第三話「キミが眠るまでに」
「なにニヤニヤしてるんですか、気持ち悪いです」
「え、ニヤニヤしてる?そんな事ないだろ」
俺は自分のほっぺたを両手で触ってみる。いつも通りの頬だ。
「…ニヤニヤしてます」
「うそぉ」
俺はアパートの入口に立ち、木須屋さんは自宅の前に立っている。
道路の両端に立っている状態だ。互いの間には三メートルほどの開きがある。会話をする距離ではないが、木須屋さんが近づけさせてはくれないのだ。
「当たり前です、私とあなたが接近して喋っている姿が見られたら、私に悪い評判が立ちます」
「それは理解できるけど…」
自分のような中年が、嫌がる女子校生のそばで話しかけていたら、通報ものであるのは俺もわかっている。
火曜の夕方、学校から帰宅してきた木須屋さんに呼ばれ作戦会議をすることになったのだが、まさか路上で行われることになるとは。
「前回の魔物化が日曜でしたので、月火と二日経ちました。三日間のインターバルという過去の学びから水曜以降が危険だと…」
「ごめんなさいね~」
鈴を鳴らしながらおばちゃんの自転車が二人の間を通った。俺はそれを目で追った後、木須屋さんを見る。
「…危険ですので、そういう心づもりでいてください。発生時刻も深夜…」
今度は車が音を立てて通り抜けた。
それを目で追った後で木須屋さんを見ると、彼女は固まっていた。
「だから言ったでしょ、道路で会議は無理だって」
「じゃあどうするっていうんですか」
「ファミレスとか」
「却下です。もしも私の友達とかに遭遇したらどうするんですか。余計な説明に時間を取られますし、噂というのは尾ひれがつくものです。特に学生生活においては」
「じゃあ君の部屋」
「却下。百%却下します」
「ご家族がいるとまずいか」
「両親はこの時間でかけていますが、そうでなくても許されません」
彼女はそういって睨みつけた。先日の天使のような微笑みとはずいぶんと違う。
「じゃあ…」
「じゃあ?」
俺は、心の炎を最大にし、太陽の温度にまで加熱する。今から言う言葉から全ての不純物と不順な動機を滅却させなければいけないのだ。
「俺の部屋、来る?」
決まった。完全なるナチュラルフェイス。完全なるビジネスライク。完全なる大人の余裕。全ての純粋さと潔白さと誠実さを結集させた真に純粋無垢なワードをついに言い放った。俺はこの一言を言うために今日という日を迎えていたのだ。
木須屋さんの顔が、吹雪の中に立っているかのように凍りついていた。
「おじゃま…します」
玄関で小さく挨拶して木須屋さんが俺の部屋に入ってきた。
まず玄関の隣にある小さなキッチンを見て
「はぁ」
続いてほとんど書庫と化している六畳部屋を見て
「はぁ」
最後に南向きのリビング兼仕事部屋に入って
「はぁ」
しばらく周囲を見回した後で
「それほど汚くないんですね。驚きました」
綺麗なことではなく、汚くないことに驚かれた。中年男性の一人暮らしの部屋である。綺麗なわけがない。この部屋にしても、先日の死を覚悟した最後の掃除のおかげでマシになっているだけなのだ。「跡を濁さず」精神がこの部屋の感想を「不潔」から「汚くない」に格上げさせただけなのだ。
「そりゃどうも」
俺は内心の動揺をさとられない様に落ち着いた大人の様子を作り続けた。
部屋の中の輝きが違うのだ、彼女がいるだけで。部屋のルクスが上がる。香りが良くなる。空気が清浄化される。
心が沸き返るのを抑えなければいけない。
リビング兼仕事場で彼女と正面を向いて座った。
小さな折りたたみのテーブルとクッション。来客用のセットなんてない。食事用のテーブルとチェアーなんてものもない。独身生活には不要なものだ。
ようやく、世界の運命をかけた作戦会議が行える状態になった。
「まず…」
彼女が切り出した。
「まず、あなたのお名前を教えて下さい」
「え?」
お互い、自己紹介もまだだった。名前も知らずに、ここまで突っ走ってきたのだ。
「郵便受けに落合(おちあい)とあったので、名字はわかりましたが」
「落合(おちあい)じゃないです、オチタニです」
