7.深まってゆく違和感。

いわゆる「LGBT」や同性婚のことは酷く引っかかっていた。


なので、私と同じ考えを持つ人はいないかと何度も検索をかけたのだ。しかし、出てくるサイトは、LGBT運動や同性婚を礼賛らいさんするものばかりだった。


電通が二〇一八年に実施した調査では、回答者の八割が同性婚賛成だったという。


そんなにも多いことに驚いた――反対派はもう少し多いと思ったのだが。


ちなみに、そのアンケートには「無回答」「分からない」がない。残りの二割が反対派だ。しかし、その二割の人々の意見が全くヒットしないのはなぜだろう。


出てくるLGBT礼賛らいさんの記事からも違和感は強い。


例えば、あるサイトにはこう書いてあった。


「差別って、する側も、される側も、本人が自覚していない場合がある気がするんです。自分の言動が差別だということを、まずその人たちに分かってもらうことが大事だと思いました。例えば、『同性婚は必要ない』と思っている人たちに、『その発想自体がもう差別なんだよ』と分かってほしい。」

『「僕」を通してゲイのことを知ってほしい 鈴掛真さん「ゲイだけど質問ある?」』

https://book.asahi.com/article/12059187


当事者の一人として私は同性婚に違和感を持っている。その考えがまとまらないので検索をかけたら、「発想自体が差別」と言われてしまった。


共産党のホームページには次の文が載っていた。


「同訴訟全国連絡会幹事長の中川重徳弁護士は『多くの人は小学校入学前から自らの性的指向や性自認を意識するといわれている。テレビなどで物笑いのネタにされ、それをシャワーのように浴びて育つことで自己肯定感をもつことが難しく、その関連か、自傷行為や自殺の割合も高い』と強調。『憲法の24条や平等権に照らせば、同性婚は憲法上の権利だ。提訴から5年で法制化を実現したい。ぜひ目標を共有してほしい』と訴えました。」

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2020-03-06/2020030603_01_1.html


――物笑いのネタをシャワーのように?


ぱっと思い浮かぶのは、『ヘンダーランドの大冒険』に出てきたオカマ魔女やレーザーラモンHGなどか。あれにしろ、私はケラケラ笑っていた。


同性愛者でも笑えるものならば何も問題はない。それとも、私以外の人は傷ついているのだろうか。


自殺率や自傷行為の話も首を捻ってしまう。


男が好きなだけで、なぜ死ぬのだろう。


統合失調症だったときは自殺を考えたこともある。自転車で走っているとき、ポーンと車道へ飛び出たら楽になれるはずだと何度も思った。


それなのに、精神障碍者は置き去りにされ、同性愛者が「弱者」として祭り上げられている。


ゲイが「弱者」扱いされるたびに、言いようのない苛立ちを覚えた。それは、性加害の記憶が強く残っていたためだ。彼らは、セクハラもすればレイプもDVもする男だ――女の心を持っているわけでもなければ、豆腐メンタルでもない。


憲法の問題については論外だ。


二〇一五年――共産党と同じ敵を私は相手にしていた。あのとき、『赤旗』の集金の人が持って来た陳情に私もサインしたはずだ。


そもそも、同性愛と異性愛が平等だとは思わない。


もちろん、人を愛するという点では平等だ。しかし、同性愛も異性愛も経験した私から言わせれば、この二つには明確な差異が存在している。


特に、養子の問題はどうなるのだろう。


――同性カップルに育てられる子供が苛められたらどうするのか。


と言うと、「苛める方が悪い」と言う人がいる。だが、好奇の視線に晒されることは間違いない。やるのなら、そのような子供へのサポートを充実させたあとでやるべきだ。


いや、苛めだけではない。


どうあれ同性同士で子供は産まれない。二人の父親・二人の母親のうち、どちらかは必ず他人なのだ――下手したら両方とも。


加えて言えば――同性愛者は。自分が育てた子供なら理解してくれると、なぜ言い切れるのだろう。


同時期、北野武の Wikipedia をたまたま読んでいた。すると、あるテレビ番組で北野がこう発言したと書いてある。


「同性婚が認められたら、そのうち動物との結婚も認められるようになったりね。」

「結婚した男二人が子ども育てるっていうけど、その子どもはどういう風になっていくんでしょうね。お前のお母さんはお父さん? とか言われんじゃないの。」


妙にすっきりした。


当然、「動物との結婚」が認められる可能性は低い。しかし、複数婚や兄弟婚ならまだありそうだ――そのような例は我が国にもあったのだから。


と言うと、「倫理的に許されない」とか「近親相姦は障碍児が生まれる」とかと反論する人がいる。だが、同性愛も「倫理的に許されない」と言われていたではないか。「どのような環境であろうと子供には同じ」なら障碍者も同じだ。


この発言について調べると、東洋経済の記事が出た。


「欧米ではビートたけしは時代おくれ? 欧米では次々と施策が進むが…」

https://toyokeizai.net/articles/-/12921


時代遅れと断言するからには、北野の言葉には明確な反論がなされているだろう――そう期待して読んだのだが、驚いたことに何も反論されていない。


ただ一言、「日本ではまだまだ理解が足りないと感じます」と一蹴されている。


――何の理解が足りていないのだろう。


そもそも、古くから同性愛に寛容だったのが日本ではないか。戦国武将から文豪に至るまで、日本の偉人はみな男色家だ。


しかし、男色が一般的だった時代でさえ我が国に同性婚はなかった。同性婚を求めるゲイを見たことがなかったのも、結局のところ必要性が薄いからである。


「欧米では理解が進んでいる」とか「日本は遅れている」とかという言葉はあのフェミニストの口癖だった。しかしLGBTについて調べると本当によく見る。


挙句、「最近になってようやく理解が進んできた」とも言われている。


――「最近」っていつだ?


