第十四話 「キミさえいなければ世界は回る」



 朝、ゴミ出しに表に出ると向かいの家の玄関から吐息が出てくるのが見えた。


 夏休みの補講のためか制服姿、夏の朝によく似合う清々しさだった。


 俺はゴミを出し、アパートの入口で彼女の待つ。


 俺に気づいた彼女は、歩くスピードがゆっくりになり、ステップを踏むようにして近づいてくる。何度も俺の方にアゴを向けて


 「なにか、話すことがあるんじゃない?」


と、無言で会話を要求している。


 「おはよう、補講かい。学生は大変だね」


 「ええ、おじさんと違って学生は忙しいので」


 彼女は微笑みながら答える。しばらく余裕があるようで、足を止めて、まだ話をしたがった。


 「落谷さんと私の関係ってなんなんでしょうか?ただの隣人?」


 「ただのって、わけじゃないが隣人ではあるね」


 「じゃあ、友達?」


 「公の場で女子校生と友達とは言いづらいな、ノーだ」


 「じゃあ、恋人?」


 「ノー」


 俺のはぐらかしに彼女も反応しない。


 「じゃあ、家族?」


 「それこそノーだ」


 「それこそ、それこそなんなの?私達は」


 「そりゃあ…」


 俺が気の利いたことの一つでも言おうとした時、吐息の家の玄関が開いた。彼女の母親が出てきたのだ。俺はいそいでアパートの壁にその身を隠した。


 母親は吐息に今日のスケジュールを聞き忘れていたようだ。また友達の家に泊まるのか、等々話していた。仲が良好なのがすぐに分かった。あの吐息の母親なのだ、おそらくとんでもない美人なのだろう。あいにく俺は一度も会ったことがないし、会わせる顔もない。


 「もう大丈夫だよ」


 壁の上から覗き込んだ吐息が言った。母親は家に戻ったようだ。俺は壁に座り込んだまま彼女の顔を見上げていった。


 「これが俺たちの関係だよ。俺は君の、母親に挨拶もできないんだ」


 それを聞くと、吐息は寂しそうだった。




 俺の部屋に三人が集まり、三人のトーテムもテーブルの上に集合していた。それぞれが同じ様に動き、AIを搭載したロボット玩具が並んでいるかのようだ。そのうちの一体が切り出した。


 「ついに最後の魔物が現れる。魔物を倒すことによってオチタニの体からアビスの門は切り離される」


 「それは確定事項なのか?」


 慎重を期すために俺は確認した。


 「確定している。ワレワレには三千年に渡る戦闘の記憶があり、現れた門を破壊して侵略阻止し続けてきた」


 喋り手のトーテムが変わるが、どれが誰のトーテムかは相変わらず解らない。


 「その際、常に門の所有者は魔物と共に戦い消滅させられている。彼ら全て強固な破壊衝動に突き動かされた破滅願望者達だった。彼らとの関係は敵対しかありえなかった」


 「キミの特別性とはそこだ、オチタニ。キミの協力的態度は歴史に残る希少性だ」


 「本来なら、魔物は複数匹呼び出され、それよってこちらの被害は甚大なものとなっていた。歴史上、何十人も少女が犠牲となった」


 入れ替わりで喋るため、もはや、どのトーテムが喋っているのか分からなくなってきた。それでも、自分は役に立った、この少女たちの助けになったと認定されたことは喜びだった。彼女たちもその感謝の念を視線で伝えてきてくれた。


 「おそらく、キョウ、決着がつくだろう」


 今日から始まる最後の魔物化、これを倒すことで、俺の体から門が分離する。門は守衛のいない完全な無防備状態で現れることになるため、破壊は容易い。


 破壊されれば、再び当面の平穏が訪れる。


 次なるアビスから侵略が起こる、新たな門の所有者、破滅主義者の登場までの、恐らく数十年先までの…。


 破壊されれば、俺は門の所有者でなくなり、


 彼女たちは魔法少女ではなくなる。


 「私達の関係は?」


 そこで終わるのだ。








 「この辺も片付けないとねー、だいぶ荷物増えちゃってる」


 リンカが言うのは俺の部屋の隅に置かれた彼女たちの私物だ。化粧品からタオル、着替えまで置いてある。彼女たちが家に来るたびに置いていった物がけっこうな量になっていた。


