其の弐

 工場の寮から、近くのアパートへ移り住んでいた僕の目前になぜか息を切らせた母親が現れた。やっと見付けた、散々探させて親に心配をさせて、と大声を出された瞬間、条件反射の様に僕は足が動かなくなってただ立ち尽くしていた。


どうやら母親は地元の役所に勤める男と交際しており、その男が僕の転居先を母親にバラしたのだ。産んでやった恩を返せ、あんなに苦労して育ててやったのに、親の生活費を工面するのは子供の責任だと母親は喚いた。誰だか不明な連れの男には親を何だと思ってるんだと恫喝された。


駄目だこれは、そう思った。


これからの何事の壁も努力で登れない。

死んだ方が良い。

本当に。

自分を守るにはそれしかない。


母親がアパートの鍵を合鍵共々寄越せと喚いたので、条件反射の様に渡した。男と母親はしばらくここで暮らすと言い、荷物を持って来ると告げて車で何処かへ消えた。


僕は財布を持って駅へ歩き出した。電車に乗って高い場所を探した。映画館のある商業施設の立体駐車場の最上階に決めて、自販機の陰で蹲り、途中で買ったノートに遺書を書きながら商業施設の灯りが消えるのを待った。


遺書には商業施設への謝罪と保護施設や学校の先生達、職場への謝罪と感謝の言葉を書いた。


最善を尽くしたと思う。

…一応、最善を尽くしたと、僕なりには思っている。


命が大事だと、保護施設の人達は教えてくれたし、そう思っているのは嘘じゃない。出来れば、そう、出来ればだが、…死ぬのは怖い。死にたくは、無い。


だが、この母親に見つかっては無理だ。

考えに考えた結論だった。

どうしても無理だと思ったから、自分を守るために自死を選んだ。

これ以上生きていても、死ぬよりもずっと辛いと断言できた。


僕は僕自身を守るために選んだ。


夜景も消えた深夜、僕は飛び降りた。



◇◇◇


「うんうん。生前のやりとりは書類と間違いないね。大変だったねえ。「一ッ橋五錠ひとつばし ごじょう」さんで間違いなしと。はいカードね。それ持って四十九番の部屋に移動してね。この部屋を出たら真っ直ぐ進んでくと、四十九って赤い文字書かれてる部屋があるから。そこで法界王ほうかいおうさんって人が待ってるから。一ッ橋くんね、ちょーっと特殊な案件に関係してるから。良くお話聞いてね。ああ、お給料は出るからね?生活の心配はないよ」


「……ああ、はい」


気がつくと僕は自死に至るまでの経緯をヒゲを生やしたスーツ姿の老人に話し終えていた。四方が白い壁の部屋で老人と向かい合って話していたのだ。疑問に思いつつもこうするのが自然な気もして、渡された書類の入ったクリアファイルを持って、老人に頭を下げ、部屋を出た。


この光景というか内装には憶えがあった。

何回か行ったことがある。生前の職安だ。


僕はふと、足に絡まる布に不信感を覚えた。自分の着ているものを見ると、白い着物姿で、これは多分「死装束」とかいうやつではなかろうか。

頭を触ったら、布が解けて手の中に落ちた。三角の、あの、例のやつだった。児童書に出てくる幽霊が良くしてるやつ。


見渡すと遠くに死装束の人が受付らしき場所に並んでいるのが見えた。

黒いスーツにワイシャツとネクタイの人が、生前の記憶の中での職員の役割をしていた。


番号で呼ばれて死装束の人が窓口で話す。

書類を渡されて移動する。

完全に職安だ。


僕だけは違うと言っていたが、確かにこちら側に死装束の人は来ない。

言われた通りに四十九番と書かれたドアを叩いた、なんて名前の人だったっけ?ホウカイオウ?


「すみません。あ、あの、……ここに行くように言われたんですけども」

「ああ、本人確認終わった?待ってた待ってた。さあ、どうぞ、座って」

直ぐにドアが開き、人の良さそうな笑みを浮かべ眼鏡を掛けた、青灰の髪をした長身の男の人が迎えてくれた。


「では、手続きしましょうか。俺は死生秘匿課しせいひとくか法界王ほうかいおう天海てんかいです。死んだ人はですね、船かバスかでここの死後の職業安定所に来るんですけど、一ッ橋さんは記憶が繋がんない状態でいきなり生前調査を口頭で受けることになってたかと思うんで、いやあ、ビックリしたでしょう?大変でしたねえ」


