第6話 倉持はつながる
土曜日の朝
街には人がにぎわう。
電気街にも、朝から、たくさんの人が押し寄せている。
そのビルのてっぺんに一人の男が立っている。
倉持はじっと、ターゲットが姿を現すのを待つ。
赤井の話によると、緑谷は毎週土曜日には、この電気街に姿を現すとのことだ。
倉持「…来た」
緑谷が駅から出てくる。
倉持はビルを渡りながら、緑谷を追いかける。
ラッキースケベはこういう時役に立つ。
この体質には、結果を無理やりスケベに結びつけるという特徴がある。
即ち、多少危険なことになっても、スケベるだけで済むのだ。
例えビルから落ちたとしても、途中でどこかの部屋に入り、着替えに出くわすぐらいで済むのだ。
倉持はその特性を利用し、しばしば、このような危険な行動をすることがある。
倉持「あそこの本屋か…」
倉持も本屋へ入る。
倉持は恋愛経験が少ない。
それゆえ、ナンパなどできない。
そこで、偶然を装って、休日の緑谷とコンタクトする方法を思いついた。
題して「同時に本に触れてドキッと作戦である」。
倉持はやや古典的であった。
そうこうしているうちに、倉持は緑谷のすぐそばまで来ていた。
緑谷は本棚の前に立っている。
緑谷が上の本に手を伸ばす。
倉持(いまだ!)
二人の手が触れる。
倉持「あ」
緑谷「え?」
倉持「緑谷さん。 奇遇…だね?」
緑谷「え? え? 倉持さん? どうしてここに」
倉持「いやあ、欲しい本があってね」
緑谷(BL好きなんだ…)
BLコーナーであった。
と、その横を、ドジっ子書店員が、コスプレ用グッズを抱えながら通ろうとする。
店員は自分の足に足を引っかけて、バランスを崩してしまった。
その時、一番上に置いてあった手錠が、まるで命を得たかのように跳ね上がり、倉持の左手と緑谷の右手をつないでしまった。
倉持「な…」
緑谷(何事…)
店員「ごごご、ごめんなさい。 今すぐ外します」
店員がポケットをまさぐる。
店員「ありましたー」
その時、床を黒い物体がはい回る。
店員「ゴ…ゴキブリイイイイ」
店員は思わず手に持っていたカギを投げつけた。
黒い物体は、自分に迫る脅威を避けた。
カギは勢いよく床に当たり、その反動で、窓から外へ出てしまった。
窓から下を見ると、カギは広告会社の車の上に乗り、そのまま、走り去ってしまった。
倉持にとっては珍しい事ではない。
女性と手錠でつながれるのも、2度や3度ではない。
しかし、倉持のラッキースケベに巻き込まれた経験が少ない緑谷にとって、この事態は異常な事だった。
倉持「壊していいですか?」
店員「えええええ。 待ってください。 この手錠はプレミアがついていて… 10万円するんです」
倉持「…それは高いですね」
店員「ええっと、スペアを探してみます」
倉持「えーと、同一商品はないですか? こういうものは、鍵も型が一緒だと思うのですが…」
店員「あー。 うちにはないですが… どこかのお店にはあるかもしれません」
倉持「…じゃあ、回りましょうか… その間、スペアもさがしておいてください。 見つかったらこちらまで…」
倉持は店員に連絡先を渡す。
倉持「緑谷さん…ごめんなさい。 巻き込んでしまいましたね」
緑谷「いえ… 噂には聞いていましたので…でも、本当にこんなことあるんですね」
倉持「それじゃあ、探しに行きましょうか?」
緑谷「あ…はい」
緑谷(何…この積極性は… 職場と全然違う…)
緑谷(でも…倉持さん… 前から少し気になってたし…これはイイ機会かも)
緑谷「ええ…じゃあ、回りましょうか…」
ラッキースケベ体質はこのように使われることもある。
もっとも、倉持もここまで奇天烈な事象が起こるとは思っていない。
ただ、接近するきっかけに利用しようとしたぐらいである。
倉持(よもや…手錠か… なかなかハードなものが来たな…)
倉持の予感通り、その後3店舗ほど回ったところで、緑谷が身体をよじり始めた。
倉持「大丈夫ですか? 顔色がすぐれませんよ…」
緑谷「え…ええ、大丈夫です。 ダイジョウブですよ」
緑谷「う…」
倉持はおもむろに、手刀で右腕を砕こうとする。
緑谷「ちょっと、待ってくださいいいいい」
