第5話
「ウソでしょ?」
『ウソじゃないわ!』
司令から作戦を聞かされ、最初に出た言葉が「ウソでしょ?」だった。到底信じられる内容ではない。言う通りにしたらどんな恐ろしいことが巻き起こるのか、想像するだけで恐ろしいというのが、結衣の正直な感想だった。
結衣が今いるビルの正面にある高層ビルが本件の現場である。本日午前九時頃、複数の武装した男たちにビルの最上階にあるレセプションルームが占拠された。事件の発生を受けて、ビル内の関係者は全員避難したため、実態としては最上階のみが占拠されており、それ以下のフロアは今は無人となっている。最上階には政府要人が、これまた重要な会合のために居合わせており、今は人質となっている。そもそも、彼らを拘束するために犯人はこのビルを占拠したものと思われる。
「状況はわかりましたが、その作戦はちょっと…」
どうやら自分のなすべきことはわかったが、その手段については結衣は承服しかねるといった状況だ。司令から言い渡された作戦は、このビルの屋上からワイヤーを撃ち込み、そのまま滑空して現場ビルの最上階に窓から強行突入するという至って単純なものだった。
『なんだ?何が不服だ』
「だって、そんな危ないことできる訳ないでしょう?」
結衣は司令に食い下がる。
『危険は無い。いや、少ない。そのためのブリット・コートだ。だいたいお前はそういう危険な任務を遂行するために、この特殊班に抜擢されたんだぞ』
「そんなこと言ったって、危険なことには変わりないでしょ!」
言ってから結衣は「あっ」と声を上げる。
「司令、今、危険は無いって言った後、少ないって言い直しましたね?やっぱり危ないって思ってるじゃないですか?」
『う、うるさい!何事も絶対はないということだ!危険は全くないとは言い切れん。それでも、そのブリット・コートを着用している限りは撃たれても大丈夫。万が一そのビルから落ちたとしても、ワイヤーを発射する装備があるから、なんとかリカバリできるだろ』
結衣はその言葉を聞いて「違う!違います!」と抗議する。
『違う?何がだ?』
「私が危ないって言ってるのは人質です。ワイヤーを撃ち込んだ段階で犯人は絶対に突入に気づくでしょ!その上、私が突っ込んでくるんですよ!逆上して人質に危害を加えたらどうするんですか?」
その言葉を聞いた司令も鹿島も、一瞬言葉を失う。
(そっちか?そっちじゃないだろう…普通…)
司令は再度認識する。
(やっぱりこいつは…自分の身が危険に晒されることなんか、これっぽちも気にしていない…やっぱりこいつは…)
司令の眼がわずかに潤む。しかし、彼は気を取り直し『そういう事なら心配するな。お前が突入するタイミングで、別のメンバーがちゃんと陽動する手筈になっている。バックアップも準備している』
仲間を信じろ、と司令は結んだ。
「…わかりました。そう言えば仲間がいるんですよね。特殊班って言うくらいだから、私だけな訳ないですね。了解です。やりますよ。井荻さんを信用します」
『ありがとう…但し、井荻ではない。司令だ』
(このまま通す気?)
結衣は吹き出すと、吹っ切れたように屋上の手摺に向かった。
(嘘だろ…さっきのあの娘だよな、あれ…。落ちないかな?地上まで二五〇メートルはあるぞ)
先ほど結衣を誘導した警官がエレベーター前で戦慄していた。結衣は今まさに虚空に飛び出さんとして、アクリル製の手すりに立っている。彼女の足元にはあらかじめ設置された謎の装置がある。彼が屋上に来る前にすでに設置されていたものだ。避難梯の類だろうと漠然と考えていた。
(まさかあれで降りるのか?)
手すりに立つ人物は目を離したすきに真っ赤なスーツに着替えたようだが、体型からしても先ほど誘導した女性だろう。彼女が来る前、屋上には自分だけしかいなかったのだから間違いない。その彼女が今、支柱に掴まりながらもビル屋上の手すりに立っているのだ。“上“からは何も聞かされていない。ただ、屋上で待機し上がってくる女性以外は通すなと言われただけだ。
(かわいかったな…)
新谷署巡査、志賀晃平(しがこうへい)は場違いなことを考えていた。
「司令、準備オーケイです」
屋上の手すりにのぼり、角にある支柱を支えにして結衣が無線に呼びかけると『他のメンバーも配置についたな?』と井荻とよく似た声の司令が尋ねる。
無線を通じて複数の返答が聞こえた。男女合わせて三、四人の声。
『合図と同時にレッドはワイヤーを射出。目標は設定済みだから、赤いボタンを押せばいい。わかるな?』
「はい」
足元の機械には直径十ミリほどのワイヤーが数十メートル分は巻かれており、鋭利な金属がその先端に取り付けられている。あとは箱型の装置に赤いボタンが一つと、おそらくワイヤーを滑空する際に使用するハンドルのような器具が取り付けられていた。ボタンを押せばワイヤーが射出され、正面のビル外壁に刺さる。あとはこのハンドルをワイヤーにかけて飛び出すということだろう。別のメンバーが陽動するとは聞いているが詳細は不明。とにかく、手際よく迅速に突入する必要がある。人質を危険に晒すわけにはいかない。
『鹿島、いいな?』
『オーケイです。レッドがワイヤー射出のボタンを押したら、他のメンバーのゴーグルに作戦行動開始のタイマーが表示されます。各自、タイミングを合わせて行動を開始してください』
『よし、レッド、いつでもいいぞ。お前のタイミングでスタートだ』
司令の声を聞き、結衣は一瞬の躊躇もなく射出装置のボタンを押した。ワイヤーは正面ビルの外壁に刺さり、射出装置が撓んだ部分を巻き取る。一直線に貼られたワイヤーにハンドル付きのフックをかけると、結衣はまた躊躇なく屋上から飛び出した。一言も喋らず、逡巡もせず、わずか五秒の出来事だった。
「始まったな」
目標となるビルを挟み、結衣が飛び出したビルの反対側には街のランドマークである高さ四百メートルほどのタワーがそびえ立っている。その中程にある展望フロアに、青い[ブリット・コート]を身に纏った男が立っている。彼はレミントンM40A3を構えると、展望室のガラス越しに正面ビル最上階の窓を狙撃した。立て続けに五発全弾を打ち尽くすと、すぐに次の行動に移る。素早く薬室を開き弾を込めていく。
『オーケイだ。犯人が人質から離れて窓に近づいた。レッドもあと数秒で突入する。俺も準備できた。頼んだぞ。ワイヤー下の窓だ』
無線から声が聞こえる。さらに上層にある機械室で待機している男からだ。青い[ブリット・コート]の男は再装填を終えたライフルを構え「いつでもいいぞ」と応えた。
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