 冷蔵庫の中もほとんどが三人の好きなものだ。自分たちで買ったものもあるが、俺がみんなのために買って揃えておいた物が多い。


 「でも、そのままでもよくない?どうせまた来るしー」


 エリが無邪気に言う。


 たしかに、全てが終わっても彼女たちは俺の部屋に来てくれるかもしれないが、今までのような頻度では無いだろうし、疎遠になる可能性は十分にある。魔法少女としての夜を越しての義務もなくなるし、夏休みが終わり、やがて彼女たちは高校を卒業する。中年男性の部屋に入り浸るようなことも無くなるだろう。


 今日までが特別すぎたのだ。


 「終わったらさ、焼き肉でも食いに行くか」


 「え、マジ?」「マジで?」


 よく食いつく。


 「もちろん俺のおごり、今までは中年が女子校生を連れ回すというリスクを恐れていたが、戦勝祝いだ。パーッとやろう」


 大盛りあがりするリンカとエリ。吐息は笑顔を見せるだけだった。


 部屋の隅に立つ彼女に寄り添う。


 「終わるんですね…」


 「ああ、終わる。それで良いんだよ」


 俺にかかっていた悪夢が終わり、


 彼女にかかっていた魔法も終わる。


 「これからは晴れてお隣さんだ、よろしくね」


 「フフ、お隣さんだったら、家族にも紹介できますね」


 吐息はさらりと怖いことを言った。吐息が、俺の背後に目をやると。


 「なに二人で話してるのよ」


 リンカが俺の背中に抱きついてきた。今日の彼女はキャミソールとショートパンツという出で立ちだ。密着することでゆるいキャミソールから胸と下着の紐がはみ出す。


 ぎゅーっと密着したリンカは


 「いった!」


 俺の首筋に挨拶のように噛み付いた。甘噛ではなく本噛みだ。首筋から血がにじむ。


 「ウギッ」


 それを見ていたエリが当たり前のように俺の横腹に噛みついてきた。


 「お前ら、焼き肉まで我慢しろ!」


 俺の言葉を無視して、俺の目の前の吐息まで、ハァァと口を開け、俺にその白い歯と舌と咽頭を見せつけたのち、首元に噛みついた。


 三人の少女に噛みつかれ、その部位から血をにじませ、痛みに悲鳴を上げながら、俺は彼女たちの強い思いを感じていた。


 別れを感じていたのだ。




 「でも実際、焼き肉だけって、寂しくない?」


 隣で寝ているリンカが言う。


 「でも、落谷さんにも予算の都合があるし…」


 逆サイドに寝ている吐息が俺の顔を見ながら言う。値踏みされているのか。


 「やっぱ旅行行こうよ、旅行、四人で。このあいだのとこみたいな露天風呂あるところで、ね、良いよね?三人一緒でも?」


 リンカが他の二人に了解を求めた。なんの了解を求めたのか分からなかったが、吐息とエリはすこし赤らんだ顔で頷いた。


 「…吐息姉さまとリンカならいいよ。フワァァ」


 俺の上で寝そべっているエリはすでに眠そうだ。もう時間は深夜の十二時を超えていた。今日はおしゃべりが長い。最後の夜をいつまでも終わらせたくない。


 「落谷さんが早く魔物を出してくれたら、すぐに終わるんですよ」


 吐息が顔を近づけて無茶を言う。出す出さないは俺の意思ではコントロールできない。


 俺の耳に吹き込むように、リンカが囁いた。


 「出ーせ、だーせ、だーせ」


 調子に乗った吐息も続く。


 「出して下さい、お願いします。早く出して下さい」


 この状況にされて寝れるわけがない。


 「お前ら、いいかげんにしろよ…」


 女子校生だって下ネタを言う。どこで知識を仕入れてくるのか…。


 彼女たちはくすくす笑った。


 平凡などうでもいい時間が、大切だった。


 時間はついに深夜の一時を超えた。


 すでに寝ているエリの可愛い金髪をなでながら、眠気の来るのを待っていた。


 リンカも吐息も無言で俺を見ていた。この最後の瞬間を記録するかのように。リンカが近寄り吐息も近寄った。二人とも俺の頬に頬を重ね。添い寝という形を壊して、一緒に寝ることを選択した。四人で寄り固まって、魔法が消える最後の始まりを待っていた。


 俺は肌に感じていた彼女たちが遠くなっていくのが分かった。眠りが訪れたのだ。


 ここから別のところに落ちていく、その予感を感じた時には、


 俺はもう眠っていた。




 俺は目を覚ました。


 俺が立っているのは俺の部屋だ。


 俺は布団の上に、浮かんでいた。


 しかし、ここは本当に俺の部屋なのか?