俺は財布を取り出して、仕事用の名刺を渡した。女子校生である彼女は当然、名刺をもらったのは初めてのようで、珍しそうに手にとって眺めた。
「落合落土(オチタニ オチツチ)…?」
「オチタニ オチド です」
「
「生まれた頃から同感です」
三〇年以上、その名で生きてきたので、まったく同感するしかない感想だった。
「そちらは、木須屋さんでいいんだよね?」
俺は確認した。名字は表札で確認済みだが、彼女の名前は知らない。
本名を聞かれた彼女は正座している姿勢を正して言った。
「私の名前は、キスや吐息です」
「ハイ?」
聞き返された彼女の顔は赤い。覚悟を決めもう一度繰り返した。
「木須屋吐息(キスヤ トイキ)です」
俺はようやくその文字の並びを理解して
「吐息…」
思わず呼び捨てにしてしまったためか、彼女の肩がビクリと上がった。
「お互い、親のネーミングセンスに苦労してるみたいだね…」
さすがに慰めの言葉が出た。彼女の美貌と人格からすれば、男子にからかわれる事があっても、苛められる様な事はなかっただろうが。
「あの、
「まあ、何回かは…」
「すごい!やっぱり大人なんですね」
自分の両親に付けられた名前がどうかしてる、と文句を言うことが凄い事になるのだろうか。
「いや、木須屋さんも言ってみれば、素直に」
「まだわたし、親に養ってもらってる学生の身分なので、それに愛情込めてつけてもらった名前がいやとか言ったら、お母さん悲しむだろうし…」
「じゃあ、成人したら。一回位はいいと思うよ、言っても」
「そ、そうですよね。一回言うくらいは…成人したら…」
自分の名前に関して、そうとう気にしていたようだ。
「あの、お仕事はなにを?」
部屋の隅に置いてある仕事用PCと液晶タブレットをチラチラ見ながら尋ねた。
「名刺にもあったように、フリーのイラストレーターです」
俺はIPADを持ち出して、自分の仕事のサンプルを見せた。カードゲームのイラストを仕事で描いたものだ。
「へ~~、へぇ~~~、あ、これ知ってます!」
先程までと違い、妙にウキウキとしている。こういう仕事部屋に来たのが初めてなのだろう。俺も悪い気はしなかったが、なにか本筋からどんどん離れていっている気がしていた。
「トイキ、いい加減にしないか」
同じ様に思っていたらしく、吐息の髪の毛の中から、プラスチックのフナムシ、ソダリーが現れた。
「あ、そだ。ゴメン。うぉっほん!」
吐息はわざとらしく咳をし、テーブルの上のIPADと名刺をきれいに並べた後でようやく本筋に入った。
我が家に訪れた魔法少女、木須屋吐息とそのパートナーは本題を話し始めた。
「つまり日曜から数えて三日後、水曜の深夜に俺はまた怪物になって暴れると」
「三日後から五日後あたりがもっとも可能性が高い。二日というのは今までの歴史上なかった」
今答えたこの奇妙な魔法生物ソダリーは、実になめらかに人間の言葉を喋る。ただ、なめらかすぎて逆に不気味である。
「今までのアビスの門との戦闘の記録が、このソダリーの中にあると?」
「そうみたいです。この戦いに関してはナニからナニまで知っているみたいで…」
「トイキ、余計な情報をこの男に与えるな。この男は共闘者ではない、強いて言うなら敵組織の内通者だ。こちらの情報が向こう側に漏れる可能性もある」
ずいぶんな言われようだが、実際、俺は俺自身の事をわかっていない。魔物化するのだから敵対者そのものであるというのは事実だ。
「ソダリー、失礼だよ。そんな言い方」
「大丈夫だよ木須屋さん。俺も俺自身が信用できない。与える情報は最小限でいいよ」
「トイキ、何度も言っているように、歴代すべてのアビスの門所有者は、世界に対する憎しみに溢れた破壊願望者だった。奴らはその悪意ある意思を魔物、アビスマルに乗せて暴れまくった。歴代の何人の魔法少女が奴らと戦って散っていったか…」
小さな生き物はヨヨヨと泣いているようだ。木須屋さんはその小さな背中をやさしくさすった。
「でも、ほら。落谷さんはそんな危険人物に見えないじゃない。ちょっと怖いけど、普通の大人みたいだし」
