第3話 ディザスター・エスケイプ・ミー

 商隊と魔獣が戦いを繰り広げる、地獄と化したオルガノ城砦跡地。意識を失っていたアベルは、その喧噪の中沈んでいた意識を揺さぶられ目を覚ます。


 吹き飛ばされた際に馬車の下に転がり込むことになったアベル。目を覚ました彼がまず先に認識したのは響き渡る悲鳴と猛獣の唸り声、風を切る甲高い音、そして鈍く耳に届く打撃音という音だけでわかるほど混沌であった。しかし、音だけでは乱れ狂う状況の詳細まではわからない。一体外で何が起こっているのかわからずに困惑するアベル。意識が覚醒し身体と接続された瞬間、馬車の下から這い出ると目の前に広がる光景を瞳に収めた。

 

 目の前に広がる光景はまさに地獄絵図。彼の顔見知りである男たちが強大な魔獣の牙に引き裂かれバラバラで地面に零れている。その光景を見て逃げ惑う残された男たちとそれを守ろうとする護衛の戦士たち。そしてそれに襲い掛かる魔獣たち。護衛の人間もどうにかして魔獣の魔の手から商隊の男たちを守ろうとしていたが、数の暴力で圧されるうえ、一体一体も強い。


「グアッ!?」


 馬車の下から這い出てきたアベルの目の前に倒れこんでくる護衛の一人と魔獣。もつれこむように倒れた護衛は魔獣に馬乗りにされており、彼の頭は今にも迫りくる牙に食いちぎられそうになっている。倒れこんだ際に衝撃で手に握る剣を手離してしまっており、その剣は今、アベルの前に転がっている。護衛の人間は必死で魔獣の鼻を手を当て押し返そうとしているが、それよりも魔獣の力のほうが強い。その身体から溢れ出るパワーで護衛の人間を押し返すと、彼の頭にその牙をかけ勢いよく噛み砕いた。人が死ぬ光景を目の当たりにした一瞬アベルの思考が停止する。


 護衛の人間の頭を噛み砕いた魔獣は目の前に倒れこむアベルを視界に捉えると、そちらに首をもたげニヤリと口角を上げる。そして一瞬身を低く屈めたかと思うと倒れこむアベルに跳びかかった。それを見て一瞬のうちに自身の身の危険を察知するアベル。停止した思考を身体と直結すると一瞬のうちに馬車の下から這い出る。そして目の前に転がる剣を手に取ると跳びかかってくる魔獣を回避した。


 魔獣の飛び込みを回避したアベルは回避の勢いでゴロゴロと転がると、身を翻し体勢を立て直し咄嗟に魔獣に剣を突き付けた。回避された魔獣は回避したアベルを睨みつけている。


 魔獣に睨まれるアベルは周りの様子を伺えるようになり、改めてぐるりと周囲を見回した。既にその場に立つ人間は三分の一ほどまでに減っており、人が減ってしまったことで魔獣は殺された男たちの奪い合いをしている。


 知り合いがみるみるうちに殺されていく光景にアベルは魔獣の恐ろしさというものを実感する。今にも牙を向けようとしている魔獣たちに囲まれ膝が笑い始め、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。


 恐怖で身動きが取れなくなったアベル。しかしそんな中でもどうにかこの窮地を切り抜けるための突破口を見出そうとし、再び周囲を見回した。そんな彼の視界に一つの物が入る。彼の右側面で魔獣に囲まれ、護衛に守られている男。道中で娘が誕生日だのといった話をしたあの男であった。


 そこからのアベルの行動は早かった。なぜ身体が動いたのかも彼には理解できていなかった。まるで操り人形のように恐怖という意思に反しての行動。自分の身の安全など勘定に入れない反射だけの行動、魔獣に裸で飛び出すような無謀な行為であった。ただ一つ言えることは、その行動が脳が考える前に勝手に体が動いてしまっていたことだけだった。


 男を囲む魔獣に対して飛翔する一本の矢。風を切って飛翔する矢は魔獣の一体に命中し、その眼を大きく抉った。目の前で起こった突然の出来事に男たちは矢の飛んできた方向に視線を向けた。


「こっちだ。付いてこい!!!」


 その方向にはもともと持っていた弓を撃ち放った後の体勢で魔獣に囲まれるアベルがいた。彼は彼のことを視認した瞬間、腰に携えた矢を弓につがえると魔獣に向けて打ち出した。目的は彼らを囲む魔獣の注意を引きつけ、この場から引きはがすことである。


 彼自身、娘の居る彼を魔獣に殺させるわけにはいかないという気持ちがどこかにあったのかもしれない。しかし、彼自身はそれに気づく前に行動を起こしていた。


 だが、彼の行動も血気盛んとかそういった感情ゆえに起こされたものではなかった。彼の身体は小刻みに震えており、それにつられるように手に持つ弓も揺れている。恐怖が払しょくできた。そんなわけがない。