 まるで違う。まるで違う。まるで、明るい。


 俺のいた部屋と同じ間取り、同じ家具、同じ窓に襖、場所、方角、全て同じなのに、


 匂いが違う。


 俺の部屋はもっと、地獄だったはずだ。


 どこにいても辛かった、針が体から生えてくるような生きづらさ。自分の人生が嫌だった。


 自分が…負け犬だということに耐えられなかった。生活は呪いを吐き続けること、世界を恨み続けることだけだった。


 なのに、この部屋はなんだ?


 布団に、女が固まっている。何だこれは?その中心に寝ている、この男


 お前は誰だ?




 落谷が眠りに落ちた。いつもその眠る顔を観察していた少女たちは、すぐに分かった。


 彼が眠った瞬間、彼は消えて魔物として別の場所に出現する…はずだった。


 しかし彼はまだ布団の中にいる。彼は呼吸をしていない、というよりも完全に静止している。


 そして部屋が赤く濁った。


 吐息、リンカ、そして目覚めたエリが気づき見上げる。落谷のへその上空あたり、空中に男が立っていた。


 男は真っ赤になった部屋の中心で、真っ赤な目をギラつかせ、部屋の隅々まで見た後、布団のそばの四人を見た。


 その顔は、落谷落土その人であった。


 とっさに確認するが、布団には落谷がいる。そしてその上空にも落谷はいた。


 吐息達は混乱した。この二人は見た目はまったくの同一人物なのだ。しかし寝ている落谷の顔には安心感を感じるが、浮かんでいる落谷は…恐ろしく歪んだ精神が顔に現れていた。


 真っ暗な顔だった。落谷に感じた優しさも安心感がかけらもない。何をどうすれば人の顔はこんなに違ってしまうのか?


 どれだけ違う人生を過ごせば、こんなに顔が変わってしまうのか?


 吐息が別人の落谷に感じたイメージは「鬼」そのものであった。




 寝ている落谷と、浮かんでいた落谷の両方が消え、部屋は通常に戻ったが、遠くから破壊音が聞こえた。


 吐息、エリ、リンカはお互いの顔を見て覚悟を新たにする。今の不可思議な事態は一旦置いておいてでも、やるべきことがある。


 三人は変身をし、最後の戦場へ向かって飛んでいった。






 カランカラン、とダイナーのドアベルがなった。


 俺は入り口から入って、店内を進む。特に店員も出てこないので勝手に席を選ぶことにした。俺がテーブルに付くと、彼がそこにいた。顔のない美少年だ。


 「やあ、最終段階だね」


 俺はボーっとした顔をしていた。


 顔のないアイツはいつものように微笑を浮かべていた。


 「最終…?そうなのか?」


 「それはそうだろ、最後の魔物が出動して、今頑張ってる。応援してやってもいいが、戦局は不利だ。キミのせいでね」


 ダイナーの窓の向こうに戦闘の風景が一瞬見えた。吐息たちが最後の魔物と戦っている。


 「誰が操ってるんだ?俺じゃないよな?」


 俺はココにいる。あの魔物を生み出しコントロールしてるのは、誰だ?


