第11話

(かわいかったなぁ…あの娘…)

 新谷署巡査、志賀晃平(しがこうへい)は派出所のデスクに座り穏やかな春の街並みを眺めていた。もちろん、制服を着て派出所にいる以上、現在絶賛勤務中である。ただし、志賀の目には街ゆく人々は映りつつも認識されず、思い浮かべるのはビルの屋上で会った彼女のことばかりだった。

 エレベーターから飛び出してきたのは、パンツスーツの若い女性だった。シャンプーだろうか、それとも柔軟剤の香りだろうか。爽やかな風を感じたような気がして、志賀は大きく予想を裏切られたと感じた。上司からは特殊犯のリーダーが屋上に行くから、手すりに設置された装置を案内しろと命じられていた。“特殊犯のリーダー“というフレーズから、志賀は屈強な大男か、鍛え抜かれた肉体を誇る丸坊主のアスリートのような男を想像していた。ところが、現れたのは若い女性で、しかも志賀好みの爽やか系。ほんの一瞬の出来事だったが、志賀はすっかり心を奪われてしまった。

(また会いたいな…。ちょっとサチに似てたな…)

 懐かしい少女を思い出し、志賀はその面影を中空に探した。しかし、望洋として掴みきれず、ただ派出所の壁を睨んでいるだけだった。鼓動が速くなっているのがわかる。志賀はゆっくりと呼吸し、気持ちを切り替えようとする。あの娘のことを考えよう。溌剌として爽やかなあの娘のことを。少しずつ落ち着いてくるのが自覚され、志賀は無意識に握りしめていた拳をゆっくりと開き、そこに何かあるかのように手のひらを見つめた。

(大丈夫だ。気持ちを切り替えよう。あの娘のことを考えよう…)

 それにしても本当にあの娘が特殊犯のリーダーだったのだろうか。志賀は多分、命令の行き違いか何かだと結論づけ、深く考えるのを放棄していた。ただ、あの爽やかな女子にもう一度会いたい。できればお付き合いしたいと、純粋にそう考えていた。

「何やってんだ、お前!ぼーっとしやがって!」

 突然頭を小突かれて志賀は我にかえる。

(そうだった。勤務中だった)

 志賀をどやしつけたのは同じ交番勤務の吉岡(よしおか)だ。

「呆けてる場合じゃないぞ。お前、報告書できたのか?とっとと仕上げちまえよ」

「あ、はい。すみません。もう大体は仕上がってるんですが…」

 志賀はそう言うと書類を差し出し「吉岡さん、見てもらっていいですか?」

 吉岡は志賀から書類を受け取ると素早く目を通す。

「うん、まぁ、こんな感じでいいんじゃないか。大体形式的なもんだろ。それにしても、なんで命令通り屋上で待機しなかったんだ?」

「いや、だってちょっと目を話した隙に、あの娘がいなくなったんですよ。もうびっくりしちゃって、飛び降りちゃったのかなって…」

「バカだね、お前。確認しなかったのか?ワイヤーで隣のビルに飛び移ったんだろ?手すりのところまで行けばシャーって滑ってるのが見えただろ?」

 確かに、屋上に彼女がいないことに気づいたら、駆け寄って確認すれば気がついたはずだった。

「すみません。パニックになっちゃって、エレベーターで下に降りて落っこちてないか確認を…」

「バカだね、お前」

 二度も言われたが、返す言葉が思いつかなかった。

「まぁ、お前のポカはいつものことだ。それよりも、紺野(こんの)だ。二丁目で目撃情報があったぞ」

「紺野って、あの埼玉の紺野ですか?強殺の?」

 一週間ほど前、埼玉県の国道沿いにあるネットカフェで事件は起きた。黒いパーカーのフードを目深に被り、マスクをした男が、店に入るなりサバイバルナイフのようなものを店員に突きつけ、金銭を要求した。

 深夜だったため、受付にはアルバイトの店員が一人、バックヤードにもう一人が休憩をとっていた。店内には他に客が十一人いたが、そのうちの一人が事態に気づき悲鳴を上げたのがきっかけとなってしまった。

 その女性客は店員に突きつけられているナイフに気付き、悲鳴を上げながら店外に逃れようとした。犯人は咄嗟にその女性客に切り掛かり、そのまま殺害。他の客たちも騒ぎ出したことが更に犯人を逆上させてしまった。

 女性客が動かなくなった後、店員にナイフを突きつけ、再度金銭を要求。店の売上金二十万円ほどを奪って逃走した。

「そう、その紺野だ。紺野康二(こうじ)。二丁目で目撃されて、ひのき公園の交差点で防犯カメラに写っていたそうだ」

「現場に落ちていた一万円札から指紋が出たんですよね?」

「ああ、被害者女性の血でクッキリ、母印を押したみたいにな」

 吉岡はそう言うと、志賀に向かってシャドーボクシングをするように拳を振るう。志賀はいつもの事なので動じることもなく「気合入ってますね、吉岡さん」

「ああ!これはまさに我が町の危機だ!危険な強殺犯がうろついている!俺たちにはこの町の人々の平和と安全を守る義務がある!」

 吉岡は見えない犯人を殴り倒すように拳を繰り出す。言葉にも自然に力が入る。

「なかなかいいパンチっすね」

 志賀はお世辞のつもりでそう言ったが、吉岡は「おう。これでも学生時代はボクシング部だったからな」

 そう言われると、それほどでもないなと志賀は思った。

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