「ヒトは見た目ではわからない」
「人は見た目ではわからないよ」
俺とソダリーの意見と声が一致した。意見が一致したのなら仲良くすればいいものなのだが、俺とソダリーはお互いを睨んだ。
「俺が言うのもなんだけど、木須屋ちゃん。魔物に変身する男の部屋にホイホイ入ってくるのは、ちょっと不用心だと思うよ、今更だけど」
「…ちゃん?」
彼女の顔が少し固まる。右手をすっと差し出すと、その手の先から、槍の穂先が飛び出した。穂の部分だけで刀といっていいくらいの大きさと厚さ、ギラリとした刃が頬をかすめる。
「トイキには変身前でもある程度の力を与えている。変身すれば、どの程度の火力を有しているか、キミなら知っているね」
「ハイ、もちろん」
そう返事するしかない。彼女には二度ほど消滅させられている。木須屋さんは刃物をこちらに突きつけながら、
「最初に出会った時にいいました、あなたを殺すと。それは今でもそのつもりです。もしあなたが、やはり怪物そのものであるとわかったら、躊躇なく実行します。そしてその後悔を私は生涯背負っていくつもりです」
それだけ言って彼女は刃を下ろした。刃は手の内に消えていった。
「わかってる。君に後悔させない。人生をかけて努力するよ、木須屋さん」
冷や汗をかきながらも、そう宣言した。
「ですから、二日後の水曜深夜から始めます」
木須屋さんは俺のIPADのカレンダーにスケジュールを書き込む。俺の空っぽの予定に女の子との予定が入った。
「始めるって、なにを?」
「この日から落谷さんが怪物になるまで、深夜の張り込みです。夜中になったら、こちらに毎日うかがいます」
「え、ナニソレ?」
「キミがアビスマルになるのは、キミが就寝中の時だ。肉体は消えてアビスマルとして現場に瞬時に出現する」
「だから私達が夜中、あなたが寝るのを見張っています。出現したらすぐに迎撃に動けるように」
「別に見張ってなくても、出現してから駆けつけたら?一分一秒争うわけじゃないし」
「たしかにキミの再生能力があれば建築物の再生は可能だ、だが爆発や炎上で周囲に被害が広がったらどうなる?」
「今日まではなかったですが、人的被害が出た時はどうなりますか?もしも落合さんが人を殺してしまった場合は?」
木須屋さんの目は真剣だった。もしも人死が出た場合、その罪は俺だけのものではなく、彼女のものにもなってしまう。それは彼女の心と人生を大きく傷つけるだろう。
「まあ、それは納得したけど、どうなの女の子が夜中に、こんなおっさんの寝床にいるって…」
ガスっという音がした。木須屋さんが背中に隠した手から伸びた槍が、天井に突き刺さっている。
「なんの心配も、いりませんよね?」
ニッコリと、まったく笑っていない笑顔で木須屋さんが尋ねる。
「モチロンですよ」
俺は全霊を込めて答えた。
木須屋さんが帰宅する。夕食時をやや過ぎている時間帯だ。玄関で靴をとんとんと履く彼女の姿を少し上から眺める。
「じゃあ、そういことで」
なぜか彼女が少しうつむきながら片手を差し出してきた。最初は何のことかわからなかったが、契約成立の握手のようだ。
「じゃ、気をつけて帰ってね」
俺が握手をしてお別れを言ったら、彼女は小さく吹き出して
「家、隣だよ。どう気をつけるの?」
と笑った。手は握ったままだ。
「わかんないよ、道路一本挟んでるからね」
「じゃあ、気をつけるから」
彼女は手をゆっくり離して、玄関から去っていった。
部屋の温度と輝きが急に失せた。
わずかに、彼女の温度が手に残っていた。彼女は何度も俺と契約した。俺が裏切らないように、彼女の覚悟が薄まらないように。彼女の使命を理解して支えることが出来る人間は、敵である俺だけなのだ。そのことだけは少し嬉しかった。
俺は大きく伸びをして部屋に戻る。
さっきまで彼女が座っていたクッションが目に入る。まだ彼女の存在が感じられるクッションだ。
俺はそれを足で部屋の隅に避けた。
見えないところでの行動を、信頼と呼ぶのだ。彼女に信頼される人間でありたかった。