「あの、なんていうか、こう、実感が無くてですね。いや、就職に関してはそれで良いんですけど。あの、死んでも仕事とかするんですね。なんかこう。死んだら何も無くなってみたいな予想を立ててたというか。思い込んでたというか、意識とかなくなる的な、無に帰る見たいな」


僕が吃りながら身振り手振りで尋ねると、法界王さんは笑顔を崩さず答えた。


「ああ、特殊な人以外で地獄行きじゃ無い死人はですね、自動的に死んだ後に記憶の中に上書きされるんですが、死んでも別に生前と変わら無いです。腹も多少は減りますし感覚も感情も生前よりは鈍いですけどあります。繁殖機能だけ全く無くなりますので、子孫を残すとか結婚がどうとかの類いは決め事が無いです。それと、死後は男女の区別が無くなると考えて貰えば良いかな。性別は後で選べて変えられます。恋愛も男女の区別無く出来ますよ。後は、基本はお給料で衣食住を賄います。ただ生前の様に職場でパワハラとか違法残業とか、日常の対人関係でいじめとか嫌がらせとか詐欺とか死なないけど暴力沙汰とか一切ありません。まあ、多少の喧嘩とか意見の違いで言い合いとかはありますけど。話し合いで解決しますね」

「ああ、そうなんですか……」


法界王さんの話し方が特殊なのか、死人だからなのか、内容がスルスル頭に入って来る。


「それで、一ッ橋さんがどうして特殊な扱いなのかと言いますと、……一ッ橋さんの母親にあたる人が、今現在生きてるんですけども、生きてる状態で地獄へ行くことが決定しました。現世では警察や法律やらでの処罰に至らなかったので、こちらの上層部の会議で決定しました。なので、一ッ橋さんの自死は自死なんですけど、他殺寄りの自死という感じになります。それで、対象を捕縛して連行する際に立ち会って貰いたいんです。本当に本人か、の確認だけで構いませんので。それで、一旦秘匿課に就職すること決定してます。申し訳ないんですが、これは決定事項でして。すみませんね。なにしろ数年に一回あるか無いかの特殊事案なもので。もちろん案件終了時は、お好きな選択をされてくださいね。こちらが書類です」


紙は雇用通知だった。

給料は月額二十万円。

職務内容は「生前罪人の捕縛及び連行時の立ち会い。無理はさせません」と記載されていた。

死んでるから保健とか年金とか関係無い様で満額手取りで受け取れると注意書きがある。

銀行振り込みもできる様で、通帳の申請の仕方も記載されていた。

死後でも銀行とかあるんだな。


「あの、母親が地獄へ行くとして、その、生きている状態で死んで地獄へ行くんですか?」


「ああ、人間は死んだ時にたいての罪は救済されちゃうんですよ。結構な殺人犯でも自死したり、死刑になったりすると救済措置が取られてしまうので、全部では無いですが、罪が軽くなるんです。なので、割と軽めの地獄へ連れて行かれて帰って来て、この職安に来るって感じになります。これは決まり事で曲げられないんですよ。それで特例として、救済措置を受ける資格無しと判断されて、尚且つ現在生きて罪を重ねている人間は生きたまま強制的に地獄の一番下まで堕ちていただこうと、現世では蒸発や行方不明の扱いになりますが。人間、いつ死ぬかなんて割と分からないものですから、許可が降りていて、生きてる今がチャンスです。俺としては必ず捕縛して連行したいと考えてます。君への仕打ち、他の二十九人の乳児への仕打ち、詐欺や窃盗、不倫相手の奥さんへの恐喝嫌がらせ…この時、自殺者出てますね。こういった所業をかなりされてるんですが、逮捕歴が全く無いんです。上手く立ち回っておられるんでしょうが、逃げれば逃げるほど、こちらの方では罪は重くなります。これは復讐ではありません。正しく罪を裁いてもらう行為です」


法界王さんは声は優しげだが、眼鏡の奥の眼は笑っていなかった。


「……はい」

僕の他に二十九人も居たのか。僕は浮かんできた涙を掌で拭った。


「では事務所に行きましょう。隣のビルですので。そこでスーツに着替えて貰って。もう一人一緒に行動する子が居ますので、会わせますね」


僕は死装束のまま、法界王さんの後ろについて死生職安を出た。遠くに映画館の看板と商業施設の看板が並んで見えた。僕が飛び降りた商業施設はどうなっただろうか。迷惑を掛けてしまった。もう謝罪にも行けないけど。


法界王さんに案内された事務所の外観は、生前での警察署に良く似ていた。


◇続

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