43.甘い匂い

 厨房は甘い匂いで満たされている。


 お昼ご飯を食べて、後片付けも済ませた穏やかな午後。

 ディエ様は豹のお姿になって、ふらりと食堂を出ていった。欠伸をしていたからきっと裏庭でお昼寝をするのだろう。


 そういえば人の理から外れてしばらく経つけれど……相変わらず三食しっかり、おやつもきっちり食べる生活は変わっていない。確かにお腹が空いて堪らないという事はないけれど……食べないと何だか寂しくなってしまう。

 食べることも好きだし、食卓を囲んでのお喋りも好きだから、これからもきっと変わらないのだろう。三人もそれに付き合ってくれるから有難く思っている。


 そんな事を思いながら、わたしは柔らかくしておいたバターを泡だて器で混ぜていた。

 今日、わたしが作るのはパウンドケーキ。ラム酒を強めに効かせたドライフルーツを沢山混ぜ込んだケーキだ。作るのはこれで何度目になるだろう……三回目くらいだろうか。

 リオに教えて貰ったこのケーキは簡単だし美味しいから、いつの間にかわたし一人でも作れるようになっていた。


 ディエ様ははっきりと言葉にしなかったけれど、きっとこのパウンドケーキがお好きなはず。以前作った時に、いつもよりも食べていたのをわたしはしっかり見ていたのだ。


 ルカはミルフィーユ、リオはチョコレートタルトを作っているらしい。

 手際のよい二人は、もうオーブンを使うところまで出来ているけれどわたしはまだ掛かりそうだ。


「クラリスクラリス、オーブンを温めておいてもいい?」


 手が空いたらしいルカが声を掛けてくれる。

 わたしは滑らかになったバターにお砂糖を混ぜながら大きく頷いた。色が白っぽくなったところに溶いておいた卵を分けて入れる。そしてまたしっかりと混ぜる。


「ええ、ありがとう。助かるわ」

「クラリスクラリス、今日は紅茶? それともコーヒー?」


 リオの問いに手を止めて、少し考えてしまった。

 このケーキなら紅茶もコーヒーも合うけれど……きっとディエ様はコーヒーを好むだろう。


「コーヒーにするわ」

「用意しておく。砂糖とミルクも」

「ありがとう」


 まだ苦いだけのコーヒーには慣れないけれど、ミルクとお砂糖を入れたものも美味しいからいいのだ。

 リオがコーヒーの準備をして、ルカがそれを手伝っている。カップを選ぶ少し高い声も賑やかで、穏やかな日常がここにあった。


 卵を混ぜおわって、それから薄力粉。ふるい入れた粉を、ヘラを使って切るように混ぜる。最初はそれがよく分からなかったけれど、最近では中々様になってきたんじゃないかと自分でも思っている。

 うん、いい感じ。


 ラム酒に漬けておいたドライフルーツも水気を切って用意してある。そこに粉を少しまぶすのがコツなのだと教えて貰った。これをするとドライフルーツがケーキの底に沈まないで済むのだとか。


 そのドライフルーツも生地に混ぜ込んで……全体によく散らばってくれた。このまま焼き上がってくれたらいいけれど。

 用意しておいた型に流して、中央を少しへこませてからオーブンで焼けば出来上がり。表面が焼けてきた頃に、綺麗に割れるように表面にナイフを入れる工程もあるけれど、もう作業も大体が終わり。

 温かなオレンジ色で満たされたオーブンの中を見ながら、口元が綻ぶのはどうしようもなかった。



「クラリスは最近、もっと綺麗になった」

「クラリスは最近、輝いているように見える」


 焼き上がるまでの間は、スツールに座って三人でお喋りをするのが日課になっている。この後のお茶の時間に響かない程度のおやつと紅茶を添えての時間はとても楽しい。

 いまはまっている趣味の事だとか、今日の献立の事だとか。他愛もない話だけど話題は尽きない。近いうちにまたピクニックをしようなんて話をした後、不意に二人がそんな事を口にした。