倉持「お手洗いに行きたいのですよね? なら、私の右腕を切り落として…」
緑谷「いやいや、そこまで…させるわけに… わあああああ」
緑谷「ううううう… ううう」
緑谷が下半身をねじる。
緑谷「うー… すみません…一緒に… お手洗い…入ってください…」
倉持は緑谷をお姫様抱っこすると、すり足を用いながら、近くの多目的トイレに入った。
緑谷をトイレの近くに添える。
しかし、ここで、問題が起こる。
多目的トイレは便座の右側が壁になっている。
そのため、倉持と緑谷は対面せざるを得なくなる。
緑谷「…見ないでくださいね」
倉持「ええ、眼も鼻も、耳もふさいでおきます」
緑谷は倉持の目の前で、スカートの中に手を入れる。
つながっている倉持の手が太ももに当たる。
敏感になっている緑谷はその感触だけで、様々なことを想像してしまう。
ショーツを膝までおろすと、便座に腰をかけて、少し腰を浮かせながら、ちょっとずつ用を足す。
緑谷(ううう… ああ… 私、男の人の前で何してるんだろ…… ああ倉持さん…改めてカッコいいなぁ… ってこれもおかしいか… 私どんだけ、混乱してるの…)
緑谷は俯瞰視点で倉持を見ている。
さらっとした髪、長いまつげ、筋の通った鼻。
物語の主人公のような整った顔立ちに緑谷の胸は高まった。
そして、ふといたずら心が芽生えてしまう。
緑谷(…この顔…この綺麗な顔をうずめさせたら…)
緑谷は喉にたまった水分をグッと飲み込む。
左手でスカートをゆっくりたくし上げると、ふあさと倉持の頭にかぶせた。
倉持「あれ? 暗くなりましたよ」
慌てて倉持が目を開けると、眼前には、緑谷のすらっとした足…その付け根、その奥には雫滴る渓谷が見えた。
倉持はスカートから、急いで顔を出す。
倉持「緑谷さん… どうしたんですか」
緑谷「え…あ…… ちょっと、暑くって…」
緑谷は今しがた自分がしたことを振り返り、急に羞恥心がこみ上げてきた。
自分にこのような変態性が眠っていたことに緑谷は驚きを隠せなかった。
倉持と緑谷はコーヒーショップで一息つく。
緑谷は先ほどの羞恥を払しょくできず、赤面している。
倉持はいつものタンブラーでコーヒーを飲みながら、本を読んでいる。
倉持「本当に良かったんですか? コーヒー頼まなくて」
緑谷「え、ええ。 今喉は乾いてないので…」
緑谷(っていうか… またもよおしたら大変だし…)
緑谷(というか、倉持さん。 おかわりまでして…どんだけ飲むんだ)
緑谷はちらりと倉持の横顔を見る。
改めて、美形だと感じた。
緑谷はいわゆる腐女子である。
カッコイイ男性同士の恋愛を愉しむ性癖を有している。
その対象はもっぱら二次元の男性であり、実在の人間をネタにするほどではない。
それもあって、緑谷は実在の男性への興味を失いつつあった。
緑谷(なんで…こんなに倉持さんが気になるんだろう… … … なんか… 悪いな)
緑谷(私…何してんだろ…)
緑谷(こんな仲になってしまって… やりづらくなるだけじゃないの…)
倉持が緑谷の視線に気が付く。
倉持「あ、緑谷さん。 どうしました? やはりコーヒー飲みます?」
緑谷「ああ、いえ… あ… そ…そのタンブラー」
緑谷はタンブラーに気が付いた。
システム営業部に案内されたとき、そこのデスクに置いてあったことを思い出した。
緑谷「えーーと、確か… システム部の白銀さん? も同じのを持ってましたよ」
倉持「ああ、そうそう。 お揃いで買ったんだよ」
緑谷「え…」
緑谷(お揃い? そんなに仲良かったんだ… 確かに…そういえば昨日も一緒にいた… 偶然乗り合わせたものと思っていたけど…そういう仲なのか… とすると、倉持さんと白銀さんとの間で、何かしらの情報共有が行われている…と考えることもできる… 私と筑紫さんとの関係性にも気づいている可能性もある。 あえて書類の一部は提出を遅らせて、気付かれないようにしたのに…
いや、むしろ逆か…私と筑紫さんとの関係性に気が付いて、それで、旧知の仲である二人が対策にあたっている… そう考えた方がつじつまがあう。 じゃあ…今日のこの出会いも…偶然ではなく…私を探るため…)
緑谷は冷静に自分の状況を考えながらも胸の奥がツンとなるのを感じた。
緑谷(え!?)