「…部屋の掃除するか」
念入りにしなければいけなかった。
掃除の猶予は、彼女が再び来る明日の夜までだ。時間はない。徹底的にやらねばならない。
水曜日の夜中、八時を回ったあたりから俺のソワつきは始まった。隅々のホコリを気にしだし、歯を磨き、トイレの汚れを確認する。
しかし、十一時を過ぎても彼女は来なかった。仕方なく布団をひき、就寝に入る。
「今日、これからホントに魔物になっちゃうのかな、俺」
とにかく初めての不安が多すぎる。
布団に入ったが明かりは消さず、ただ待ち続けた。
「ガチャリ」と玄関の開く音がした。たしか鍵はかけたままである。俺は布団から動かず待った。女性の軽い足音が近づいてきて、フスマを開けた。木須屋さんが入ってきた。
俺は布団に寝たまま
「もう寝ます」
と状況を説明した。
「わかってます。お風呂入ってました」
彼女は普段着というよりも室内着で枕を持参していた。布団のそばに立つ女性の存在に俺の心臓が早まる。
彼女はまず、手の中から長い槍を取り出して、布団の横にゴロンと置いた。槍が俺と添い寝をする形だ。
「境界線です」
「…了解です」
顔の横に刃物があったらそう答えるしかない。
枕をぽふっと槍の隣に置いて、彼女は照明を消して…
木須屋さんが俺の隣で添い寝をはじめた。
槍のデッドラインの向こうに彼女がいる。急に暗闇になったため、彼女の顔がはっきり見えない。
「こっちを向かないでください」
彼女の冷たい命令が聞こえたので、俺はぐるりと背中を向けた。正直、この方が安心した。とてもじゃないが彼女の方を向いては眠れない。
暗闇の中、背中の神経だけが敏感になる。彼女のわずかな呼吸音に鼓膜が反応する。
「あの、眠れそうにないんですが」
「がんばってください」
励ましもぞんざいで良い。
布団に入り時間がずいぶん流れたが、神経は一向に休まらない。どうしたものかと思っていたら。
「あの、まだ起きてますか?」
彼女の方から話しかけてきた。
「ハイ、眠れませんので」
「あの、落谷さんがアビスマル…怪物になってる時の本体って、頭の部分にあるってことでいいんですよね」
「・・・・・・そうですね、二回とも頭だったと思います、なんで?」
「次に戦う時、間違って本体を破壊しないためです。二回とも頭以外に大ダメージを与えたら倒せたから、次からもそうします」
「…よろしくおねがいします」
再び、無言の時間になった。
「何時くらいにナルのかなぁ」
「フアァ……あなた次第です。もしかした今日じゃなくて明日かもしれないし…明後日かも…」
「なったらすぐ分かるものなの?」
「……」
返事がなかった。
しばらく待って反応がなかったので、ようやく体を返した。
彼女の寝顔が見えた。
スースーという静かな寝息が聞こえてくる。洗いたての柔らかな髪が、夜の闇の中でもわずかにきらめいている。自分の顔よりも遥かに小さい顔が無防備に目の前に存在している。
その美貌と愛らしさの吸引力は恐ろしいものがあった。自分の顔が吸い寄せられていくのが分かる。目と鼻と耳がさらなる深度の感覚情報を求めて開かれる。
目の前の刃物がキラリと光ったように見えた。
顔をすーーっと元に戻す。しばらく静止したが彼女は動かない。硬直したままの俺は、問題のなさそうな箇所として木須屋の肩をトントンと叩いた。
「うん・・・」
「君が寝ちゃ駄目だろ」
「ゴメンなさい。最近、夜メチャクチャで」
彼女は目を覚まして、ゆっくり伸びをする。ようやく眠気が覚めて目の前の俺の顔を見る。
「こっち見ないでって言ったじゃ、フワァ~~」
「俺のせいで寝てないんだね。夜中から朝まで色々あったからね」
「そうです、落谷さんせいですよ」
「話しよっか、寝ないために」
「そっちは寝なくちゃいけないんでよ…」
「眠くなるまで」
「…眠くならないため」
ほんの少し、話をすることに二人で合意した。
「どうして魔法少女になったの?」
「それは、色々聞いたからで…使命とか平和、みんなを守るためとか」
彼女はずいぶん眠そうだ。
「真面目だね」