「そう、かしら? だとしたら、二人が磨いてくれているおかげよ」


 ルカもリオも時間があればわたしに手を掛けてくれる。

 ぱさついていた髪だって丁寧に髪油を塗って梳かしてくれるおかげで、艶々になっている。してくれるマッサージや塗ってくれる薬のおかげで肌の調子だっていい。

 栄養たっぷりの食事やゆっくり眠れる環境だったり、寝台がふかふかだったり、色んな理由があると思うのだけど。でもそのどれもが、二人が与えてくれたものだ。


「ルカルカ、本当にそれだけだと思う?」

「リオリオ、それだけではないと思う」

「恋かな」

「恋だな」


 二人は顔を見合わせて、揃った動きで大きく頷いている。それが何だか可笑しくて笑みが零れた。


「恋は人を美しくすると本に書いてあった」

「愛される事で輝くとも書いてあった」

「クラリスを見ているとそれが本当だったと分かる」

「クラリスは輝きに満ちている」


 予想外の言葉に、飲んでいた紅茶を噴き出しそうになってしまった。

 恋もしているし、愛されているとも思うけれど……それを肯定するのも気恥ずかしいものがある。羞恥を誤魔化すように小さな花の形をしたジャムクッキーに手を伸ばした。


「二人が幸せだと私達も嬉しい」

「二人が幸せだと私達も幸せ」


 その二人とは、わたしとディエ様なのだろう。

 ルカとリオが心からそう思ってくれているのが伝わってきて、わたしは微笑を浮かべながら頷いた。


「ありがとう。あなた達が居てくれるからこそよ。それにわたしも……きっとディエ様も、あなた達が幸せで健やかに過ごしてくれていたら嬉しいし、もっと幸せになれるわ」


 二人はわたしの大事な友達であり、姉であり、妹だった。

 それはこれからもずっと変わらないだろうと思う。


「では美味しいものを食べてもっと幸せになろう」

「そろそろパウンドケーキも焼き上がる」


 ルカの言葉を合図にしたかのように、オーブンから鈴の音がした。焼き上がりを報せる音に、わたしは手にしたままのクッキーを口に放り込んでから席を立った。



 オーブンを開くと、甘い香りが強くなる。

 じゅうじゅうと音を立てるケーキはまだ熱々で、見るからに美味しそう。綺麗な山を描いているし、割れ目もしっかり入っている。うん、大成功と言ってもいいな。


 リオが作ったミトンを使って天板を取り出し、ケーキを型からそっと外す。側面も美しい色に焼き上がっているし、今までの中でも一番の自信作かもしれない。味見はしていないけれど、美味しいのはもう分かっている。


 ラム酒を表面に塗り込んで、少し冷ます。

 早く食べて欲しいから、指先に風を生み出してそれも使ってしまった。乾かないよう、直接風を当ててはいけない。

 その後もラム酒を塗る事を繰り返していたら、甘さだけでなくお酒も香るケーキの出来上がり。


 冷めたケーキを切り分けると、ドライフルーツも満遍なく散らばっている。内心で安堵しながらルカとリオの分もたっぷりお皿に分けた。ラム酒を塗ると日持ちがするらしいけれど……わたし達はいつも一日でこれを食べきってしまう。

 二人が作ったミルフィーユとチョコレートタルトも、綺麗に盛り付けられてワゴンに載せられていた。見ればコーヒーで満たされたポットやお砂糖、ミルクもワゴンに用意されている。


「二人は今日はどこに居るの?」

「サロンで本を読みながらお茶にする」

「それなら一緒に裏庭に来ない?」

「遠慮する。甘いおやつが、あてられたらもっと甘くなってしまう」


 誘ってみるけれど二人はくすくすと笑いながら断ってしまう。二人がお茶に付き合ってくれるのは、五日に一回といったところだろうか。

 少し寂しくなっていると、それを読み取ったのかリオとルカがわたしの腕をそっと撫でた。


「明日は一緒にお茶にしよう」

「ボレロを編むのだろう? 一緒にやろう」

「……絶対よ?」

「約束」

「約束」


 わたしよりも幼く見える二人に宥められている様子は、傍から見たら可笑しいものかもしれない。でも、いいのだ。

 明日の約束に気分が浮き上がる事を自覚して、わたしは二人を両腕にぎゅっと抱き締めた。「苦しい」などと言いながらも二人の声は楽し気だ。


 満足するまで二人を抱き締めてから、ゆっくりと腕を離す。

 二人もお茶セットを準備したワゴンへ向かい、わたし達は揃って厨房を後にした。



 廊下の途中で別れ、わたしは裏庭へと急ぐ。

 今日も花畑では春の花が軽やかに揺れて、花香を風に飛ばしている。


 東屋へと繋がる石畳を歩くと、東屋のベンチで寝転んでいた豹の姿のディエ様が顔を上げた。

 何も言わないけれど、立った尻尾が揺れているからご機嫌は宜しいようだ。


 東屋の向こうに広がる空は深い青。

 今日も素敵なお茶の時間になりそうで、わたしの足取りも軽くなるばかり。

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