 「契約の話をしよう」


 彼は書類ケースから分厚い書類を取り出した。それは古い紙と新しい紙がバラバラに挟まった、見るからに厄介そうな書類だった。


 「キミ、契約は?」


 「覚えてない」


 「了解、それはここでは通じるけど。他の場所じゃ通じないから気をつけてね」


 「知ってる」


 社会常識だ。ただ、彼との契約は現在までかなりナアナアで進んでいるようだ。


 「キミは契約を覚えていない。だが、ここにすでに署名済みの書類がある、それが今回の問題なんだ」


 彼は書類をこちらに差し向けて見せた。


 「きったねぇ字だな」


 確かに俺のサインが書いてあった。本当に下手な字なので、俺のだとわかる。


 「ワレワレはキミこそが、この時代でもっとも優れた暗黒の精神の持ち主だと確認し、アビスの門の所有者となってもらった。その精神の黒さときたら…」


 彼は俺の顔を見て肩をすくめた。


 「悪かったな、世界を憎んで過ごしたような、不適格者じゃなくて」


 「いや、キミはまさにその通りの男だった。ただキミは覚えていないんだ。だから今日は、キミに思い出してもらいたい…そうすれば、契約は完成する!」


 彼の目が輝き、ダイナーは消えた。


 彼は俺をいざない、どこに運んでいくのだろうか?




 雨が降っている。この雨音とアスファルトの濡れた匂いに覚えがあった。鼻は目よりも記憶している。


 「俺の、家じゃねぇか」


 アパートの俺の部屋の外に、俺たち二人は立っていた。季節はまだ夏前、梅雨の時期。そう空気が教えてくれた。


 「じゃあ、最初っから話をやり直そう」


 彼はそう言って、俺の部屋のドアを開けた。鍵は掛かっていなかった。


 「ここ、俺の部屋か…?」


 玄関から入ると、部屋は薄暗く、生活感がなかった。いや生活感はあるのだが、腐っていた。


 俺のいた部屋と同じ間取り、同じ家具、同じ窓に襖、場所、方角、全て同じなのに、


 匂いが違う。


 まるで、


 「まるで魔法が解けたような…」


 俺が住んでいる部屋のはずなのに、まるで別人の部屋だった。


 その部屋に、主である、俺がいた。


 仕事用の机に収まり、PCを操っている。汚れた室内着。目はモニターだけを見つめ、口は緩く、貧乏ゆすりが止まらない。奇声のような独り言を何度も上げていた。


 俺は、見ていられなかった。


 「なんだ、コイツ…」


 「キミだよ、ほんの二ヶ月前の」


 「嘘だろ、俺、こんな、こんな…」


 「こんな?」


 「こんなクズみたいな…!」


 俺は喉まで悲鳴が出かかっていた。鏡で自分の顔を見た時、いささかガッカリすることがあるだろう。そんなもんじゃない、鏡に写っていたのが腐り果てた自分の顔だった時のような気分だ。


 「そんなに悪く言うもんじゃないよ、自分の事を。世界が全部敵になったって、自分は自分を守るべきだ」


 「こんなッ…!何なんだコイツは!」


 椅子に座った俺がまた奇声を上げた。ブツブツと恨み言をつぶやいたあと、黙々と仕事を続ける。


 「カレこそが、ワレワレが見つけた宝石。世界を憎んだ男、オチタニオチドその人だよ」


 顔のない美少年は高らかに紹介した。この痙攣する中年を。


 「世界を憎んだ男?」


 「そう、アビスの門の所有者に選ばれるってのは、まあそれだけなんだ、資格も免許も求めないし、経験も年齢も国籍も不問だ。必要なことは、世界を憎みきっている。濁った目で世界を見つめている」


 「誰でも良かった?」


 「そこまで簡単じゃない。数値化はできないが憎しみが世界最高水準であることが必要だ。キ・ミ・は」


 俺の胸を指で押して、


 「世界ナンバー1だった」


 悪魔から勲章を与えられた。


 部屋の据えた匂いが耐え難くなってきた。自宅がどれほど臭かろうと住人は気にしなくなるなずなのに、俺はこの俺の部屋の匂いがたまらく嫌いだった。


 もう一人の俺が、俺達の気配に気づいたかの様に首を左右に振るが、何も見つけられず首をもとに戻した。その奴の顔…幸福が全て消え去ったかのような虚ろな表情、人に見られることを気にしていないボサボサの髪。


 だが、何よりも俺を腹立たせたのは、この男が発している「自業自得」の匂いだった。


 こいつは、選んでこの人生になっている。それなのに…


 「それなのに、このオチタニオチドという男は世界を恨んでいる」


 俺の心を読んだかのように、彼が続けた。


 「さあ、いつまでもココにいても仕方がない。時間を進めて、カレの最後の旅路を見てみよう。いかにして彼が世界を壊す破壊者となり得たのか? その行く末を見れば、キミの記憶も蘇るんじゃないかな?」


 顔のない美少年がそう言うと、俺達は違う場所へと向かっていった。


 もう一人の俺、落谷落土は俺をいったいどこに連れて行くのか?


