雷翁伝
山口 実徳
日本鉄道
明治17年頃、栃木県。
山の端から陽が昇り、広々とした田畑を黄金色に染めていく。
陽光が小さな家の窓から注ぎ、さあ今日も野良仕事に精を出せよと主人を家人を目覚めさせようとした瞬間、爆音とともに壁が破られた。
棚が落ち、鍋が転がり、桶は
家の者が悲鳴を上げて、一斉に飛び起きる。
壁に空いた穴の向こうには、目玉を剥いて歯を剥いて丸太を抱えるひとりの男が、舞い散る塵埃を浴び朝日を背負い鼻息荒く仁王立ちしていた。
「何だ何だ!? 家を壊しやがって!! 何てことをしてくれる!?」
想像もしなかった事態に突然襲われた主人は、激しい動揺と家を破壊された怒りに声を震わせ、家人は恐怖し身を寄せ合った。
しかし男は憤怒の表情を一切崩さない。目ヤニだらけの血走った眼球で、主人を厳しく睨みつけている。
「貴様こそ何だ! こんなところに家などを建ておって! 鉄道建設工場の邪魔だ!!」
元からここに建っていたのに、これから出来る鉄道に邪魔だと言われて腑に落ちるはずがない。
だが、鉄道網の全国整備は明治政府の一大国家プロジェクト、この百姓も近頃やって来た調査団に極力協力していた
しかしこれでは恩を仇で返された格好だ。
そうだ、この男は鉄道工場の監督だ。
野良仕事より早く仕事をはじめ、親方衆を督促するため一日中歩き回り、月が出るまで止めるなと檄を飛ばしている姿を見掛けた。
家に穴を空けるのは余りに酷いが、国家の威信を背負っているのだ。ここに鉄道が通り、寒村が近代化して発展するなら仕方ない。
それに線路が敷かれるならば、新しい家を補償してくれるだろう。
「ここに鉄道を通すのか?」
「誰がこんなところに線路を通すか! 遠回りになる上、汽車が登れん!! 線路は向こうだ!」
男が指差す先は、遥か遠くだ。この家どころか近くさえ通らない。
線路が敷かれないなら、代わりの家が補償されないではないか!? この男は、何のために家の壁をぶち抜いたのだ!?
「鉄道が来ないのに、何ていうことをしてくれるんだ!?」
「貴様の家が、測量の邪魔だ!!」
家人は抱き合ったまま呆然とし、主人もポカンと口を開け、力の抜けた肩をズルリと落とした。
「……測量……?」
「そうだ。この先の川を避けるべきか越えるべきか、越えるならば
顎に手を当て目を細め、難しそうに考え込んでいた男が突然、丸太を投げ捨てて主人の胸ぐらを掴んできた。
もう無茶苦茶すぎて何がなんだかわからない。主人はただただ狼狽えているばかりである。
「それが何だ!! ここに家が建っておっては満足な測量など出来ぬ! 貴様の家のせいで、線路が繋がらないではないか!!」
昔からある家一軒で、どうして恨まれなければいけないのか。
線路を敷けない、ここのほかに汽車が走れる道がない、ということなら仕方ない。
しかしこの男は測量が出来ないだけで家に穴を空け、今は胸ぐらを掴んでいる。
線路が出来ても、ここから動かなくていいのではないか……。
主人の怒りがふつふつ沸くと、男は再び丸太を抱えて壁に狙いを定めはじめた。
「やめてくれ! 家を壊さないでくれ!」
怒りは一変、懇願に姿を変えた。
主人は男に
「おい! やめろ! 沿線に迷惑を掛けるな!!」
寝ぼけ
「離せ! この家があっては、測量が出来ぬ!」
「馬鹿野郎! 東京大学で何を学んだ! この家を避けて測量しろ!」
丸太で壁をぶち抜いた火吹き達磨のようなこの男、どの親方よりも親方らしいが、まさかの東京大学の卒業生である。現場監督だから当然だろうが、つまりは官僚ということだ。
丸太の男はそれを抱えたまま、ずるずると引きずられていった。穴の向こうに真っ直ぐ伸びる畦道に、二筋の足跡が線路のように描かれていく。
「大日本帝国が鉄路によってひとつになるのだ! 国家の威信が懸かっておる! 近代国家を望むのならば、家一軒くらい捧げぬか!」
「いい加減にしろ! 米も野菜も家の者も造った鉄路を使うのだぞ!」
引きずられながら男はハッとし丸太を捨てて、畑から大根を引き抜いた。
「そうだ、
掴んだ大根をふたつに割って、そのままムシャムシャとかじりはじめた。
「畑のものを盗むな!」
「お前もどうだ、瑞々しくて美味いぞ」
「誰が食うか、馬鹿野郎!」
近頃、畑のものが無くなっていたのは、あの男の仕業だったか。しかし苛烈すぎて怒るに怒れず茫然自失になった主人に、かじった大根を散らしながら男が
「文句があるなら工部省鉄道局、
そう、丸太で壁に穴を空け大根を盗んだこの男が、仙石貢である。
その仙石を引きずっている男は、真面目な鉄道官僚としてコツコツと仕事をこなす。これからは彼の視線から、日本の鉄道発展に欠かせなかった仙石貢の功績を見ていこう。
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