「最近になって『LGBT』という言葉が広まった」なら分かる。しかし、具体的にいつから何の理解が広まってきたのか。「LGBT」という言葉が拡がる前と後とでは、少なくとも私の周りでは何も変わっていない――ただ変な連中が現れてきた以外は。


事実、私が見てきたゲイは、ただの男だった。


それどころか、私にとって彼らは「男性という異性」だ。たとえ「Bの男性」でも、私とは違うものだと感じる。なので、自分を「LGBTのB」と言うことには引っかかりがある。


今から考えれば、それこそが、私が孤立して悩むことになった原因だった。


自認では私は異性愛者だ。ゲイの気持ちなど、ほとんど理解できない。自分をゲイだともマイノリティだとも思っていないので、「マイノリティとしてのゲイがいる」と言われても他人事にしか思えない。


ゲイやバイと会うとき、一対一で会う。ハッテン場や掲示板などを通じて出会い、必ず二人きりになる。


そうして、何人もの男と出会っては分かれた。彼らにとって私の替えなどいくらでもいるし、私にとっても彼らの替えはいくらでもいる。


ゲイバーなどで、様々なタイプのゲイと分け隔てなく語り合うことはなかった。実際に語ってみれば、同性婚をしたがる人や、差別を受けた人とも出会えるような気もした。だが、そういう「男の集まる場所」が私は嫌いなのだ。一対一では男性と話せても、集団となれば苦手である。


なので、「どこか」にいるであろう「差別を受けた人」のためにも、同性愛者への差別を撤廃する運動があることはいいことだ――としか思っていなかった。


男性当事者として私は異端だ。しかも、自分がどこまで普通でどこから異常なのかも分からない。


私と会うとき、ゲイたちは浮かれている。そんな中、「あなた差別されたことあります?」なんて訊けるわけもない。そうでなくとも、込み入った政治の話をするのは何となく躊躇われる。


そもそも、最初から可怪おかしくはなかっただろうか。


「LGBT」という言葉をゲイから聞いたことはない。それなのにメディアでは異様なほど持ち上げられ、行政まで巻き込んで「理解しなければ」ならないと大合唱されている。


――まるで「待ってました」と言わんばかりに。


考えれば考えるほど、「LGBT」は変な言葉だ。


そもそも、「L」が先に来ている理由が分からない。「同性愛者」と聞いて多くの人がまず思い浮かべるのはゲイだろう。しかし「GLBT」ではないのだ。


加えて言えば、「両性愛者バイセクシュアル」に対応するものは「同性愛者ホモセクシュアル」のはずだ。しかし、「HBT」でもない。


そこに「T」が加わっているのは異物感が否めない。そういう人たちは身体を変えて異性愛者に混ざろうとするのではないのか。


しかも、いつの間にか「Q」という謎のアルファベットまでついている。


「Q」には二つの意味がある。


一つは、「自分のことがよく分からない」という意味の「クェスチョニング」。もう一つは、性的少数者の全てを意味する「変態クィア」だ。


それならば、「Qクィア」一文字でいいではないか。


しかも、「LGBTA」だの「LGBTTQQIAAP」だのという言葉まである。二つある「A」の一つは「アライ」――LGBT運動を応援する異性愛者のことだ。しれっと異性愛者まで入っている。


違和感や疑問を覚えつつも、話す相手はいなかった。結果、孤立した感情を私は深めてゆく。


いや、話す相手は一人だけいた。


とある極右団体に所属している年下のゲイだ。


最初は彼が右翼だと知らず、同性愛者の仲間として親しくなった。しかし私の部屋に来たとき、『北一輝思想集成』が本棚にあるのを彼が気に掛けたのだ。そしてお互いの政治思想を知った。


私は彼にメールを送る。


「君は右翼なわけだけど、LGBT運動や同性婚についてはどう思っているの? いつだったか、LGBTに生産性はないって言っていた国会議員もいたけど。」


やがて返信が来た。


「実は、僕も上手く言語化できてないんですけどね。杉田某とかネット保守の人たちは、アメリカのキリスト教右派みたいな思考が強いような気がして、それと日本の民族派とは違うのではないかという気がします。民族派の中には、LGBTに理解のある人もいますし。家族の在り方よりも天皇陛下万歳が重要では? と思いますね。」


これこそ、「LGBT」という言葉を、リアルで知る当事者から初めて聞いた瞬間である。


彼が右翼であり、私が保守であるように、性的少数者の中には右翼も保守もいる。


ところがメディアに取り上げられる「LGBTの人たち」は、同性婚とか差別とかと言い、奇妙なカタカナ語を濫発らんぱつし、虹色の旗を振っている。


彼らは私が知る同性愛者というより、「LGBT」だという気がした。

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