 






 建物はすでに火に包まれていた。


 ここは、再びの競馬場…。そこに現れた最後の魔物は魔法少女たちが到着する前に破壊の限りを尽くしていた。魔物の目から放たれる光線が全てを爆破する。競馬場の殆どの施設がすでに破壊され燃えていた。


 到着した三人は隠蔽魔法を最大限にかけねばならなかった。外部との通信までも完全に遮断し、全ての市民からこの一角を完全に認識できなくした。




 戦闘が開始され、すでに数分が経過してた。


 彼女たちも感づいていた。この魔物は違う。


 首のないゴーレムタイプの魔物。三つの目それぞれから破壊光線を発する。巨大で凶暴。今までのような生ぬるさは全く無かった。


 動きに、憎しみと怒りがあった。


 落谷が変化した時にはない、圧倒的な迫力があった。


 それが示している事も薄々感じ始めていた。


 「この魔物の中には違う人物が入っている」


 三人の魔法少女の攻撃も、普段とはまったく次元の違う苛烈さであったが、この魔物の力はそれを上回っていた。




 俺の前を俺が歩いている。


 すべてが真っ白い空間の一箇所に歩き続ける落谷がいて、彼の足元だけに歩いている世界が映し出されている。彼の足元にだけ舗装された道が写っている。彼が今歩いているところは、駅の中?


 「これがカレの、昔の落谷落土の最後の旅の記録の始まりだ。覚えてるかい?」


 「…いや」


 俺は過去の俺を見る。白い空間の中、立体映像のように歩くモーションだけ繰り返している。顔は、いつも通り暗い顔だが、なにかに焦り急いでいるようだ。


 「少し時間があるから、話をしよう」


 俺と契約したという顔のない男がこちらを向き話をし始めた。過去の俺は、まだ歩き続けている。


 「恨みというのは美しいものだ」


 「そうか?」


 「恨みというのは、この世界に一つしか無い。一人に一つだ。全てがまったくのオリジナル。唯一無二の宝石だ」


 「幸福だって、人それぞれだろ」


 「ハッ!幸福? アレこそが類型化の極地じゃないか」


 顔のない男は心底くだらないという顔をした。


 「愛する人ができた、結婚した、子供が出来た、家庭が円満、孫が可愛い、老後は穏やか……心底ッ …どうでもいい」


 悪魔的な事を悪魔が言っている。


 「型通りだ。なにが多様な幸せだ。ありえない。全て同じパーツ同じ思想、同じという安心感じゃないか。そんな物がオリジナルなものか、芸術足り得るか!」


 「恨みだって変わらないだろ」


 「本気でッ 言っているのかい?恨みに、同じものは二つとない。


 時代×社会×境遇×価値観の二乗!


