6.「LGBT」を盾にする変な人たち。

いわゆる「LGBT」に対する違和感が頂点に高まったのは、ツイッターを再開してからだ。


私の部屋にはテレビがない。なので「LGBT」に関する報道とも無縁だった。


ところがツイッターを再開し、そのような情報が目につき始める。


最初に目にしたのは、「同性婚が憲法違反だというデマが流れている」というツイートだ。


そのとき初めて、同性婚と憲法が衝突することに気づいた。


【日本国憲法 第二十四条】

「婚姻は、に基いて成立し、が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」


ツイート主の意に反し、このことを私は重く受け止めた。


二〇一五年に安倍政権が安保法制を通そうとしたとき、反対運動に私も関わっていたからだ。社会復帰に必死だったので深くは関われなかったが、安保法制が通って憲法の破壊が進むことを危惧した。


私は憲法九条改正派である。しかし、改めて軍隊を持つということは――戦争のできる国になるということは――、国家権力を抑制する憲法によって慎重に取り扱うべきことだ。


ゆえに、二十四条と同性婚の関係も無視できなかった。


あるフェミニストのアカウントと相互フォローだったことも大きい。


「欧米は進んでいるのに日本は遅れている」とよく言う人だった。


欧米では男女が平等に家事をするのに、欧米では夫婦別姓が実現しているのに、欧米ではLGBTへの差別を禁止する法律があるのに――それに比べて日本は遅れていると。


ある日のこと、女装コスプレ画像をツイッターに私は上げる。すると、「可愛いじゃない」という返信が彼女からあった。それが初めて交わした会話だ。ついでに、「眉毛の角を取ったらもっと女性らしくなる」というアドバイスももらった。


その日を境に、LGBTに関する記事を積極的に彼女はRTするようになる。具体的には、同性婚を推進する動画であったり、同性愛者が差別に立ち向かっているニュースであったりした。


もちろん、同性愛差別など私は受けたことがない。差別という点では、精神障碍者に対する差別のほうが根深く、深刻で、問題だと今でも思っている。


しかも、彼女がRTしたつぶやきは「何か変」だった。


違和感が分かり易かったのは、同性婚推進派が作った動画である。爽やか系イケメンのゲイが「僕は僕らしく生きたい!」と独りで叫び、それを若い女性が応援するという内容だった。


――このゲイに恋人はいないのか。


「自分らしく生きたい」とは何だろう。同性婚があってもなくても、その人はその人だ。どうせこの動画にカップルは写っていないのだし。


そういった記事の主人公がゲイばかりなのも気にかかる。レズビアンや越境性差トランスジェンダーを取り上げた記事はないのだろうか。


私は広義のゲイであり、ゲイが弱者ではないと知っている。しかもゲイの印象は悪い。私を騙して弄んだり暴行したりした彼らも「弱者」なのか。


ある日のこと、LGBT運動の記事を彼女がDMで送ってきた。そして、「こんな素敵な記事があったんですけど、どう思いますか」と訊いてきたのだ。


リンクの先には、同性婚を求めるゲイのインタビューが書かれていた。あのツイートも、どうやら私を意識してのものらしい。


当時の私はゲイだと思われたくなかった。「何で女装するんですか?」と訊かれたときは、「趣味です」「異性愛者なんですけどね」と返していたほどだ。


しかも私は同性婚反対派である。だが、はっきりした理由がないのに反対するのは憚られる。なので、そのDMには「私は異性愛者なので分かりません」と返信しておいた。


途端に、そのDMは削除される。


唐突だったので驚いた。


私が女装画像を上げたときには「可愛いじゃない」と言っていたくせに――そう思い、例のツイートを振り返ってみた。すると、「可愛いじゃない」と言ったものも含め、私への返信は全て削除されていた。


男性から「可愛い」と言われるより、女性から言われた方が嬉しい。それは、本物から認められたような気がするからだ。ゆえにこの仕打ちは痛かった。夢から覚めたら、瓦礫の街に横たわっていたような気分だ。


腹が立ったので、「私はノンケだ」とつぶやいた。これにより、私が「異性愛者」だということはフォロワーに知られる――嘘であるこの言葉は、徐々に私を苦しめていった。


それからも、「LGBT」に関する記事をしばしば彼女はRTする。


あるときは、男性の弱さについて書かれた記事をRTしていた。興味を持って読んでみると、記者が出会った二人の男性について書いてある。


一人目の男性は、男性として頼りになる人だったらしい。それがある日「肛門に指を入れてほしい」と言ってきたのだ。実際にやってみると、普段は強がっている彼とは乖離した姿が見られて、「ああ、こんなに弱い存在だったんだ」と思ったという。