 しかし弓を放ってしまった以上、もう彼に投げ出すことはできない。彼の行動に激昂した魔獣は唸り声をあげながら大きく吼える。それに加えて彼の周りの魔獣も彼に睨みを飛ばしている。もうどうすることもできない。


 魔獣の注意を一手に引き受けたアベルは男に背を向けると魔獣たちを引きはがすため、全速力で走り始めた。それを追いかけるように魔獣たちも一斉に行動を起こし始める。そのうちの一匹の魔獣はアベルの進路を妨げるように前に立ち塞がった。それを見たアベルは考えるより先に反射だけで行動を起こす。その手に握る剣を振りかぶると魔獣に対して全力で投擲する。先ほどの打った矢ほどの速度で飛翔した剣に一瞬反応の遅れる魔獣は、剣を回避することができずに胴体に剣が突き刺さる。


 たじろぎ後ずさる魔獣の横をすり抜け包囲を抜けたアベルは、走りながら地面に転がる他の剣を拾い上げると一目散にその場から離れていく。その背中を追いかける魔獣。両者はすさまじい速度でその場を離脱する。


 しかし当然のごとく、アベルは魔獣に追いつかれそうになる。アベルの身体能力は高いが、それだけで魔獣を超えるほどのものではない。魔獣の身体能力は人類のはるか上をいっている。その二者が純粋な走り合いをすればアベルが追い付かれるのは自明の理である。


 だが、アベルだってそんなことは理解している。何も考えずに走っているわけではない。アベルは走りながら後方から追ってくる魔獣との距離を測り、一定の近さまで来たところで弓、あるいは剣で魔獣の足に向かって攻撃を仕掛け、うまくこれを成功させていた。これで一匹一匹の足止めに成功しながら逃げ続けていた。


 しかし、これを続けるには相当の集中力と胆力がいる。何せ、今彼を追っている魔獣はオオカミ型。足よりも先に口がアベルにつく。つまりアベルよりも先に攻撃を届かせることができるということだ。そんな中でアベルは無数の牙生える口の攻撃を躱し足だけに攻撃を加えている。かなりの集中力を削る行為である。おまけに天窓からわずかに差し込む光でほとんど視界が通らず、非常に魔獣の姿が捉えにくい。これも神経を削る原因となっていた。


 当然これを続けているアベルの息は次第に切れていき動きにキレがなくなる。完璧に躱せていた攻撃が躱せなくなり体に生傷が刻まれていく。ただでさえ勝手知らぬ道の場所で逃げ続けるために神経を尖らせている。その分摩耗も早い。


 逃げ始めてから三十分。魔獣をいなしながら城砦の中央付近まで逃げるころにはアベルの息は完全に上がってしまっており、体中に生傷が浮かんでいた。攻撃を躱しきれずに牙や爪で削られたもの、逃げる際に瓦礫に引っ掛けてできてしまったもの。理由は違えど彼の身体に傷をつけていた。


 逃げきれない可能性が高くなったと判断したアベルは少しでもいいから休憩を取ろうと扉を蹴破るとその中に飛び込んだ。その先が狭い空間であるならばアベル唯一の有利点である小柄を生かして少しは休憩をとることができる。


 しかし、その先は見るも見事な大広間。広々とした空間の広がっており、すこし高くなった奥には巨大な設置式の椅子が置かれている。当然遮蔽物も何もないこの空間では彼の比較的小柄な体躯などただのデメリットでしかない。加えてここは行き止まり、どこにも逃げ場がない状況であった。


 しくじった、アベルがそう考えるのとほぼ同時に魔獣の足音が近づいてくる。こうなったら仕方ない。アベルは広間の奥に走り出す。そのほんの一瞬後に魔獣たちもアベルの匂いを嗅ぎつけて広間へと足を踏み入れてくる。魔獣の数は十体。今のアベルが相手をできる数ではなかった。


(ここまで、か……) 


 彼を囲い込みながら唸り声をあげている魔獣たちを見て、諦めの感情が浮かび上がるアベル。腕っぷしは強いが彼の腕っぷしが強かろうともはや彼にできることはない。歴戦の戦士でも命を落としかねないレベルであった。まさに四面楚歌の状態である。


 しかし、そんな状況でもアベルは希望を捨ててはいない。きっとどうにかできるはずだ、と気持ちを切り替え覚悟を決めるとその手に握る剣を握り直し、魔獣に向ける。


「アアアッ! 来いっ!!!」


 そして大きく息を吸い込み裂帛の気合を吐き出した。同時に自身の中に残る少しの勇気を振り絞る。その気迫に一瞬圧される魔獣であったが、相手が一匹であることを改めて認識すると好戦的な唸り声を上げ始める。そんな中で最も大柄な魔獣がアベルの前に出る。そして身を屈め踏み込む態勢を整えると体をバネのように絞りアベルに飛びかかった。


 ここで大きく踏み込み飛びかかったことが大きく幸いすることになる。もともと長い年月でこの城は風化し大部分の強度は大きく低下している。当然床も風化しており、一部は子供が乗っただけで抜けてしまうほどもろくなっていた。そして彼らが立っている広間の下に大きく空間が広がっている。こんな状況で魔獣が十体以上集まって床が今まで耐えていたのが奇跡のようなものだった。