 同じ恨みというのはこの世に存在しない。全てが完全なるオリジナルだ!」


 「恨みが…オリジナル?」


 「そうだ、キミの抱える恨みはたった一つ、世界に一つだけの華だ。どうして他人が、キミと同じ恨みを抱ける?」


 「言われればそうだ、俺に恨みがあるとすれば、それは俺以外には理解できない恨みだ」


 「そういうことだ。キミの恨みはキミの胸でだけ輝く暗黒の太陽だ。それを他人に移植しても決して輝くことはない」


 「だが、幸福は…」


 もし幸福を他人から奪えたら、俺は幸福になれるかもしれない…一時だけなら。


 「ワレワレは長い探査の結果、キミという太陽を見つけた。恨み輝く炎の光でキミはワレワレを導いたのだよ」


 暗黒の太陽を抱えた過去の俺は、電車に乗っていた。新幹線? 彼の旅路は早回しされている。実時間ではない。次に見た時にはバスに乗っていた。


 「もうすぐ過去のキミの旅は終わる。それが現在の因果を生む結果となる」


 俺の前で歩き続ける男の顔が変わった。暗黒の決意に満ちた顔に穏やかさが一瞬だけ浮かんだ、そしてその足が早足に変わる。


 彼の周囲の光景は見えなかったが、彼の足元だけは見えた。舗装されていない地面、山か崖といった感じだ。


 過去の俺の足が早まり、駆け出した。


 「ここからが見どころだよ」


 俺の背後から奴が悪魔のように囁いた。


 駆け出した俺はある距離を走った末に、飛んだ。


 飛んだ姿勢のまま体は下に向かって回転し、地面に対して逆さまになった。風が髪をはためかしている。


 落下している。飛び降りたのだ。




 俺は、飛び降りた…その目的がなんなのか、考えるまでもなかった。


 「うそだ、やめろやめろ、止めろォ!」


 俺は叫んで止めようとしたが、過去の俺は映像だ。何もすることはできない。


 空中に停止した状態で落下し続ける俺。その下の空間に大きな岩が現れ、俺の顔はその岩に向かって…


 その瞬間、全てが止まった。


 俺の落下は止まり、なびいていた服も髪も停止している。過去の俺の再生は一時停止された。


 「ここだったんだよ」


 顔のない男がしみじみと言った。


 停止した俺は、岩を見開いた目で見ていた。恐怖ではなく喜びに口元を歪めて。


 「この瞬間にワレワレはキミと邂逅したんだ」


 腰が砕けて座り込んだ。俺は、自分の飛び降り自殺を見させられのだ。


 


 周囲の光が消え、暗闇となった。


 「これが、オチタニオチドが世界の破壊者たる理由だ」


 あの男の声が響くが、その姿は闇に隠れて見えない。俺はこの男が言っていることが理解できた。


 「世界とは、人と人が寄り集まったものでも、ましてや宇宙のことでもない。世界とは自分自身のことだ。自分こそが唯一の世界。作るのも、歪ませるのも、そして破壊するのも自分にしか出来ない」


 「理解が早いね。さすがワレワレが見込んだオチタニオチド=サンだ」


 俺は座り込んだまま動けなかった。


 「じゃあ、俺は、誰なんだ?」


 「それについての話はこれからだ」


 明かりがつくと、俺はあのダイナーにいた。


 






 カランカラン。ドアベルがなって店内に客が入ってきた。


 俺だ。


 落谷落土が初めての店でキョロキョロとあたりを見ながら入ってきた。


 すぐに彼は自分に向かって手をふる美少年を見つけた。俺は不信な顔のまま彼の方に寄っていく。


 「こうしてボクたちは出会った」


 感動的な物言いだが、自殺したばかりの男と、悪魔が出会っているだけだ。


 俺はその美少年から契約の様々な利点を聞かされその気になっている。ファミレスでよく見る光景だ。クソみたいな儲け話に丸め込まれる間抜け。今なら想像できる。俺が思っていることはこうだ。


 「クソみたいな人生を一発逆転できる」


 現実世界を破壊する事を逆転と考えるほどに、俺の精神は腐ってた。


 男が持ち出した大量の書類、それに適当に目を通した俺は、一ページも理解しないまま、その書類にサインした。


 その瞬間、俺の頭が破裂し、脳と血液がファミレスの窓いっぱいに飛び散った。


 「ここだよ」


 顔のない男は心底残念そうに言った。この瞬間、現実世界の俺の頭蓋骨が岩に激突し、脳を岩と海面にバラ撒いた。


 俺がアビスの門の所有権に関する契約をしたのは、飛び降りて死ぬまでの間の、ほんの数瞬の出来事だったのだ。


 「ワレワレのミスだ。キミが飛び降りの最中とは感知できなかった」


 「それは、残念だな」


 俺は、脳を飛び散らかして死んでいる俺自身の隣に座っている。


 「だが、ワレワレは手ぶらでは帰れない。契約もしてしまったのでね。そこでキミを生き返らせることにした。キミ自身、それは経験済みだろう?」


 俺は一度、首を切断されたが自らの修復能力で生き返っている。


 「キミの修復能力を使用して、キミを修復した。脳みその1グラムまで全て完璧に元に戻した」


 俺の隣の俺の死体はそのままだが、現実世界の脳が戻っていくイメージは見えた。


 「それで生まれたのが…」


 「俺なのか」


 「そう、新しいオチタニオチドだ」




 「キミの脳は完璧に直した。記憶も直した。神経配列も直した…だが、恨みは消えていた」


 男は本当に残念そうだった。


 「恨みとは、唯一無二の精神芸術だったのだよ。完璧な配列は一分の隙も許されない。あらゆる記憶が恨みの形を形作らなければいけない…ワレワレはキミを完璧に直した!だが恨みが消えてしまったんだ!」


