雨声

鳥尾巻

雨声

「雨が降り続くと陰鬱な気持ちになるだろう?」

 

 断続的に降りしきる雨滴の音が川の傍にいるみたいだと僕は考えていた。目を閉じて聞いていると、時折ポタリポタリと窓枠に落ちる雫の音で雨が降っているのだなと現実に引き戻される。

 大きな窓の近くに立っていた男が振り返り、手首にはめた時計をちらりと見た後、僕を見下ろして溜息をついた。


「聞こえてる?」


「……なんだったかな?雨の話?」


 僕は湿気を含んだひんやりとしたリノリウムの床に頬を預けたまま、もごもごと答えた。男の顔は陰になって見えないが、軽く肩を竦める仕草で諦めとほんの少しの苛立ちが伝わってきた。


「こうも雨が降り続くと気が塞ぐなって言ったんだよ」


「いんうつ」


「なんだ、聞こえてたんじゃないか」


「陰鬱ってなかなか使わないな…」


 なんだか可笑しくなって唇を歪めると、艶のあるリノリウムの床が呼気で僅かに曇るのが見えた。ふう…と細く息を吐く。湿りを帯びた床が更に湿る。

 僕は目を閉じて再び雨の音に耳を澄ませる。水の流れる音。川の傍に立って濁った水の中を見ようと目を凝らす…想像。澱みの緑青、濁流の茶、飛沫の灰、波の白、全てを飲み込む黒。暗い。

 そういえば今は昼なのだろうか夜なのだろうか。雨のせいで部屋の中が暗く時間の感覚がない。こうして床に横たわっていると自分が床にしみ込んだ液体にでもなってしまった気がしてくる。だとしたら僕に話しかけてくるあの男は床と会話していることになる。

 僕はまた可笑しくなって息だけで笑った。


「可笑しな奴だな、君は」


「どっちが…」


 元々機嫌が良さそうには見えなかった男はさらに鼻白んだ様子で僕から顔を背けた。しきりに時計を気にしながら再び窓の外に目を戻し、ガラスを伝う雫を黒い皮手袋をはめた指で止めようとしている。外側を伝う雨雫をガラスを隔てた内側から止められる筈もなく虚しく指の間をすり抜ける。

 薄淡い光の差し込む窓辺に立つ男のがっしりした顎と意外なほど繊細な鼻筋のシルエットをぼんやり眺め僕は呟いた。


「今日は少し冷える」


「そうかな」


「寒いくらいだ…寒いな…」


 男はこちらを見ようともしない。気だるげに指先で雨滴を追いながら外を眺めている。雨が止むのを待っているのだろうか。

 僕は本当に床なのかもしれない。男は床と話す馬鹿馬鹿しさに気付いて口を噤んだのかもしれない。

 僕は床だ。床に流れ出た液体。僕の呼吸はもう床を湿らせない。床に流れ出た僕の液体。今日は冷える。寒い…とても寒い。寒いような気がする。もう何も感じない。僕の液体は全て床に流れ出てしまった。僕は虚ろな目で最期の息を吐き出した。


 男は窓枠から離れ感情の籠もらない目で物言わぬ物体を見下ろした。男は彼が死ぬのを待っていたのだ。

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雨声 鳥尾巻 @toriokan

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