緑谷は自分の反応に驚いていた。
目じりの端に生暖かさを感じていた。
緑谷(あれ… おかしいな… 考えるべきことが違うわ…今は、あのことについて考えるべき…)
緑谷の脳内に、これまでの倉持との関わりが思い起こされる。
短い期間ではあるが、懇切丁寧に仕事を教えてくれた。
遅くまで残って、自分たち用の研修資料を作ってくれているのも分かっていた。
毎朝、笑顔で挨拶をしてくれる。
困っているとさりげなく助け舟を出してくれる。
ピンチの時に、的確に指示を出し、みんなを先導する。
BLコーナーでの偶然の出会い。
放尿を見られたこと。
緑谷(ずっと…引っかかってた… 私は…この人を裏切っている… いつも感じていた痛みは…このせいか… 倉持さんだけじゃない…この会社はイイ人が多い… 金剛部長も黒田さんも青野さんも…)
緑谷(でも…今はそれ以上に… つらい… 白銀さんとのつながり… さっきまでの出来事がウソ…)
緑谷「…」
目じりの端から、とめどなく溢れ出る涙。
緑谷(…え…なんで、涙? え… 止まらない…)
緑谷の目の前にハンカチが出される。
そのハンカチには、緑谷の推しキャラがプリントされていた。
倉持「…どうぞ… 落ち着いたら…話ぐらいは聞きますよ」
緑谷「…あ…ありがとうございます」
緑谷(このキャラ… 私も好きなキャラだ…)
コーヒーを飲み終えると、倉持は緑谷を連れて、人通りが少ない公園へ向かった。
もちろん手錠につながれたままである。
ベンチに並んで腰をかける。
倉持「…先に私から、話しましょう。 実は私一つウソをついています」
倉持「私はBLはあまり読まないんですよ」
緑谷(あまり?)
倉持「同人誌って高いですよね。 だから、手が出せないんです」
緑谷「?」
倉持「それと、やおい穴という概念がどうも受け入れがたい」
緑谷「??」
倉持「古代ギリシャのようにスマタなら、納得できるんですけどね」
緑谷「???」
倉持「だから、最初の本屋で会ったのは仕込みです」
緑谷「…」
倉持「けど、今緑谷さんのことを心配しているのは事実です。 話せるだけで、いいです。 緑谷さんが話したいだけ、話してください」
緑谷「…」
緑谷は再び胸の奥から、こみ上げる衝動に押しつぶされそうになった。
しかし、その気持ちを押し込めて、少しずつ冷静に、自分の置かれた状況を話し始めた。
自分は他の証券会社からのスパイだということ。
最近顧客を伸ばしているこの会社の営業ノウハウを奪いながら、信用を落とす妨害をするように言われていること。
そのために自分と筑紫が派遣されたこと。
自分は最初、特に何も思わず、仕事の一環としてこなそうと考えていたこと。
しかし、短いながらも、この会社で働くうちに少しずつ戸惑いを感じるようになったこと。
それを紛らわすために、平静を装いつつ、いつも通りの行動をしようとするも楽しくないこと。
けど、今日倉持と会って… もやもやとしながらも… 大変な目に合いながらも楽しかったこと。
そして今、どうすればいいか分からなくなってしまったこと。
倉持に、助けてほしいということ。
倉持は全て聞いてから静かに頷いた。
倉持「分かった」
倉持は緑谷の頭にポンと手を乗せる。
倉持「何とかする」
緑谷は倉持の言葉で心底ホッとした。
ずっとつかえていたものが消えるのを感じた。
そして、どうしようもない思いから倉持に思い切り抱き着いてしまう。
その瞬間、ベンチは生き物のようにうねり茂みの方に飛んでいく。
乗っていた二人も投げ出される。
緑谷「いたた… ご、ごめんなさい… 私」
緑谷の周りに倉持の姿が見えない。
ふと、緑谷が地面に目を落とすと、倉持が下敷きになっていた。
太ももの間に、倉持の顔が挟まっている感触があった。
緑谷は驚いて飛びのく。
しかし、手錠によって、引き戻されて、バランスを崩し、倉持に胸元に飛び込む。
緑谷は倉持の心音を感じる。
同時に自分の心音の高まりを意識していた。
離れなければいけないとは思うが、しかし、もうしばらく…こうしていたいと考えてしまう。
倉持は緑谷の背中にそっと手を置く。
その手の温かみを緑谷はしばらく感じていた。
その後、ショップから、鍵が見つかったとの報を受けて、無事二人の手錠は外された。
倉持「すみません。 巻き込んでしまって」
緑谷「いえ…」
緑谷「…」
倉持「それじゃあ、また月曜日に」
緑谷「!」
倉持は立ち去ろうとする。
緑谷「…あ…」
言いたいことは山ほど、浮かぶ。
けれど、どれも自分が言うべきではないという気持ちが、言葉を押し込める。
倉持「不謹慎かもしれないけど… 楽しかったよ。 この件は私が解決するから、そしたら、普通に遊びに回りましょう」
緑谷「…は、はい」
緑谷は胸の中心から発せられる何かが、血液のように、全身を駆け巡るのを感じた。
そのさなかポケットに、何か入っている。
手を突っ込むと10,000円が入っていた。
緑谷「????」
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