これだけでも変なのだが、次に取り上げられた例も変だった。


記者がホステスとして働いていた頃のこと――ある男性客が、「同性婚が認められたら、同性愛者に育てられた子供が可哀そうじゃないか」と話を振ってきたのだ。記者は、「どんな親に育てられようと、子供にとっては同じでしょう」と言い、この男性のことを「可哀そうな人」だと思ったという。


首を捻らざるを得なかった。


なぜこれが「弱い男性」とか「可哀そうな人」とかになるのだろう。そもそも、同性カップルに育てられる子供が何を思うのかは私も気になる。「どんな」親に育てられても同じ――と言うのは、それが子供の安心できる環境だと言えないからだ。


一方、非実在児童ポルノに対して彼女は激しく批判していた。


実在しない児童――アニメや漫画に登場する児童――を扱ったポルノが、児童への性犯罪を助長させるかは議論がある。少なくとも私は懐疑的だ。もし規制するならば、非実在児童ポルノが性的虐待を助長させているというデータが必要となる。


こんなことを言うのは、私の古い知人に、アニメや漫画の児童しか愛せない男がいるからだ。


現実の女性に興味がない彼が性犯罪者となることは恐らくないだろう。では、明確なデータを提示することもなく、そのような創作物を彼から取り上げることは正しいのか。


ところが彼女は、LGBT、LGBTと言う割に、非実在児童ポルノに対しては「認識が歪むに違いない」と断言する。そして、同性婚を認めている海外は進んでいる、非実在児童ポルノを禁止している海外は進んでいる、けれども日本は遅れていると言うのだ。


この態度に私は苛立っていた。


ある日、小児を模した性玩人形ラブドールをニュージーランドが禁止したという記事を彼女はRTする。我慢できず、そのツイートに対して「いったい何のデータがあって禁止されたんだ?」と引用RTした。


「同性婚にしろ、反対する理由がないなら認めるべきかなと思って、不承不承のうちに賛成に傾いてきたのに、これだって何の理由があって禁止されたわけ?」


私のこの発言は周囲を退かせたらしい。


のちに、「反対する理由がないことは認めるべきだ」ということをフォロワーの一人がつぶやいた。それに応える形で、「誰かを好きになるのは、変えられないことだよ」と別のフォロワーがつぶやいていた。


やがて、例の彼女は、次のようなツイートをRTする。


「同性婚はLGBTのわがままだと思われがちだけど、歳を取った僕にはもう後がないんだよ。せめて死ぬ前に認めてほしいんだよ。」


違和感を抱くと同時に、何も言えない自分がいた。自分のことを異性愛者だと言ったのに、「同性婚をしたがっている同性愛者なんか見たことない」とは言えない。


――そんな奴、どれだけいるのだろう?


私は男性と結婚したいだろうか。


「結婚」というものに対して、前向きポジティヴなイメージをあまり私は持ってこなかった。それは、長いあいだ両親が不和だったためである。高校の時などは、自分は結婚しないと周囲に明言していたほどだ。


結婚とは、「一族を作る」ことである。相手方の家族も巻き込むし、子供もできる。


――結婚とは、「重たいもの」を抱えることなのだ。


結婚とは「制度」であり、「祝福」ではない。重要なのは、「同性婚をして何をするか」だ。「祝福されたい」というだけならば、現状でも「結婚式」を挙げることは出来る。


しかし、そんなことは思っても言えなかった。


同じころ、『宇崎ちゃんは遊びたい』の献血ポスターが問題となった。


「女性は胸がある人」という意識が欠落していた私は、あのポスターを見ても「下手な絵だな」としか思わなかった。だが、一般的な男性は女性の胸に酷く昂奮するらしい。何が問題視されているか理解したあとは、不快に思う人が一定数いるなら配慮は必要だろうと思った。


この件に彼女が激怒していたことは言うまでもない。ポスターを批判するRTを大量にしたあと、「自分の身体でもない者が意見をしている」と言った。


今までとは違う引っかかりを覚えた。


確かに、あの問題が起きたときは擁護派の詭弁も酷かった。「アニメ絵に嫉妬している」とか「煽情的な絵ではない」とかいう主張には私も呆れたほどだ。


しかし、自分の身体でもないゲイについて意見を述べていたのはこの人だ。


もちろん、女性にしか分からないことや、男性にしか分からないことはある。それでも、「男性だから意見を言うな」と言おうものなら性差別と同じだ。


いや。


私が引っかかったのは、そんなことではない。


この人は、やたらと「LGBT」を持ち上げていなかったか? そんな人が「自分の身体でもない者が意見をしている」?


「LGBT」の「T」とは何か。


ここまでの文を読んできた人ならば察しているだろう――何となくだが、自分は「トランスジェンダー」ではないかという気がしていたのだ。


だが、「トランスジェンダー」とは性同一性障碍を抱えた人のことではなかったか。つまり、性別適合手術を希望する人のはずだ。しかし、私は手術を望んでいない。ならば、私は「トランスジェンダー」ではないのか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る