「そうじゃないです、そうじゃないですよ。なった最初の理由が、空を飛べるって言われたから」
「なるほど、即物的な理由だね」
「だって、最高じゃないですか。飛べたんですよ、私」
「たしかに、スゴイ。俺なんてでっかくなっただけだし」
「でしょ。でもほんとに魔法少女やらなきゃって思ったのは、落谷さんとあってから、いや、落谷さんが怪物になって、競馬場壊してるのを見てから。これは、ほんとに、ホントなんだって」
「ゴメン、俺のせいで」
「…そうです、しっかりしてくださいよ、ほんとに大人なんだなから」
「ごめん」
暗闇の中、彼女の目が楽しげにキラリと光る、遠慮なく彼女が顔を近づける。
「…これ、秘密なんですけど。世界が危なくなって、怪物と魔法少女が戦ってるって。知ってるの私達二人だけなんですよ」
「ああ、僕らの八百長を知ってるのは、世界で二人だけ」
「せっかく、こんな夜中まで頑張ってるのに、誰にも褒められない、ちょっともったいないかも」
「…俺は感謝してる…君がいたから、俺は救われた…」
「……部屋が暗いからって、恥ずかしいこと言わないでくださいよ…」
「……」
「……落谷さん?」
木須屋の目の前にいたはずの男の姿が消えていた。彼が寝ていた布団は僅かの間、空のドームを作っていたが、すぐにフワリと潰れた。その横に寝ていた木須屋は手を伸ばし、まだ暖かさの残る枕をそっとなでた。
スッと立ち上がった木須屋。
「変身します」
「了解した」
彼女の首元に現れたソダリーが了承する。
彼女を中心にして光の粒子が球体を作る。それが中心の一点に加速され彼女の体内で衝突しエネルギーを生み出す。体内で発生した膨大なエネルギーが彼女の体を輝かせ、光の渦が部屋中を照らす
窓から飛び出した木須屋は上空から市内を捜索する。彼女の強化された視力は魔物の放つ魔力の色を見逃さない。
「あっち、野球場の方!」
見つけた方向に向かって全力で飛んだ。
魔物となった落谷が、孤独に待っているからだ。
F市、市民球場。収容人数5千人のスタンドが整備された市営の球場である。
そのグランドに一匹の巨大な魔獣がいた。頭から尻尾までの長さがピッチャーマウンドからホームまで届くほど。四足獣型であり、なおかつ首から三つの頭が生えている。いわゆるケルベロスタイプの魔獣だ。
この魔獣、グランドに顔を伏せの姿勢でとどまっている。すでにスタンドの一部は破壊されていた。まるで留守宅を破壊した飼い犬が主人の帰宅を恐れているかのような姿だ。だがその内面は見た目ほど穏やかではなかった。
魔獣の内部にいる落谷は苦戦していた。
「うっ……こいつ強い…」
魔獣の肉体が持っている破壊の本能が、落谷の頭脳によるコントロールに抵抗している。
今までの二体よりも抵抗が大きい。
魔獣として現れた瞬間、落谷は朦朧とした状態であったため、魔獣がスタンドを破壊するのを止められなかったのだ。
「クッソ、俺が脳なんだから言うことを聞け!」
魔獣は眠りながら悪夢を見ているかのように、突発的に手足を動かす。
そこに魔法少女となった木須屋が飛んできた。
「うわ、もう壊してる!」
「トイキ、まず隠蔽シェードを貼れ」
ソダリーの言う通りに隠蔽の魔法を放つ。
球場を覆うように巨大な魔術の幕がかかる。これでこの内部の変化を知覚できる人間はほとんどいなくなる。
魔獣の三つ首がそれぞれ別の空を向き吠えたける。飛び出そうとするが三つの首が別々の方向を目指して転げ回り、内面の混乱ぶりがよく分かる。
落谷にも木須屋の到着は見えたが、そちらに意識をやった瞬間にすべてを持っていかれそうで気を緩められない。
「でも落谷さん、頑張っているみたいだね」
落谷の頑張りの結果、三つ首のケルベロスは、自分の尻尾を追いかける馬鹿な犬のような状態になっていた。回転の勢いがつきすぎて胴体がスタンドをかすめた。それだけで外壁は剥がれ客席がいくつも飛んだ。
「トイキ、あまり悠長にはしてられないぞ」
「わかってる!だから私も、協力する!」
そう言うと木須屋は一気にピッチャーマウンドに着地した。
ケルベロス魔獣の眼前だ。