 俺にも分かった。なぜ同じ記憶を持っていながら、俺と過去の俺はこんなにも別人なのか。


 「視点一つ、違うだけで人生は変わってしまう」


 「そういうことだ、いかにクソのような人生の記憶を脳に詰め込んでも、それが鋭い視点を作り出さなければ恨みにならない。記憶の重力を完璧に制御しなければ恨みにならない。もし一点が1ミクロンでも動いたら」


 「恨みは消えてしまう」


 俺の答えに男は頷いた。




 俺は自分の死体を隣に置いて、俺自身の誕生の秘密を聞いた。


 店の外では魔法少女たちと魔物の戦いは続いていた。彼女たちは傷つき苦戦していたが、諦める様子はなかった。




 「これがワレワレとキミの話だ。そしてこれからが、最後の話となる。ワレワレとの契約を巡る最期の話だ」


 俺の手前には店のメニューが置いてあった。書かれている料理名は全てマジックで消されており、この店の終わりを示していた。


 顔のない男は、また契約書のサインをこちらに見せた。


 「そのサインを書いたやつはコイツだ」


 俺は隣の死体を指さした。


 「そのとおりだ。キミは契約自体を忘れ、ワレワレに対して極めて不利益な行動を起こした」


 「確かに。だが契約違反ではあるまい。全部読んではいないが」


 「残念だが……その通りだ。キミは力を自由に使える。だが、契約にはいくつか特約がある、これとこれだ」


 男は見ずに分厚い書類の束から二枚引き抜いた。見せた書類は異世界の文字で書かれていて読めない。こんなものにサインした昔の俺はどうかしている。


 「簡単にいうと、契約した人間の精神複製をバックアップとして用意してよいというものだ」


 意味がわからない。そして契約書は常にそうなのだ。意味のわからない文章が書いてあり、それはつねに、契約書を作った人間に有利なありとあらゆる隠し技が書かれているものなのだ。


 「つまり、ワレワレは契約時の精神状態のキミを再生した。肉体はキミの物で、もうコントロール出来ないが、契約した瞬間の人間の精神コピーは作ることができる」


 隣で死んでいた俺の死体が飛び起きた。


 頭蓋骨に開いた大きな穴がふさがり、あの死んだような顔をした、昔の俺が蘇った。


 「ワレワレはこれを契約書の擬人化と呼んでいる。今度は失敗しない、恨みも完全に再現している」


 契約した時の落谷落度が俺の目の前にいた。世界を破壊した、あの目で俺を見た。


 ダイナーはバラバラに崩れ、底に現れた青白い肉体の中に俺たち二人は落ちていく。魔物の中に、二人の俺が投入されていく。


 「ここからは実験だ。キミたちと、あの少女たち、そしてキミたちの世界を使った。


 魔物が残り一体、門が一つ、だが契約者が二名もいる。これがどのような結果になるか、ワレワレにも解らない。さあ、始めてくれ!これが最後の戦いだ」


 顔のない男の言葉が響いて消えた。


 俺たち二人が魔物の体に飛び込んだ。突然のことに俺は溺れたようにもがいたが、そこは勝手知ったる魔物の中だった。


 俺は馴染みある魔物の体の中に浮かんでいたが、怪物を操る神経束が手の中にない。俺は魔物の体の中を探し神経網を見つけたが、その糸は俺を無視して何本も上部に向かって伸びている。その糸が集まり集まり、一箇所に集約する…その天の中心に俺がいた。


 もう一人の俺、過去の俺自身。


 過去の落谷落度が魔物のすべてを掌握し、世界の破壊者としての顔を現し、俺を見下ろしていた。



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