったことは、怠慢と言えるのだろうか?
これについても判決では退けている。
同性カップルの保護に国民が関心を向けるようになったのは比較的最近だ。そのような議論も今までされていなかった。加えて、同性婚に否定的な価値観を持つ国民も少なからずいる。このような訴訟も今までなされず、国会議員の認知が遅れたのも当然だ。
よって、同性婚が存在しないことは国会議員の職務怠慢ではないと述べ、国家賠償法も適用されないとしたのである。
「以上のとおりであって、その余の争点について判断するまでもなく、原告らの請求にはいずれも理由がないから、これらを棄却することとする。」
「よって、主文のとおり判決する。」
原告の主張は棄却された。認められたのは、婚姻による権利の一部でさえも存在しないのは法の下の平等に反するという一点のみだ。
しかし、その権利を保障する方法は同性婚だけではない。
これを「同性婚を認めないのは違憲」と報じたのは羊頭狗肉だったと言わざるを得ない――実際に出された判決は、同性婚を認める根拠は憲法から導き出されないというものだったのだから。
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