目の前の餌に飛びつく魔獣。その勢いはブルトーザーが迫るどころではない、ブルトーザーを投げつけられた勢いだ。
マウンドに無防備に立った木須屋は
「落谷さん、ガンバレェー!」
思いっきりの大声で応援した。
寸前にまで魔獣の顔が迫っていたのに。
その瞬間、魔獣の前右足が体の意思に反して思いっきり地面を叩いた。
勢いをつけすぎた体が空中に飛び上がり、回転しながら木須屋の上空を通り過ぎた。
魔獣はライト側のフェアゾーンに顔面から滑り込んだが、四足獣特有の敏捷性で滑りながらも立ち上がり、外野を大回りしながら再び、キャッチャーマウンドの木須屋を襲うコースに入る。
外野から剛速球でブルトーザーがバックホームされる、そんな勢いで魔獣が迫る。
それに対して、再び無防備な木須屋が叫ぶ。
「負けるな落谷さん!」
またしても本能に逆らった片足が襲撃を邪魔した。飛び出した魔獣はピッチャーマウンドの木須屋を大きく飛び越え、ホームベースに顔面から飛び込んだ。
もう球場の芝生はメチャクチャだ。
審判のジャッジを確認するかのように上体を起こす魔獣。そこに甲子園出場校のマネージャーのように、最大の心を込めた応援が届く。
「ガンバレガンバレオーチーターニー!
負けるな負けるなオーチーターニー!
ファイト!ファイト!オーチーターニー!」
果たして応援は、落谷に届いていた。
「うおおおお!」
生まれてはじめて女子校生に応援されていた。それを裏切ることは、落谷には出来なかった。男であるなら、それは出来ない。
両手に意識を集め神経をつかめ、紡いで、魔獣を縛る綱にしろ。それを思いっきり引っ張った。魔獣の全身の神経をこの手に握る。
世界を破壊する魔獣を俺が平伏させる。
「オォーーチィーータァーーーニイーー!」
魔獣の目の前でチアガールのようにジャンプをした木須屋が、着地した瞬間に叫ぶ。
「伏せッ!」
ドスンと
球場中に響き渡る音と共に
ケルベロスは腹ばいの伏せをした。
それを見て、キラリと光る木須屋の瞳。
「オーチーターニー!チンチン!」
恥ずかしげもなくチンチンのポーズを取る魔獣。
「落谷、お回りぃぃ!」
飛び跳ねて命令する木須屋、それを実行して回転する魔獣。
応援で息が上がった木須屋が、伏せの姿勢で待機している魔獣のそばに近づく。
三つの首が彼女を見ている。
「ほら、ソダリー、落谷さんは出来る人なんだよ、やっぱり」
「これは、たしかにスゴイな。ワレワレの役に立つかもしれん」
「でもこれ、どうしよう。無抵抗なのを殺すのは抵抗あるな」
魔獣の鼻先をなでながら木須屋が考えこむ。
「三つの首を同時に切断すればいい。どれかにオチタニの本体があるはずだ」
「間違って落谷さん切っちゃったりして」
そう言った瞬間、木須屋もソダリーも上空を見上げた。
「ナニかが隠蔽シェード内に侵入したぞ!」
球場の上空に、キラリとひとつの星がきらめくと、それは分裂し、無数の流星になった。
「え?ミサイル?」
木須屋の目がその光の正体を捉えた。数十発の小型ミサイルが、魔獣の全てを破壊しようと降ってくる。
「落谷さん、避けて!」
回避行動を取りながら魔獣に警告を出す木須屋。だが魔獣は魔法少女に比べてあまりに大きく、機敏さに欠けた
いくつもの小型ミサイルが魔獣の体にあたり爆発する。
「アギョオオオオ!」
獣が上げた叫び声を、次々と着弾する弾頭がかき消した。魔獣の周りに爆発が続く。
「落谷さんッ!」
木須屋は叫びながらも上昇し、謎の攻撃者に迫る。
上空に立つ、その人物、その少女は。
「魔法少女?私以外にも?」
空中で仁王立ちする少女は、木須屋と同じ年頃、おそらく女子校生であろう。しかしその髪は流星のようにきらめく金髪だった。
木須屋は、きらめく金髪の魔法少女と夜空で対峙した。
球場は火を投げ込まれた大鍋のようだ、赤々とした光が上空を照らしている。獣の焦げる匂いと、獣の叫び声が空に立つ二人にも届いていた。
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