 最後の一押しとなったオオカミの踏み込み。この踏み込みによって足元の床の一部が抜ける。そしてそれに連鎖する形で広間全体の床が崩れていき、一瞬のうちにアベルたちの立っていた足場が失われる。


「うわッ、なんっ!?」


 予想だにしない突然の出来事にアベルは思わず声を上げる。彼と同じように魔獣たちも何が起こったのかわからないといった様子で動きを止めている。

 

 足場を失ったアベルたちは重力に従って落下を始める。密集する形でアベルを囲い込んでいた魔獣たちは、一部もつれ込むような形で落下していく。その影響で動物特有のしなやかさが発揮できずにもろに地面に激突するものもいた。


 その一方で落下が始まる直前、アベルはわずかに残された足場を踏むと近くの魔獣の背に飛び乗りそれをクッションとして自分のダメージを減らす。おまけに剣をその魔獣の首に突き刺し捻って切り裂き息の根を止めるという抜け目のなさである。反射的に行動しきっちりと仕留めるその動きはまさに獣であった。


 轟音とともに地面に叩きつけられた魔獣とアベル。落下のショックで何体かの魔獣は命を落としており、すべての魔獣が何らかのダメージを追っていた。


「た、助かった……」


 そんな中、魔獣の身体もとい死体をクッション代わりにしてダメージを抑えたアベルが立ち上がる。多少衝撃でダメージは受けたが、それでも身体に影響の出るようなダメージは受けずに済んだ。剣を引き抜きながら立ち上がったアベルは周囲を見回し、魔獣の死体を見回す。彼が見まわす中で動き出す魔獣はおらず、薄暗い中でもはっきりと認識できた。


「生き残ったぁ……」


 大きく息を吐き、安堵するアベル。集中が切れ彼の体から力が抜ける。それに従った彼はうずくまるようにしゃがみ込むと頭を片手で覆い隠した。その奥はあれだけの魔獣に囲まれて生き残ることができた喜びと押し殺していた恐怖でひきつった笑みがこらえきれなくなっていた。とはいえあの状況で生き残ろうことができたというのは安堵しても許されるべきことである。今の彼に安堵の時間があっても構わないだろう。


 しかし彼に時間が与えられたとしても、それは魔獣にはまったく関係のないことである。集中が切れ安堵しており、頭を手で覆いこむことで視線の切れているアベルは闇の中でゆっくりと動く影に気づかない。起き上がったのは床が抜けた元凶、先ほどアベルに飛びかかった魔獣たちの中でも最も大柄な魔獣であった。さらに続いて二体の生き残った魔獣が立ち上がる。


 先ほど床が抜けたのをアベルのせいだと考えている魔獣はその身を激昂で燃やし震えている。暗闇の中でしゃがみ込むアベルを見つけた魔獣はその瞬間殺気を放出すると、弾丸のように駆けだした。


 放たれた殺気を一身に受けたアベルはまだ終わっていないことにここで気づき、顔を上げ周囲を見回した。そこでようやく自分のもとに駆けてくる魔獣を視認した。しかし、気づいたときにはもう遅い。アベルは魔獣のタックルを受け大きく吹き飛ばされた。


 巨大な魔獣のタックルで吹き飛ばされるアベルはその衝撃で体内に残る空気を空中ですべて吐き出す。二、三秒滞空した後、着地したアベルは何度も転がりながら勢いを失っていく。着地した後も衝撃が身体に残るアベルは意識と身体は直結しているにもかかわらず、それに反して全く動くことができない。


 吹き飛ばされたアベルに牙をむこうと駆け寄ってくる残りの魔獣。アベルの手に胴体に噛みつくとまるでおもちゃのように振り回し叩きつけ、魔獣同士で投げあう。噛みつかれる直前に何とか剣を差し込むアベルであったが、それでも魔獣の牙は彼の体に食い込んでいき、彼の体を傷つけていく。


 ひとしきり弄んだ魔獣は興味がなくなったようにアベルを投げ捨てた。身体から流れる血で道を作りながら転がっていくアベル。そんな彼を食らおうと歩み寄ってくる大型の魔獣。それから逃げることもできないまま、倒れこむことしかできないアベル。


 朦朧とする意識の中、魔獣が近づいてくることを確認したアベルは逃げ出そうと無意識のうちに身体を動かそうとする。しかし、彼の意志に反して身体は全く動かずかろうじて首を動かすことができる程度。最後のあがきで首を動かしたアベルは朦朧とする意識の中であるものを視認した。


 地面に刺さるようにして置かれた一本の剣。あまりにも不自然な場所に置かれていたその剣に、一抹の疑問が浮かび上がるがそんなことを塾考している余裕はアベルにはなかった。


 しかし、アベルは魔獣の牙が迫る中、吸い込まれるようにズリズリと身体を動かしながらその剣に手を伸ばす。まさにその一振りが最後の希望であることを無意識のうちに察しているかのようであった。


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